# Chapter 01 - Ep07: 孤独なベース
* * *
◆01◆
その背中は、夕闇の中で異質な存在感を放っていた。
掲示板の前。
私たちの『Polaris』のチラシを見つめる、一人の女子学生。
距離は十メートルくらい。
逆光で表情までは見えないけれど、その立ち姿だけで只者じゃないことが分かる。
背が高い。
私より頭一つ分は大きいかも。
長い黒髪を高い位置でポニーテールにして、うなじを晒している。
黒のライダースジャケットに、ダメージジーンズ。
エンジニアブーツの踵が、コンクリートの床をコツ、と鳴らした気がした。
ロックだ。
周りのふわふわした女子大生ファッションの中で、そこだけ空気が張り詰めている。
まるで、世界に対して喧嘩を売っているような佇まい。
彼女は腕組みをして、じっと掲示板を見上げていた。
その視線の先にあるのは――間違いなく、あの真っ黒なチラシだ。
「……」
私はとっさに柱の陰に隠れた。
心臓が、ドクンと早鐘を打つ。
初めてだ。
あんなに真剣に、私たちのチラシを見ている人なんて。
誰かに剥がされていないか、確認しに来ただけだったのに。
まさか、本当に「その時」が来るなんて。
行き交う学生たちは、彼女を避けるように歩いている。
彼女の周りだけ、目に見えない円が描かれているみたいだ。
誰も寄せ付けない、拒絶の円。
でも、私にはそれが、悲鳴のように見えた。
寂しいよ、誰か気づいてよ、って叫んでる。
そんな幻聴が聞こえた気がした。
* * *
◆02◆
私は息を殺して、彼女を観察し続けた。
まるで、森の中で珍しい野生動物を見つけた時のような緊張感。
音を立てれば逃げてしまうかもしれない。
彼女の横顔が見えた。
切れ長の目。
通った鼻筋。
美人だけど、すごく冷たい雰囲気。
耳にはシルバーのピアスがいくつも光っている。
軟骨にも開いてる。痛くないのかな。
そして、何より私の目を引いたのは、彼女の肩。
大きな、黒いソフトケース。
あの形。
ギターよりもネックが長くて、ボディが大きい。
ヘッドの部分が重そうに傾いている。
ベースだ。
間違いない。
しかも、ケースが結構ボロボロだ。
生地が擦り切れて、中のクッション材が少し見えている箇所もある。
ファスナーの引手は塗装が剥げて、銀色の地金が露出している。
ポケットには、スタジオの会員証やら、予備の弦やらが雑多に詰め込まれているのが膨らみで分かる。
これ、ファッションじゃない。
ガチで使い込んでるやつだ。
雨の日も風の日も、この楽器を背負って歩いてきたんだ。
ベーシストだ。
喉から手が出るほど欲しい、リズム隊の要。
しかも、あんなにかっこいい人。
話しかける?
いや、まだ見てるだけかも。
いきなり行って引かれたらどうしよう。
「何見てるんですか?」とか、ナンパみたいだし。
もし「見てただけですけど何か?」って冷たく言われたら、私の豆腐メンタルは砕け散る自信がある。
でも。
彼女の視線は、チラシから外れない。
睨みつけるように読んでいる。
『BASS募集』の文字を。
澪さんの書いた、あの無茶な条件を。
『対位法的アプローチ』
『変拍子への適応能力』
普通の学生なら、「何これキモっ」で終わりだ。
あるいは、「意識高い系?」と笑うかもしれない。
でも、彼女は笑わなかった。
むしろ、眉間の皺を深くしている。
それは、その言葉の意味を理解しているからこそ出る表情だ。
難解なハードルを提示されて、それを自身のプライドと照らし合わせている顔だ。
やがて、彼女はふぅ、と深く息を吐いた。
白い息が、夕闇に溶ける。
ため息?
呆れてるのかな。
それとも、諦め?
