# Chapter 02 - Ep11: 廊下の影
* * *
翌日の放課後。
スタジオの空気は、昨日よりもさらに重かった。
まるで鉛が溶け込んでいるみたいに、息をするのも苦しい。
ドン、タン、ドッドッ、タン。
無慈悲に繰り返されるドラムマシンのビート。
私たちは無言で楽器を構えていたけれど、誰も音を出そうとしない。
完全に煮詰まっている。
スランプなんて言葉じゃ生温いくらいの閉塞感だ。
「……あー、もう! やめやめ!」
私がギターをスタンドに置くと同時に、望もベースをソファに放り出した。
ドサッ、と重い音が響く。
「やってられるか。こんなお経みたいなリズムで」
「お経……」
澪さんが反応する。
「BPM120の4つ打ち。現代音楽における標準的なビート」
「その『標準』ってのが気に食わねえんだよ。バンドは『逸脱』だろ」
望はポケットからミントタブレットを取り出し、ガリガリと噛み砕いた。
彼女なりのストレス解消法らしい。
その音が、やけに響く。
「理、なんか面白い話して」
突然、矛先が私に向いた。
「えっ、無茶振り!?」
「空気が死んでる。生き返らせろ。ボーカルの役目だ」
「そんなあ……」
ボーカルって、漫談師も兼ねなきゃいけないの?
私は助けを求めるように澪さんを見たけど、彼女は「頑張って」という目で微笑むだけだった。
ひどい。
「えーっと……じゃあ、今日のお昼の話なんだけど」
「却下。平和ボケした話はいらない。もっと刺激的なやつ頼む」
「厳しい!」
そんな刺激的な日常、送ってないよ!
私たちがどうでもいい押し問答をしていた、その時だった。
バンッ!!
突然、鉄の扉が勢いよく開いた。
いや、開いたというより、蹴破られたような轟音だった。
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、鉄の塊が壁に激突する。
――え?
私たちは三人同時に飛び上がった。
何事!?
強盗?
それとも、昨日の幽霊?
入り口の向こう、薄暗い廊下にシルエットが立っていた。
小柄だ。
でも、その存在感は、巨大な怪獣みたいだった。
カツカツカツ!
足音が近づいてくる。階段を駆け下りてきたのか、息が荒い。
そこに立っていたのは、見たこともないほど派手な女の子だった。
ショートカットの金髪(どう見てもブリーチで痛んでる)。
ショッキングピンクのダボっとしたパーカー。
膝が破れたダメージジーンズ。
そして背中には、鮮やかな黄色のリュックが亀の甲羅みたいに張り付いている。
色彩の暴力。
この埃っぽい灰色の実験室に、インクの壺をぶちまけたような異物感。
彼女は肩で息をしながら、鋭い目で私たちを――いや、部屋の中をギロリと見回した。
その目は飢えた肉食獣そっくりだ。
そして、部屋の隅に追いやられていた、埃まみれのドラムセットに視線を固定した。
「……あった」
彼女は呟くと、ズカズカと部屋に入ってきた。
私たちのことなんて眼中にないみたいに、一直線に。
「ちょ、ちょっと! 君、誰!?」
私が慌てて声をかけると、彼女は立ち止まり、クルッと振り返った。
猫のような大きな目。
口元には、不敵な笑み。
八重歯がチラリと見える。
「聞こえてたよ。……っていうか、なんか届いたんだよね」
声が大きい。
そして、よく通る。
マイクなんていらないんじゃないか、ってくらい。
「ここまで聞こえてたの?」
そんなはずはない。この旧音響実験棟の防音性能は完璧だ。
ましてや地下室の音が、地上に漏れるなんてありえない。
「んー、聞こえたっていうより……なんか、こう……!」
彼女は大きく身振り手振りを交えて、空中に何かを描こうとした。
でも、適切な言葉が見つからないらしい。
もどかしそうに唸ってから、彼女はあっけらかんと笑い飛ばした。
「ま、壁とか関係ないんだよね、私。そういうの、昔からわかっちゃうから!」
ニカッと白い歯を見せて、Vサイン。
言っていることは無茶苦茶だ。
けれど、不思議と嫌味がない。
(……陽キャすぎる)
私がその眩しさに目を細めている間に、彼女の視線はもう次へ移っていた。
「……で、ベース。あれ、うまいね。プロかと思った。グルーヴの溜め方がエロい」
「なっ……」
不意打ちを食らって、望が赤面する。
ポーカーフェイスの望が、珍しい。
(へえ、望って照れたりするんだ)
意外な一面を見て、私は内心で少し面白がってしまった。
続いて、彼女は澪さんへと向き直る。
「キーボードも変態的で面白い。あの音作り、どうやってんの? 頭の中見てみたい」
「……褒め言葉?」
澪さんが首をかしげる。
「ギターは……まあ、これからって感じ? 伸びしろですねーってやつ」
「うっ……」
なんで私だけ上から目線!?
