# Chapter 02 - Ep10: ドラム不在
* * *
「……違う」
望の声が、スタジオの空気を凍らせた。
ブツン、とベースの音が止まる。
私も、Fコードを押さえていた左手を離した。
スピーカーからは、無機質なドラムの音が鳴り続けている。
ドン、タン、ドッドッ、タン。
ドン、タン、ドッドッ、タン。
正確無比。
一ミリのズレもない、完璧なリズム。
澪さんがプログラムした、打ち込みのドラムトラックだ。
これに合わせて演奏するのは、もう何十回目だろう。
最初は「便利じゃん」なんて思っていたけれど。
「何が違うの?」
私が恐る恐る尋ねると、望は苛立たしげに舌打ちをした。
長い黒髪を、乱暴にかき上げる。
「全部だ。ノリが出ない。こんな機械相手じゃ、グルーヴなんて生まれようがない」
彼女はベースをスタンドに置くと、パイプ椅子にドカッと座り込んだ。
腕を組み、不機嫌オーラ全開でモニターを睨みつける。
Polaris結成から数日。
私たちは早くも、壁にぶつかっていた。
ドラマー不在という、バンドにとって致命的な壁に。
「理論的には完璧なはず。キックのタイミングはジャスト、スネアは数ミリ秒後ろにズラして、人間的な揺らぎを再現した」
澪さんがPCの画面を見ながら、冷静に反論する。
その指先は止まることなくキーボードを叩き、細かな数値を修正していく。
画面には、複雑な波形データが幾重にも重なっている。
「そういう理屈じゃないんだよ、澪」
望が声を荒らげる。
「揺らぎを計算してる時点で、それはもう『揺らぎ』じゃない。ただの『ズレ』だ。人間が叩くドラムってのは、もっとこう……感情で動くもんだろ」
「……感情。パラメータ化できない要素」
「だから音楽なんだろ。定義できないものを合わせるのがバンドだろ」
二人の間に火花が散る。
理論派の澪。
感覚派の望。
水と油だ。
会話が噛み合っていない。
私はオロオロと二人を見比べることしかできない。
ギターを抱えたまま、完全に置き物状態だ。
(ど、どうしよう……)
でも、不思議と嫌な雰囲気ではなかった。
空気が張り詰めているのは確かだけど、そこにあるのは「良い音を作りたい」という共通の熱量だ。
お互いに譲れないものがあるからこそ、ぶつかり合っている。
それは、私たちのバンドが本気である証拠だとも思う。
ただ。
問題は解決していない。
前に進めていないのも事実だ。
「……じゃあ、キックの音色を変えてみる。アタック強めで、リリースを短く」
澪さんが操作すると、スピーカーから出る音が変わった。
ドッ、ドッ、ドッ。
少し硬い音になった。
「どう?」
「……さっきよりはマシだけど、まだ『点』なんだよな。音が『線』になってない」
「『線』……。サステインの調整?」
「違うって! あーもう、言葉じゃ説明できねえ!」
望が頭を抱える。
澪さんが首を傾げる。
このループ、あと何回続くんだろう。
* * *
「……休憩にしよっか」
見兼ねた私が提案すると、二人は同時にため息をついた。
同意らしい。
澪さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。
インスタントだけど、この殺伐とした空間では砂漠のオアシスみたいに美味しい。
「やっぱり、ドラマー探さないとダメかな」
紙コップの湯気越しに私が呟くと、二人が顔を上げた。
「当たり前だ。バンドにドラムがいないなんて、炭酸の抜けたコーラみたいなもんだ」
望が即答する。
言い回しが独特だ。
「……比喩が古い、望。でも、同意。打ち込みでは、ライブでのダイナミクス表現に限界がある。特に、理のボーカルスタイルには生の演奏が必要」
「え、私?」
「理の声は、感情の振れ幅が大きい。その些細な変化に反応して、リズムを変えられるドラマーじゃないと、歌が死ぬ」
澪さんに真顔で言われて、ドキッとする。
私の歌のこと、そんなに考えてくれてたんだ。
「そうだな。あんたの歌は、バックがしっかり支えてやらないと暴走するからな」
望がニヤリと笑う。
「暴走って……」
「褒め言葉だ。……で、どうすんだ? アテはあるのか?」
意見が一致したのはいい。
でも、どうやって?
「募集、かけてるんだけどね……」
私は掲示板に貼ったチラシのことを思い出した。
手作りの、想いだけは詰め込んだチラシ。
あれから数日経つけど、連絡は一件もない。
「やっぱり条件が厳しすぎたのかな。『初心者不可』とか書いてないけど、なんか敷居高そうに見えたかも」
「『対位法的アプローチ』とか書いてあったな。あれは澪の仕業か?」
「……必要なスキルセットを記述しただけ」
澪さんが悪びれずに言う。
やっぱり、普通の大学生は引いちゃうよなあ。
「大学内で探すしかないな。軽音サークルは潰れたんだろ? だったら、あぶれてるドラマーがどこかに潜んでるはずだ」
望の推理はもっともだ。
でも、キャンパスは広い。
楽器を持って歩いている人なんて、そうそう見かけない。
「心当たり、ないの? 理」
澪さんに聞かれて、私は記憶の引き出しをひっくり返す。
高校時代の知り合い?
