# Chapter 01 - Ep08: 接触
* * *
キャンパスの裏手。
駐輪場へ続く並木道を、私は全速力で走っていた。
肺が熱い。
焼き切れそうだ。
喉の奥から鉄の味がする。
運動不足の身体が悲鳴を上げているけれど、構ってなんかいられない。
スニーカーの音が、心臓の音と重なってガンガン響く。
夕日が長く伸ばす自分の影を、必死で追い越そうとするみたいに。
待って。
行かないで。
もしここで追いつけなかったら、もう二度と会えない気がする。
彼女は風みたいに消えてしまって、私たちはまた、出口のない地下室に取り残される。
それだけは嫌だ。
駐輪場のフェンスが見えてきた。
その向こうから、低い唸り声のような音が聞こえる。
ドッドッドッ……。
バイクのエンジン音だ。
単気筒特有の、腹に響くリズム。
まずい、エンジンがかかってる。
今にも発進しようとしているんだ。
「はぁ、はッ……!」
私は最後の力を振り絞った。
足がもつれそうになるのを気合でねじ伏せて、駐輪場の入り口へ飛び込む。
いた。
西日を背負って、黒い影が揺らめいている。
黒いタンクの、クラシックなバイク。
ピカピカのメッキパーツが、夕日を反射してギラギラとオレンジ色に燃えている。
無骨で、飾り気がなくて、でも圧倒的な存在感。
鉄とオイルの匂いが、風に乗って押し寄せてくる。
彼女はヘルメットを被ろうとしていた。
その手が、私の足音に気づいて止まる。
「あのッ!!」
声が裏返った。
でも、叫ばずにはいられなかった。
私は息を切らせながら、彼女のバイクの前に立ちはだかった。
行く手を阻むように、両手を広げて。
彼女はバイクに跨ったまま、ヘルメットを持つ手をだらりと下げた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、私を正面から見据える。
近くで見ると、その迫力に圧倒されそうになった。
切れ長の目。
整ってるけど、氷みたいに冷たい視線。
射抜かれるような眼力。
思わず「ひっ」てなりそうになる。
革ジャンの匂いと、ガソリンの匂い。
なんか、大人って感じがする。
私みたいな子供が近づいちゃいけない、危険な領域。
「……何?」
低い声。
ハスキーで、耳に残る声だ。
でも、その響きは完全に拒絶モード。
「近寄るな」って書いてある。
「邪魔だ」って言ってる。
エンジンが、威嚇するようにドッドッと低く唸り続けている。
まるで猛獣だ。
このまま轢かれるんじゃないかって、本能が警報を鳴らす。
でも、私は引かない。
ここで引いたら、私の物語は終わってしまうから。
* * *
「あ、えっと……私、文学部一年の響乃理って言います」
まずは挨拶。基本だよね。
心臓バクバクなのを悟られないように、精一杯の笑顔を作る。
頬がひきつっているのが自分でも分かる。
「……で?」
彼女は興味なさそうに、ヘルメットの紐をいじった。
塩対応すぎる。
目も合わせてくれない。
完全に「変な奴に絡まれた」という顔だ。
負けるな、私。
ここで怯んだら負けだ。
「さっき、掲示板見てましたよね? 『Polaris』のチラシ」
単刀直入に聞く。
駆け引きなんて、私にはできない。
それに、あの目を見ていたら嘘なんてつけない気がした。
彼女の眉が、ピクリと動いた。
ヘルメットを持つ手に力が入る。
革手袋がギュッ、と鈍い音を立てて鳴った。
「見てない」
即答。
早すぎるよ。
「見てました。すごく真剣に」
「見てないって言ってるでしょ。どいて」
彼女は不機嫌そうに吐き捨てて、サイドスタンドを蹴り上げた。
車体を垂直に引き起こすと、サスペンションがぐっと沈み込む。
逃げる気だ。
嘘つき。
あんなに見てたくせに。
あんなに寂しそうな顔をしてたくせに。
それに、その背中に背負ってる巨大な荷物は何なのよ。
「ベース、やってるんですよね?」
私の言葉に、彼女の動きがピタリと止まった。
空気が凍る。
カラスの声さえ聞こえなくなった気がした。
エンジンのアイドリング音だけが、やけに鮮明に響く。