的確すぎて言い返せないのが悔しい。
何この子。
嵐みたいに入ってきて、言いたい放題。
「でもさ、全然ダメ。死んでる」
彼女は鼻で笑った。
挑発的な笑みだ。
「リズムが死んでるから、全部台無し。あんな機械に合わせられて、楽器たちが泣いてるよ。『もっと自由に暴れさせろ』って」
その言葉は、望がずっと感じていた苛立ちそのものだった。
図星を突かれた望が、眉をひそめて立ち上がる。
身長差20センチ。
見下ろす巨人と、見上げる小人。
「……言いたい放題だな、チビ。誰だお前」
「チビじゃないし! 152センチあるし!」
彼女は望に食ってかかった。
怯む様子なんて微塵もない。
むしろ、デカい相手にワクワクしているようにさえ見える。
気が強いなんてもんじゃない。
「私は赤城レイナ(Akagi Reina)。1年の……まあ、どうでもいいか」
レイナと名乗った彼女は、リュックを下ろし、中から何かを取り出した。
木の棒。
ドラムスティックだ。
使い込まれて、ささくれ立っている。
グリップの部分には、滑り止めのテープが何重にも巻かれている。
「どいて」
彼女はドラムセットの前に立つと、椅子の高さ調整を始めた。
クルクルと回し、座り、また回す。
そしてスネアドラムの角度を微調整する。
その手つきは、完全に「知っている人」のものだった。
迷いがない。
一瞬で、自分の城を構築していく。
「おい、勝手に……」
望が止めようとするのを、澪さんが手で制した。
澪さんの目は、興味深そうにレイナを観察している。
研究者が、珍しい実験サンプルを見つけた時のような目だ。
「……叩かせてみれば?」
「本気か? どこの馬の骨とも……」
「骨でもなんでもいい。この閉塞感を壊してくれるなら」
澪さんの言葉に、望も渋々引き下がった。
腕組みをして、壁にもたれかかる。
「お手並み拝見」というわけだ。
* * *
レイナはハイハットのペダルを踏み、その感触を足裏で確かめた。
目を閉じて、深呼吸を一つ。
その背中から、湯気のような熱気が立ち上っている気がした。
カッ、カッ、カッ、カッ!
スティック同士を叩くカウント。
その音が、驚くほど鋭く、空気を切り裂いた。
ピリッとした緊張感が走る。
あ、これ、違う。
本物だ。
次の瞬間。
ドパンッ!!
爆発音かと思った。
バスドラムとクラッシュシンバルの同時打ち。
その一発で、部屋の空気が一変した。
埃が舞い上がり、鉄の扉がビリビリと震える。
鼓膜じゃなく、骨に直接響く衝撃。
ドドタッ、ドッドッ、タン!
ドドタッ、ドッドッ、タン!
速い。
そして、重い!
小柄な身体のどこから、こんなパワーが出るんだろう。
全身をバネのように使って、ドラムセットを殴りつけている。
スナップの効いた手首が鞭のようにしなり、正確に打面を捉える。
でも、ただ乱暴なだけじゃない。
リズムの芯が太くて、絶対にブレない。
大木のような安定感。
うねるようなグルーブ。
機械には絶対に出せない、血の通ったビート。
汗と、熱と、感情が練り込まれた音の塊。
その塊が、私の心臓を直接掴んで激しく揺さぶってくる。
「……っ!」
体が勝手に動いた。
思考するよりも早く、私はギターを構え、アンプのボリュームを全開にしていた。
このリズムに乗りたい。
この波に飛び込みたい。
置いていかれたくない!
ジャラーン!
Eコードをかき鳴らす。
フィードバックノイズが唸る。
レイナが私を見て、ニカッと笑った。
白い歯が光る。
『来いよ! 遅れんなよ!』
聞こえないはずの声が、聞こえた気がした。
望も動いた。
もう我慢の限界だったみたいだ。
ベースが獣の咆哮のようなスライド音と共に合流する。
水を得た魚みたいに、ベースラインが生き生きと跳ね回る。
ガッチリ。
ドラムのキックと、ベースの音が噛み合った瞬間、鳥肌が立った。
これだ。
望が求めていた「重力」だ。
澪さんのシンセが、その上を滑空する。
キラキラした高音が、激しいビートに彩りを添える。
今までは浮いていた音が、土台がしっかりしたことで、自由に空を飛べるようになったみたいだ。
4人の音が重なった。
初めてなのに。
今日会ったばかりなのに。
まるで最初からこうなることが決まっていたみたいに。
楽しい。
理屈抜きで、ただただ楽しい。
脳内麻薬がドバドバ出てるのが分かる。
視界が明るくなる。
世界が色を取り戻していく。
埃っぽい灰色の空気が、極彩色の光に変わる。
この瞬間のために、私はギターを買ったんだ。
この瞬間のために、私は一人ぼっちで練習してきたんだ。
これが、バンドだ。
* * *
どれくらい演奏していただろう。
時間の感覚が麻痺していた。
レイナがド派手な助奏を入れて、シンバルを滅多打ちにしてフィニッシュした。
ジャーン……。
最後の残響が消えるまで、誰も動かなかった。
お互いの荒い息遣いだけが聞こえる。
静寂が戻ってくる。
でも、それはさっきまでの重苦しい静寂とは違う。