いや、私は筋金入りの帰宅部だった。
音楽室の前を通るだけで心拍数が上がるような、陰キャだった。
大学に入ってからも、友達作りに出遅れて……いや、これ以上考えるのはやめよう。悲しくなる。
「……ない、です」
「使えないな」
望にバッサリ切られた。
うう、言い返せない。
ドン、タン、ドッドッ、タン。
会話が途切れた隙間を埋めるように、またドラムマシンの音が動き出した。
澪さんが再生ボタンを押したのだ。
正確すぎて、冷たい音。
心臓の鼓動とは違う、プログラムされた脈動。
この音が鳴っている限り、私たちは「バンドごっこ」から抜け出せない気がした。
「……なあ」
望が天井を見上げながら呟いた。
「理想のドラマーって、どんな奴だ?」
「え?」
「いない奴のこと考えてもしょうがないけどさ。イメージトレーニングだよ」
望はベースのネックを優しく握りながら言う。
その横顔は、少しだけ夢見がちに見えた。
「私はやっぱり、ボンゾ(ジョン・ボーナム)みたいなのがいいな。デカくて、重くて、バンド全体をねじ伏せるようなパワーがある奴」
レッド・ツェッペリンのドラマーか。
望らしいチョイスだ。
「……私は、スチュワート・コープランド。正確で、知的で、空間を支配できるドラマー」
澪さんはポリスのドラマーを挙げた。
これまた、澪さんらしい。
「理は?」
二人の視線が集まる。
理想のドラマー。
技術的なことは分からない。
有名ドラマーの名前も、そんなに詳しくない。
でも。
「私は……私の歌を、遠くまで飛ばしてくれる人」
「は?」
望がポカンとする。
抽象的すぎたかな。
「私の声って、なんか頼りないから。背中をドンって押してくれて、『もっと行け!』って煽ってくれるような……そんな音が、後ろにいてほしい」
言葉にすると安っぽいけど、それが本音だった。
一人で歌うのは、怖い。
この広い世界に、自分の声を投げかけるのは、足がすくむ。
だから、一緒に走ってくれるエンジンが欲しい。
「……なるほどな」
望は少し驚いた顔をして、それからフッと笑った。
「『遠くまで飛ばす』か。……悪くない」
「同意。……理の声を拡張するブースター。そういうドラマーが必要」
澪さんも頷く。
なんだか、三人のイメージが少しだけ重なった気がした。
***
「ふ……また変な波形」
ふと、澪さんがPCの画面を凝視して呟いた。
「どうしたの?」
「波形編集ソフト。キックの後に、微細なノイズが乗ってる。さっきまでは無かったのに」
澪さんがモニターを指差す。
規則正しいグリッドの中に、小さな棘のような乱れがある。
「ケーブルの接触不良じゃないのか? そのミキサー、年代物だし」
望は興味なさそうだ。
「……かも。でも、周期性がない。まるで、何かの意思があるみたいに、ランダムに」
澪さんの言葉に、少しだけ背筋が寒くなる。
薄暗い地下室。
窓のない密室。
「やめてよ澪さん、怖い話?」
「事実を述べているだけ。……ほら、また」
画面上の波形が、一瞬だけ赤く明滅した。
エラー表示?
それとも。
「……まあ、気にしなくていい。カットすれば済む話」
澪さんは淡々と言って、マウスをクリックした。
波形は消え、綺麗な直線に戻る。
でも、私は一瞬だけ見てしまった気がした。
そのノイズが、文字のように見えたのを。
気のせいだ。
疲れてるんだ、私。
「よし、今日はもう上がろう」
望が立ち上がった。
ベースをケースにしまい始める。
「こんな状態でやっても、変な癖がつくだけだ。耳もバカになる」
その意見には賛成だった。
煮詰まった頭で音を出しても、いい音楽なんて生まれない。
「うん、帰ろっか」
私はギターのアンプの電源を落とした。
プン、という小さな音がして、赤いランプが消える。
片付けをしながら、私はふと防音扉の方を見た。
分厚い鉄の扉。
この向こうには、日常が広がっている。
大学の講義、レポート、バイト、一人暮らしの静かなアパート。
ここを出れば、また「普通の女子大生」に戻る。
それが、急に寂しく感じた。
まだ帰りたくない。
もっとこの場所に、この音の中にいたい。
でも、音が足りない。
私たちがここに留まるための、決定的な引力が。
「……ねえ」
帰り支度を終えた澪さんが、ふと動きを止めた。
「何?」
「……今、聞こえた?」
澪さんが扉の方を見ている。
耳を澄ませるように。
「何も聞こえないけど……」
「望は?」
「いや、なんも。空調の音だろ」
望も首を振る。
ドッ……ドッ……。
いや、私にも聞こえた。
微かな、本当に微かな振動。
耳で聞こえるというより、床から伝わってくるような。
「……誰か、いる?」
こんな時間に、この旧棟に?
肝試し?
警備員さん?
私たちは顔を見合わせた。
好奇心と、少しの警戒心。
「……行ってみるか」
望が先頭に立って、重い扉のノブに手をかけた。
ガチャリ、と重い金属音が響く。
扉が開く。
ひんやりとした廊下の空気が流れ込んでくる。
そこには、誰もいなかった。
ただ、長く暗い廊下が伸びているだけ。
夕方の赤い光が、窓から差し込んで、床に縞模様を作っていた。
「……なんだ、空耳か」
望が拍子抜けしたように言う。
でも、私は感じていた。
予感。
嵐が来る前の、あの独特な匂い。
気圧が変わる瞬間。
何かが近づいている。
私たちの明日を劇的に変える、台風のような何かが。
「帰ろうぜ。腹減った」
望が歩き出す。
澪さんが続く。
私も慌ててギターケースを背負い、二人を追いかけた。
廊下に伸びる3人の影。
まだ隙間だらけの、ちぐはぐな影。
そこに4人目の影が重なる日は、来るんだろうか。
その答えは、予想外の形で、明日もたらされることになる。
爆音と共に。
* * *