彼女がゆっくりと顔を上げる。
その目に、鋭い光が宿ってる。
さっきまでの無関心な目じゃない。
敵意に近い、鋭利な光。
「……君には関係ない」
拒絶。
分厚い壁を感じる。
ATフィールド全開だ。
「関係あります! 私たち、今ベーシストを探してるんです。あなたがチラシを見てたってことは、少しは興味があるってことですよね?」
「興味なんてない。あんな……ふざけた条件」
あ。
言っちゃった。
「条件、読んでくれたんですね」
私は思わずニヤリとしてしまった。
墓穴掘りましたね、お姉さん。
「……ッ」
彼女はバツが悪そうに視線を逸らした。
図星だ。
やっぱり気になってたんじゃん。
あのマニアックな条件を読んで「ふざけてる」って思うくらいには、ちゃんと中身まで読んでくれたんだ。
私は一歩、近づいた。
エンジンの熱気が肌に伝わってくる距離まで。
* * *
「確かに、あの条件は厳しいです。私もそう思いました。『対位法的アプローチ』とか『変拍子』とか、何様だって感じですよね」
私はあえて同調してみる。
懐に入る作戦だ。
「……全くだ。頭でっかちなオタクが考えそうな文章だったな」
彼女がボソッと言った。
ちょっとだけ、口調が柔らかくなったかも?
毒舌だけど、そこに少しだけ親しみが滲んでいる気がする。
「あはは……まあ、否定はしません」
澪さんの顔が浮かんで、笑ってしまった。
確かに澪さんは「頭でっかちなオタク」だ。
それも、筋金入りの。
でも、最高にかっこいいオタクだけどね。
彼女も、少しだけ毒気が抜けたような顔をした。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
「でも、作った本人は本気なんです。妥協したくないって。……私、まだあなたの演奏を聴いたことありません……。」
「……当たり前だろ」
「でも、そのケース見たら分かります。すごく大事に使ってますよね。傷だらけだけど、手入れされてる。バイクだってピカピカだし……道具を大切にする人って、音も丁寧に扱うんだろうなって!」
バイクのエンジン、本当にてかてかだもん。
複雑な形のところまで、鏡みたいに磨き上げられてる。
汚れひとつついてない。
ベースもバイクも、彼女にとってはただの道具じゃないんだ。
自分の一部なんだ。
相棒なんだ。
彼女は少し目を見開いた。
予期せぬ指摘だったのか、瞳が揺れる。
そして、ふん、と鼻を鳴らした。
照れ隠し?
だとしたら可愛いとこあるじゃん。
クールぶってるけど、根は純粋な人なのかもしれない。
「おだてても何も出ないぞ」
「おだててません。……一度だけでいいんです。スタジオに来てくれませんか? 音を合わせるだけでいいので」
私は真剣な眼差しで訴えた。
伝われ、私の熱。
しかし。
彼女の表情が、また曇った。
「断る。私はもう、バンドはやらないって決めてる」
その声は、重かった。
鉛のようにズシリと沈む声。
もう、やらない。
その言葉の裏に、深い闇を感じた。
過去に何かあったのかな。
人間関係のもつれ?
音楽性の違い?
それとも、もっと決定的な挫折?
彼女の視線が、遠くを見るように宙を彷徨う。
ここにいない誰かを見ているような目。
でも、ここで引くわけにはいかない。
彼女の目の奥にある、音楽への未練みたいな光。
消そうとしても消えない残り火。
私はそれを見逃さなかったから。
「やらない」って言いながら、重いベースを背負って歩いている矛盾。
それが答えでしょ。
捨てられないんでしょ、音楽を。
***
「じゃあ、見学だけでも! 機材、結構いいの揃ってるんですよ。旧音響実験棟にあるんですけど」
「……実験棟?」
反応した。
キーワードに引っかかったぞ。
「はい。ヴィンテージのミキサーとか、真空管アンプとか。あ、あとスピーカーはJBLの4312が置いてあります」
彼女の目が、一瞬キラッとした。
あ、今光った。
獲物を見つけた猫みたいに。
機材オタクだ。
澪さんのプロファイリング通り!
