# Chapter 02 - Ep09: 足音
* * *
放課後の旧音響実験棟。
その古びた建物の入り口で、私はスマホの時計と睨めっこしていた。
16時43分。
授業が終わってから、もう1時間近く経っている。
吹き抜ける風が冷たい。
コートの襟を合わせながら、私は息を吐いた。
「……来ないかな」
独り言が、夕暮れの空に溶けていく。
昨日の今日だ。
いきなり来てくれるなんて、都合が良すぎるかもしれない。
スマホが震えた。
澪さんからだ。
『寒いから中に入れば?』
彼女は実験棟の奥、あのスタジオで待っている。
「ううん、もうちょっと待ってみる。もし迷ってたら大変だし」
私はそう返信した。
この建物は入り組んでいる。
それに、もし来てくれたとしても、この不気味な廃墟みたいな外観を見て、帰ってしまうかもしれない。
だから、私がここで関所みたいに立っていないと。
『……そう。』
彼女も待っているのだ。
新しい仲間を。
まだ見ぬ低音を。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
階段の方から、硬い足音が響いてきた。
スニーカーじゃない。
ローファーでもない。
もっと重くて、しっかりした音。
エンジニアブーツの踵が、コンクリートを叩く音だ。
それが、一定のリズムで近づいてくる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
私は弾かれたように顔を上げた。
夕日が差し込む踊り場から、長い影が伸びてくる。
逆光の中で、そのシルエットが揺らめく。
黒いライダースジャケット。
肩には、巨大な黒い棺桶――いや、ベースケース。
その重みをものともせず、彼女は悠然と歩いてくる。
星奈望さんだ。
本当に、来てくれたんだ。
「……本当に待ってたのか」
私の目の前で足を止め、彼女は呆れたように言った。
昨日のような威圧感はない。
少しだけ、バツが悪そうな顔をしている。
手持ち無沙汰そうに、ベースケースのストラップを握りしめている。
「待ってました! 来てくれないかと思って、ドキドキしてました」
私は全力で頷いた。
嬉しさで顔がにやけるのを止められない。
「……暇人だな」
憎まれ口を叩きながらも、彼女は帰ろうとはしない。
その鋭い視線は、私の背後にある鉄の扉に向けられている。
値踏みするような目だ。
「入りますか? 澪さん……あ、キーボードの子も中にいます」
「……ここまで来て帰るのも癪だしな。機材、見るだけだぞ」
言い訳めいたことをボソリと呟いて、彼女は顎で扉をしゃくった。
素直じゃないなあ。
でも、そこがいい。
私は慌ててドアノブを回し、体重をかけて重い扉を押し開けた。
錆びた蝶番が、ギギィと低い音を立てる。
「どうぞ! ようこそ、私たちの秘密基地へ」
* * *
望さんが、ゆっくりと足を踏み入れる。
その瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
埃っぽい実験室の匂いに、革と微かな香水の匂いが混ざる。
ムスク系の、少しスパイシーな香り。
異分子の侵入。
でもそれは、決して不快なものではなかった。
むしろ、欠けていたピースがカチリと埋まるような予感。
部屋の奥で、澪さんが立ち上がった。
その色素の薄い瞳が、まっすぐに望さんを捉える。
瞬きもせず。
「……あなたが、ベーシスト?」
静かな声。
でも、そこには隠しきれない期待が滲んでいる。
「星奈望だ。……あんたが、この機材を組んだのか?」
しかし、望さんとキたら、澪さんには目もくれなかった。
彼女の目は、部屋中に散乱する機材群に釘付けだった。
まるで宝の山を見つけた子供みたいに、瞳孔が開いている。
ラックに積まれたコンプレッサー、UREI 1176。
複雑に配線されたパッチベイ。
足元に転がるエフェクターの数々。
そして、部屋の隅に鎮座する巨大なベースアンプ、Ampeg SVT。