燃え尽きた後の、心地よい熱を帯びた静寂だ。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
レイナが肩で息をしている。
汗だくだ。
金髪が額に張り付いて、メイクも少し崩れている。
でも、そんなことどうでもいいくらい、彼女は輝いていた。
「……どう? 私のドラム」
彼女は挑発的に顎を上げた。
スティックでコツンとスネアの縁を叩く。
「認めてくれる? それとも、不合格?」
自信満々の顔。
でも、その目は少しだけ不安そうに揺れていた。
迷子の子供みたいな目で。
私はギターを放り出して、彼女に駆け寄った。
そして、勢いよく両手を握りしめた。
「最高!!」
「うわっ、ちょ、近い! 汗つくし!」
「すごいよレイナちゃん! 天才だよ! 私、鳥肌立った! 涙出そう!」
「あーもう、分かったから! 揺らすな!」
レイナは顔を真っ赤にして私を引き剥がした。
照れてる。可愛い。
さっきまでの狂犬みたいな態度はどこへやら。
そこに、望がゆっくりと近づいてきた。
腕を組んで、レイナを見下ろす。
その表情はまだ硬い。
「……まあ、悪くはなかった」
「なっ、それだけ!?」
レイナが抗議する。
「パワー任せで雑なところはある。走りがちだし、ダイナミクスの制御も甘い。キックの粒立ちも揃ってない」
「うぐっ……細けぇ……」
レイナがたじろぐ。
痛いところを突かれたらしい。
「でも」
望はふっと笑った。
今日一番の、いや、出会ってから一番優しい笑顔で。
「グルーヴは最高だった。久しぶりに、本気でベース弾けたわ。……合格だ」
「……へ?」
レイナがぽかんと口を開ける。
「ドラム、やってくれるんだろ? 私たちのバンドで」
その言葉を聞いた瞬間、レイナの顔がパァッと輝いた。
花が咲くみたいに。
「え、あ、うん! やる! やりたい!」
レイナは満面の笑みで頷いた。
太陽みたいな笑顔だ。
この地下室に、本当に太陽が昇ったみたいだった。
「実力は認めるけど。不法侵入は、ちょっと困る。」
澪さんがチクリと言うと、レイナはシュンと首をすくめた。
そこで初めて、彼女がしおらしい顔を見せた。
「……実は聴いてたんだ。あんたの歌」
「え? 私?」
思わず自分を指差してしまった。
ギターの腕前は「伸び代」扱いだったし、てっきり眼中にはないものだと思っていた。
私の歌? それを、この子が?
「うん。この前、実験室の通気口から漏れてくる歌声を聴いて……なんか、すっごいドキドキして。上手いとか下手とかじゃなくて、なんか刺さったんだよ。心臓に」
レイナが胸を押さえる仕草をする。
「この声と一緒に叩きたいって、ずっと思ってた。それに昨日、あんたたちが『ドラムがいない』って話してんの、帰り道で聞いちゃって。だから、音が聞こえた時、もう体が勝手に動いてて……」
レイナは照れくさそうに鼻の下を擦った。
私の歌を、求めてくれた。
こんなにパワフルで、かっこいいドラマーが。
それだけで、今までの孤独が全部報われた気がした。
生きててよかった。
大袈裟じゃなく、そう思った。
澪さんが、すっと立ち上がった。
まっすぐにレイナを見つめる。その瞳は、いつになく真剣だった。
「一つだけ聞かせて。あなたは、その衝動を信じ続けられる?」
「……え?」
「音楽は、時に理屈じゃない。でも、感情だけで走り続ければ、いつかガス欠になる。それでも、叩き続けられるの?」
試すような問いかけ。
レイナは一瞬、きょとんとしたけれど。
すぐにニッと笑って、言い放った。
「ガス欠? なにそれ。私が止まる時は、死ぬ時だけだよ」
迷いのない、即答。
澪さんは数秒、じっとレイナの目を見ていたけれど。
ふっ、と口元を緩めた。
それは、とても綺麗な、氷が解けるような微笑みだった。
「合格」
澪さんが右手を差し出した。
「歓迎する。理学部三年の雨宮澪。よろしく、レイナ」
「私たちのバンドには、あなたのエネルギーが必要。計算外の変数が」
「ありがとう、澪先輩! ……あ、雨宮先輩?」
「敬語はいらない」
「了解! じゃあ澪ちゃん!」
レイナのコミュ力、高いなあ。
あっという間に馴染んでいく。
「やったー! よろしくね、みんな!」
レイナがスティックを高く掲げた。
その先端が、天井の蛍光灯を反射して十字に光る。
4人。
ギターボーカル、響乃理。
ベース、星奈望。
キーボード、雨宮澪。
ドラム、赤城レイナ。
揃った。
役者は揃った。
パズルのピースが、奇跡的に埋まった。
「よし、お祝いだ! コンビニ行こ! 乾杯だね!」
私の提案に、全員が賛成した。
誰からともなく笑い声が漏れる。
私たちは楽器を置き、夜のキャンパスへと飛び出した。
足取りが軽い。
重力が半分になったみたいだ。
物語は、ここから本当のスタートを切る。
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