第三十二話 執事長の秘密
会議室の扉が閉まり、喪布の影が廊下へ長く伸びた。
結論は出たはずなのに、王宮の空気はまだ落ち着かない。
何かが終わったというより、ようやく終わらせ方を決める段階まで来た、そんな重さだった。
窓辺に立つベルの背後へ、白手袋の気配が近づく。
振り向かなくても分かった。執事長だ。
「ベル様。少し、お時間をいただけますか」
「……はい」
案内されたのは、礼拝堂裏の小控え室。
椅子と小卓だけの、飾り気のない部屋。
扉が閉まると、執事長——ヨハンは二歩ぶんの距離を置いたまま、深く一礼した。
「本日、陛下のご遺志は果たされました。ならば、私の『偽り』も清算せねばなりません」
「偽蜜蝋のことですね」
「はい」
ヨハンは目を伏せた。
「私は陛下の命に従いました。秘喪の間、必要なら偽りを用意しろと。守るための偽りでした。……ですが、偽りは偽りです。守るために持った刃を、私は王宮の中へ残した」
「その刃を、補佐が使った」
「はい。あれは私の監督不行き届きです」
言い訳の色はなかった。
補佐を切り捨てる言い方でもない。
ただ、自分の責任として引き受けている声。
「補佐は私の影でした。私の権限を使い、私の名で動ける位置にいた。私はそれを便利だと見なした。——結果、悪意に道を与えました」
ベルは静かに問う。
「執事長——いえ、ヨハン。それで、あなたはどうするつもりですか」
「執事長職を辞します」
短い答えだった。
迷いのない、用意してきた答え。
「私がその座に居続ける限り、王宮は『偽りの匂い』を引きずります。ですから、補佐の裁定と偽蜜蝋の処理が終わり次第、私は職を退きます」
ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。
「入る」
レオンハルトが入ってくる。
ベルとヨハンの顔を見て、状況をすぐに理解した。
「執事長。辞意か」
「はい、殿下」
「辞表は受け取る。だが今日ではない。ことが済むまで、お前は執事長だ」
「……かしこまりました」
ヨハンは頭を下げた。
安堵ではなく、受け止めた人の頷き。
ベルは二人を見てから、口を開く。
「でも、辞めるだけでは駄目です」
「ベル様?」
「あなたがいなくなれば、王宮は少しきれいに見えるかもしれない。でも、それだけじゃまた同じことが起きます」
ヨハンの目がわずかに開く。
ベルは続けた。
「だから、辞める前に仕組みを残してください。偽蜜蝋は全部廃棄。封印棚は空にする。鍵は刷新。保管は第三者化。書記局と香料庫の出入りは単独不可。必ず二人以上で入り、その場で記録を写して、別の場所にも保管する」
「……監査、でございますか」
「そうです。人が壊れても、すぐには刃を抜けない仕組みを」
ヨハンはしばらく黙っていた。
それから、深く頷く。
「承知いたしました。辞する前に、監査の手順まで文書に残します」
「それを、あなたの最後の仕事にしてください」
「はい。ベル様」
レオンハルトが低く言う。
「執事長。お前は最後まで清算しろ。逃げるな」
「逃げません」
ヨハンはまっすぐ答えた。
その声には、ようやく執事長ではなく、一人の人間としての覚悟があった。
「私は『守るため』を言い訳にしました。しかし本当は、王宮の体裁と、自分の職務も守りたかった。ならば最後は、その体裁ごと正します」
「お願いします」
「はい」
逃がされなかったことへの、静かな受諾だった。
「最後に」
執事長は改めてベルを見た。
白手袋の指先が、わずかに揃え直される。
「ベル様。あなたが選ぶ相手——『真名』を渡す相手は、どうか『自由に』お選びください。陛下の遺言の続きを私が隠したのは、あなたが『選ばれる側』ではなく、『選ぶ側』であるためです」
ベルは息を吸った。
執事長が『真名』という言葉を口にしたのは初めてのこと。
しかしその言葉は、脅しではない。祈りに近い。
長いあいだ、王の傍に仕えて、黙っていた人間が、ようやく返すべきものを返してくれた。そんな響きだった。
ヨハンはもう一度礼をし、静かに退出した。
扉が閉まる。
控え室に残った静けさの中で、ベルは小さく息を吐いた。
レオンハルトが横で言う。
「甘いな」
「甘いですか?」
「辞めさせるだけで終わらせなかった」
「終わらせたら、誤った意志を継ぐ者が出てきて、また同じことが起きます」
ベルは言い切った。
「私が王になるなら、私の王宮は『責任を取って終われる場所』であってほしい。切って終わりじゃなく、仕組みを残して終わる場所にしたいんです」
レオンハルトは一拍置き、ふっと息を吐いた。
「……お前が王でいい」
ベルはその言葉に、さっきより少しだけ現実味を感じた。
王位はまだ遠い。
でも、遠いままではいられないところまで来たのだと分かる。
レオンハルトが続ける。
「ベル」
「はい」
「俺は、お前の甘さが好きだ」
ベルの心臓が跳ねた。
告白の返事はまだできない。
でも、『好き』が言葉として増えていくのが怖い。
増えるたびに、逃げ道が少しずつ減っていく気がした。
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