その瞬間、私の直感が警報を鳴らした。
チリッ、と背筋に電流が走るような感覚。
この人だ。
根拠なんてない。
澪さんみたいな論理的な推論じゃない。
もっと原始的な、動物的な勘。
あの背中から漂う孤独の色が、私には痛いほど分かった。
世界と上手くやれなくて、居場所を探してて、でも見つからなくて。
音楽だけが救いなのに、その音楽さえも誰かと共有するのが怖い。
かつての私と同じだ。
一人で河川敷でギターを弾いていた、あの頃の私と。
誰にも届かない音を、空に向かって投げつけていた日々。
彼女もまた、探しているんだ。
自分と同じ周波数で震える誰かを。
* * *
◆03◆
行け。
行け、私。
何を迷ってるの。
今ここで声をかけなきゃ、絶対後悔する。
一生後悔する。
あの背中は、ただの他人じゃない。
私が探していた「共鳴」できる相手だ。
私は一歩、踏み出そうとした。
足が重い。
コンクリートに接着剤で張り付けられたみたいに動かない。
怖い。
拒絶されるのが。
「お前じゃない」って言われるのが。
その時。
彼女が動いた。
チラシに向かって、ゆっくりと手を伸ばす。
黒い革手袋に包まれた指先。
連絡先をメモするの?
それとも、QRコードを読み取る?
違った。
彼女の指先は、チラシに触れる寸前で止まった。
あと数センチ。
その距離が、永遠のように感じられた。
空気が凍るような、長い一瞬。
彼女の指が、小刻みに震えているのが見えた。
寒さのせいじゃない。
迷いだ。
あるいは、恐怖。
この一線を超えてしまったら、もう戻れないという予感に対する恐怖。
「……チッ」
小さく、舌打ちが聞こえた。
それは誰かへの悪態じゃなくて、自分自身への嘲笑みたいに聞こえた。
踏み出せない自分への苛立ち。
彼女は手を引っ込め、強く握りしめた。
革手袋がギュッ、と軋む音が聞こえた気がした。
そして、くるりと背を向けた。
もう、チラシは見ない。
断ち切るように、足早に去っていく。
その背中は、どこか拒絶的で、そして泣きたくなるほど孤独に見えた。
夕日の赤が、彼女の影を長く、長く引き伸ばしている。
「あ……」
私は声を出すこともできず、ただ見送ってしまった。
長いポニーテールが揺れる。
ベースケースの重みが、彼女の肩に食い込んでいる。
行ってしまう。
また、一人に戻ってしまう。
なんで、あんな顔をしたんだろう。
なんで、触れようとしてやめたんだろう。
ただ興味がないだけなら、あんなに長く見たりしないはずだ。
あそこには、何かがあった。
彼女の心を揺さぶる何かが。
「……逃がさない」
私は小さく呟いた。
自分でも驚くくらい、強い言葉が出た。
喉の奥が熱い。
あの子だ。
あの子が、私たちのベーシストだ。
澪さんが言う「本物」は、きっとあの子しかいない。
私はスマホを取り出し、震える指で澪さんにメッセージを送った。
『見つけました。たぶん、私たちのベースです』
送信ボタンを押す。
既読マークがつくのを待つような余裕はない。
でも、返信は秒で来た。
まるで待っていたみたいに。
『確保しろ』
四文字。
句読点もなし。
相変わらずだなぁ。
でも、その短文から、澪さんの温度が伝わってくる。
「逃がすなよ」っていう、無言の圧力が。
私は苦笑しながらスマホをポケットにねじ込んだ。
確保しろ、か。
「言うのは簡単だけど、あんな強そうな人にどうやってアタックすればいいのよ」
誰もいない空間に、独り言が虚しく響く。
「睨まれただけで石になりそうなんだけど……」
さっきの舌打ち、超怖かったし。
不良だったらどうしよう。
カツアゲされたらどうしよう。
ネガティブな想像が次々と湧いてくる。
でも。
やるしかない。
ここで逃したら、二度と会えない気がする。
あの孤独な背中を、このまま一人にしておきたくない。
一人で音楽を抱え込む辛さは、私が一番よく知ってるから。
音楽は、一人でもできるけど。
一人じゃ、響き合えない。
私は、そのことを知ってしまった。
あの地下室で、澪さんと音を重ねた瞬間に。
だから、伝えなきゃ。
あなたもこっちにおいでよ、って。
ここなら、一人じゃないよ、って。
私は走り出した。
スニーカーが土を蹴る。
彼女が消えた方向へ。
まだ、追いつける。
駐輪場の方へ向かったはずだ。
あんな重い楽器を持って、徒歩で帰るとは思えない。
夕暮れのキャンパスを、私は駆けた。
生ぬるい風が頬を叩く。
息が上がる。
足がもつれる。
運動なんて久しぶりすぎて、肺が悲鳴を上げている。
でも、止まらない。
止まれない。
心臓の鼓動が、8ビートのリズムを刻んでいた。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
速くて、不格好で、でも力強いビート。
それは、新しい音楽が始まる予感のビートだった。
待ってて。
今、迎えに行くから。
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次回は1/12に更新します!