彼女はベースを下ろすのも忘れて、アンプに歩み寄った。
黒いグリルクロスを、指先で愛おしそうに撫でる。
「AmpegのSVT……しかも、70年代のヴィンテージか。真空管の状態は?」
いきなり核心を突いてきた。
「プリ管は12AX7、パワー管は6550。先週交換したばかりだから、まだエージングが必要かも。バイアス調整は少し高めにして、歪みの立ち上がりを早くしてる」
澪さんが淡々と、しかし早口で答える。
専門用語の羅列。
私にはさっぱり分からない呪文だ。
でも、望さんの目の色が明らかに変わった。
驚愕と、そして歓喜の色に。
「8412……配線はベルデンか。電源はどうなってる?」
「ファーマンのパワーコンディショナーを通して、アイソレーション・トランスで昇圧してる。ノイズフロアは-90dB以下まで下げた」
「……マジか。そこまでやってるのか」
望さんが絶句する。
そして次の瞬間、彼女の唇の端が、ニヤリと吊り上がった。
獰猛な、でも心から楽しそうな笑み。
「面白い。……いい趣味してるじゃないか」
「あなたもね。一目でアンプの年式を見抜くなんて」
澪さんもまた、微かに笑っていた。
* * *
そこからは、私には理解不能なオタクトークの時間だった。
インピーダンスがどうとか、倍音がどうとか、コンプのアタックタイムがどうとか。
二人は初対面のはずなのに、まるで長年の戦友のように言葉を交わしている。
共通言語を持つ者同士の共鳴。
そこには、私が入る隙間なんて1ミリもなかった。
私は部屋の隅で体育座りをしながら、二人を眺めていた。
普段は無口な澪さんが、水を得た魚のように喋っている。
クールな望さんが、身振り手振りを交えて熱弁している。
なんだか、あたたかい。
蚊帳の外だけど、不思議と疎外感はなかった。
二人が楽しそうだからだ。
音楽という見えない糸で、二人の魂が結びついているのが見える気がした。
ひとしきり機材談義で盛り上がった後、望さんがふと我に返ったように咳払いをした。
「……まあ、環境は悪くないな。大学のサークルレベルじゃない」
「ありがとう。……弾いてみる?」
澪さんが、シールドケーブルを差し出す。
黒くて太い、蛇のようなケーブル。
ベルデンの8412だっけ。
望さんは一瞬ためらった。
その視線が、床に置いたベースケースに落ちる。
昨日感じた重い影が、また彼女の顔を過る。
迷い。
恐れ。
「……音を出すだけだ。バンドに入るとは言ってない」
予防線を張るように、彼女は言った。
自分自身に言い聞かせているようだった。
「分かってる。ただ、このアンプが、あなたに弾かれるのを待ってる気がした。」
澪さんの言葉は、相変わらず詩的で、核心を突く。
アンプが待ってる。
確かに、電源ランプの赤い光が、心臓の鼓動みたいに明滅している。
「早く」って急かしているみたいに。
望さんは観念したように息を吐き、ケースに手をかけた。
ジッパーを開ける音が、静寂を切り裂く。
ジャァァ……。
現れたのは、サンバーストのジャズベース。
フェンダーのヴィンテージだ。
ボディには無数の打痕。
タバコの焦げ跡みたいなのや、ベルトのバックルで削れた跡。
塗装が剥げて、木肌が見えている部分もある。
歴戦の傷跡。
彼女がこれまで、どれだけの時間をこの楽器と過ごしてきたか。
どれだけのステージに立ち、どれだけの汗と涙を吸ってきたか。
その傷の一つ一つが、雄弁に語っていた。
「……綺麗」
思わず声が出た。
ボロボロなのに、宝石みたいに美しかった。
魂が宿っている道具特有の、凄みのある美しさ。
望さんは慣れた手つきでチューニングを済ませ、シールドをジャックに差し込む。
カチッ、と硬質な音が響く。
アンプのボリュームノブを回す。
ブゥン……。
空気が震えた。
まだ何も弾いていないのに、部屋の気圧が変わった気がした。
スピーカーコーンが微かに振動し、見えない圧力が押し寄せてくる。
これが、ベースの存在感。
彼女がピックを構える。
右手が振り下ろされる。
ドォォォォォォン!!