やっぱりこの人、「こっち側」の人間だ。
「……あそこ、まだ入れたのか」
「知ってるんですか?」
「噂には聞いてた。廃棄寸前の機材が眠ってるって。……まさか、使えるのか?」
警戒心が薄れて、好奇心が出てきてる。
隠そうとしても隠しきれないオタクの血が騒いでいるのが分かる。
いいぞいいぞ。
「はい! メンテナンスもしてあります。澪さん……あ、キーボードの人なんですけど、彼女が完璧に調整してて。コンデンサも交換したし、はんだ付けもし直してます。電源周りも強化してあるので、アンプの鳴りが全然違いますよ」
澪さんから聞いた受け売りを、ここぞとばかりに捲し立てる。
意味は半分も分かってないけど、この際ハッタリでもいい。
「へえ……」
彼女は顎に手を当てて考え込んだ。
バイクのタンクを指先でコツコツと叩き、リズムを刻む。
迷っている。
理性が「帰れ」と言ってるけど、本能が「見たい」と叫んでる。
あと一押し!
最後の一撃だ!
「いい音、するんですよ。あの部屋」
「……」
「あなたのベースが、どんな音で鳴るのか、聴いてみたいです」
殺し文句。
ベーシストなら、自分の音が最高の環境でどう響くのか、気にならないはずがない。
自分の相棒が、本気で歌う声を聴きたくないはずがない。
彼女はチラリと私を見た。
最初の冷たさはもうない。
あるのは、隠しきれない好奇心と、少しの戸惑い。
そして、微かな期待。
長い沈黙の後。
彼女は小さくため息をついて、観念したようにヘルメットを被った。
カチリ、と顎紐を留める音が響く。
「……名前」
「え?」
「お前の名前」
シールドの奥から、くぐもった声。
「あ、響乃理です」
「私は星奈。……星奈望(Hoshina nozomi)」
望さん。
いい名前。
希望の望。
今の私たちに、一番必要なものだ。
暗闇の中で光る道しるべみたいな名前。
「望さん。……待ってますから!放課後、いつでも」
私は精一杯の笑顔で言った。
彼女は何か言いかけたけど、結局何も言わずにキックペダルを踏み込んだ。
ドッ、ドォォォン!!
エンジンが力強く唸る。
排気ガスが白く舞い上がる。
オイルの焼ける匂いが鼻を突く。
彼女は一度だけ振り返って、そのまま走り去っていった。
夕闇に消えていく赤いテールランプ。
その光が、新しい物語の始まりの合図に見えた。
約束はしてくれなかった。
「行く」とは言わなかった。
でも、拒絶はされなかった。
名前を教えてくれた。
それだけで十分。
今はそれだけで、奇跡みたいな進歩だ。
私は遠ざかるバイクの音を聞きながら、小さくガッツポーズをした。
やった。
第一段階、クリアだ。
この手応えは、確かにある。
一呼吸置き空を見上げれば、茜色から深い群青へと溶け落ちていく空の境界に、ぽつんと一番星が瞬き始めていた。
それが北極星なのかは、私には分からないけれど、
でも、前に進んでいるんだという実感を、今はただ、噛みしめていたかった。
「早く澪さんに報告しなきゃ」
私は、旧音響実験棟へ向かって、また全力で駆け出した。
* * *
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
これにて『Chapter 1:Polaris始動』は完結です。
理と澪、二人の音に惹かれて、少しずつ運命が動き始めました。
次回からは『Chapter 2:メンバー集結』編がスタート!
気難しいベーシスト・望との行方は? そして、もう一人のメンバーは……?
いよいよPolarisがバンドとして形になり、音が重なり合っていきます。
もし「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけたら、
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執筆のモチベーションが爆上がりします!
それでは、次の章でお会いしましょう!