腹の底を殴られたような衝撃。
ただの開放弦のE音。
それだけなのに、世界が揺れた。
床が振動し、その振動が私の足の裏から背骨を駆け上がり、脳髄を痺れさせる。
すごい。
音が、生きている。
* * *
そこからの時間は、魔法みたいだった。
望さんが適当なリフを弾き始めると、澪さんがそれに合わせてキーボードを重ねる。
合図なんてない。
言葉はいらない。
音が会話している。
望さんのベースは、攻撃的で、でも底知れない安定感があった。
地を這うような重低音。
それが、澪さんの構築する繊細な電子音の世界を、下から支え、突き動かしていく。
澪さんのシンセが宇宙だとしたら、望さんのベースは大地だ。
揺るぎない重力が生まれる。
その重力に引かれて、音が螺旋を描いて上昇していく。
すごい。
これがセッションなんだ。
一人じゃ絶対にたどり着けない場所。
1+1が2じゃなくて、10にも100にもなる化学反応。
私はただ、呆然と立ち尽くしていた。
自分のギターを取り出すのも忘れて。
指先が震えていた。
感動じゃない。
武者震いだ。
この音の中に混ざりたい。
この渦の中心に飛び込みたい。
強烈な渇望が、喉を焼いた。
十分ほど経っただろうか。
二人が同時に音を止めた。
まるで示し合わせたかのように、ピタリと揃ったブレイク。
残響だけが、耳の奥でジーンと鳴っている。
静寂が戻ってきた部屋は、さっきまでとは違う色に見えた。
「……ふぅ」
望さんが額の汗を拭った。
その顔には、隠しきれない高揚感があった。
頬が紅潮し、目が輝いている。
昨日の「死んだ目」とは別人のようだ。
今の彼女は、生命力に溢れている。
「……悪くない」
彼女はボソッと言った。
そして、愛おしそうにベースのネックを撫でる。
「あんたのキーボード、変な癖があるけど……嫌いじゃない。リズムの取り方が独特だ。ジャストより少し後ろ気味で、心地いい」
「褒め言葉として受け取っておく。あなたのベースも、とても……雄弁だった。言葉よりもずっと、あなたのことを語っていた」
二人が視線を交わす。
そこにはもう、敵意も警戒心もない。
あるのは、ミュージシャン同士の純粋なリスペクトだけ。
望さんはシールドを抜き、ベースをケースにしまい始めた。
動作の一つ一つが丁寧だ。
まるで、傷ついた戦友を労るように。
「……で、次はいつだ?」
背中を向けたまま、彼女が言った。
「え?」
私は聞き返した、
今、なんて?
「練習だよ。……入ってやるよ、あんたらのバンド」
心臓が止まるかと思った。
幻聴かと思った。
「ほ、本当ですか!?」
私は叫んだ。
「勘違いするなよ。機材が気に入っただけだ。こんないい環境、遊ばせとくのは勿体ないからな」
彼女は振り返り、少しだけ口角を上げて笑った。
「あと……久しぶりに、デカい音出したらスッキリしたからな。 ……悪くなかった」
ツンデレだ。
完全にツンデレだ。
教科書に載せたいくらいのツンデレだ。
私は嬉しくて、思わず彼女に抱きつきそうになったけど、睨まれそうだからギリギリで踏みとどまった。
「ありがとうございます! よろしくお願いします、望さん!」
「……チッ、暑苦しいな。あと、私のことは望でいい。敬語もなしだ」
「うん! 分かった、望ちゃん!」
「ちゃん付けはやめろ」
こうして、私たちのバンドに最強の低音が加わった。
Polaris、メンバー3人。
残るはあと一人。
リズムの要、ドラムだけだ。
スタジオを出て階段を上がると、廊下の向こうに夕暮れの空が見えた。
一番星が、昨日よりも強く輝いている気がした。
3つの星が繋がって、星座になる予感。
物語は、加速していく。
光の速さで。
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