# Chapter 02 - Ep12: 4人の音
* * *
あれから三日が経った。
スタジオの空気は、完全に変わっていた。
澱んでいた埃っぽい空気は消え失せ、今は火薬庫のような、爆発寸前の熱気が渦巻いている。
「ワンッ、ツー、スリー、フォー!」
レイナのカウントが、導火線に火をつける。
右手のスティックが宙を切り、クラッシュシンバルを叩き割るような勢いで振り下ろされる。
ドパンッ!!
爆音。
空気が物理的な質量を持って、全身に叩きつけられる。
バスドラムの低周波が、コンクリートの床を伝ってスニーカーのソールを震わせる。
足の裏から這い上がってきた振動は、背骨を駆け抜け、心臓を直接鷲掴みにする。
ドックン、ドックン、という自分の鼓動なんて、もう聞こえない。
強制的に、ドラムのBPMに書き換えられていく。
ドドタッ、ドッドッ、タン!
私はギターをかき鳴らしながら、叫ぶように歌った。
「Ahhhhhhh――!!」
歌詞なんてない。
適当な英語と、うめき声のようなフェイク。
メロディも即興だ。
でも、それがいい。
今は綺麗に整えられた言葉なんて必要ない。
大事なのは、この「熱量」だ。
体の中で暴れ回るマグマを、出口を求めて暴走する感情を、そのまま音に変えて吐き出すことだ。
ブォンッ、ブォンッ、と空気を揺らす重低音。
望のベースが、獰猛な肉食獣のようにドラムに食らいつく。
レイナが走ろうとするのを引き留め、タメを作ろうとするのを背中から押す。
バチバチと火花が散るような、リズム隊のせめぎ合い。
それは喧嘩をしているようにも、激しく愛し合っているようにも見えた。
二人が織りなすグルーブは、まるで巨大なエンジンだ。
重くて、太くて、でも決して止まらない圧倒的な推進力。
その鉄壁の土台の上を、私のギターと澪さんのシンセが自由に駆け回る。
ピコピコとした電子音じゃない。
澪さんのシンセは、歪んだノイズを纏って、空間を切り裂くレーザービームみたいだ。
私のギターフレーズに絡みつき、挑発し、さらに高い場所へと引き上げていく。
「もっと! まだイケるでしょ!?」
レイナが私を見て、ニカッと笑った。
汗が飛び散り、スローモーションのように光る。
金髪が乱れて顔に張り付いているけれど、気にしない。
その目は、獲物を狙う野生動物のように鋭く、そして誰よりも楽しそうに輝いていた。
負けてられない。
私はエフェクターを踏み込み、オーバードライブを深めにかける。
アンプの真空管が灼熱して、悲鳴のようなハウリングを上げる。
耳がつんざかれるような高音。
普段なら耳を塞ぎたくなるようなノイズすら、今は最高に心地いい。
脳みそが溶けそうだ。
視界が揺れている。
世界が極彩色に明滅している。
指先の感覚がない。喉が焼けるように熱い。
でも、止まりたくない。
永遠に、この音の中に溺れていたい。
ジャァァァァァン……!!
全員の音が重なって、白い光になった瞬間。
私たちは同時に音を止めた。
示し合わせたわけじゃない。
ただ、ここしかないという「点」で、4人の呼吸が重なったんだ。
残響だけが、ジリジリと空気に残る。
* * *
数秒の静寂の後。
ドサッ、と誰かが崩れ落ちる音がした。
「……はー、死ぬかと思った……」
望がベースを抱えたまま、ソファに沈み込んでいた。
天井を仰ぎ、大きく息を吐き出す。
ポニーテールが解けて、濡れた黒髪が首筋に張り付いているのが色っぽい。
「気持ちいい死に方だ……」
「あはは! 望ちゃん、体力なさすぎ!」
レイナはドラムスローンに座ったまま、ケラケラと笑っている。
でも、スティックを握るその手は、小刻みにプルプルと震えていた。
全力で叩きすぎた反動だ。
「……お前こそ、手が笑ってるぞ」
「うっ……これは、武者震いだし!」
「はいはい」
望は呆れたように笑って、さらに深くソファにもたれた。
その表情は、疲労困憊しているけれど、どこか満足げだ。
「でも、打ち込みとは全然違うな。ベースが生きてる感じがする。弦が喜んでるのが分かるんだよ」
望が愛おしそうに、ベースのボディを撫でた。
「でしょ? ドラマーがいるとこうなるんだよ。リズムは生き物だからね」
レイナが得意げに胸を張る。
「私のリズム、ちょっとハシりがちだったけど、望さんのベースが無理やり引き戻してくれたから。なんか、首輪つけられた犬の気分だった」
「誰が飼い犬だ。……でも、ハシり癖は自覚あるんだな」
「うるさいな! 興奮すると前に行っちゃうの! 本能!」
レイナが頬を膨らませる。
望はふっと笑った。
「まあ、許容範囲だ。バンドなんだから、多少前ノリの方が勢いがあっていい。……悪くなかった」
「ふふん、素直じゃないなあ」
「うるせえ」
二人のやり取りを見ていると、なんだか夫婦漫才みたいだ。
出会って三日とは思えない。
前世で兄弟か、あるいは天敵だったのが仲直りしたのか。
「ねえ、レイナちゃんはどうしてドラム選んだの?」
私は床に座り込んで、スポーツドリンクを飲みながら聞いた。
こんなに華奢な体なのに、なんであんなにパワフルな楽器を。
「んー? 叩くと大きい音が出るから!」
「え、それだけ?」
「あと、ムカつくことあっても叩けばスッキリするし! 原始的でしょ? 私にピッタリ!」
あっけらかんと言うレイナ。
いかにも彼女らしい理由だ。
「理ちゃんは? なんでギター?」
「私は……歌う時に、手持ち無沙汰だったから……かな」
「えー、消極的!」
「うっさいなぁ。いいの、今はギターも大好きなの」
私は愛機であるテレキャスターを抱きしめる。
傷だらけだけど、私の相棒だ。
「澪さんは?」
レイナが話を振る。
澪さんは壁にもたれて、何かブツブツ言いながらスマホにメモを打ち込んでいた。
「……ドラムの音圧で、シンセの中域がマスクされてる。EQの設定を見直さないと。400Hzあたりをカットして、逆に2kHzをブースト……抜けを良くして……」
「あ、これ入っちゃいけないモードだ」
レイナが苦笑いする。
澪さんは集中モードに入ると周りが見えなくなるらしい。
でも、その目は楽しそうに輝いている。
新しい課題が見つかったのが嬉しいみたいだ。
「……ごめん、聞いてた」
ふと我に返った澪さんが、顔を上げた。
「キーボードを選んだ理由。……一番、色んな音が出せるから。ピアノにも、バイオリンにも、宇宙船の音にもなれる。世界を作れるから」
「うわ、なんか深い」
「さすが澪パイセン。スケールが違う」
茶化すレイナを無視して、澪さんは咳き込んだ。
ゴホッ、ゴホッ。
「……それにしても、ここ埃っぽい。喉がイガイガする」
「あー、確かに。ドラム叩くたびに、バスドラから謎の粉塵が舞うんだよね」
レイナが鼻をこする。
無数の塵がダンスしているのが見えた。
「掃除、しなきゃね」
私が言うと、全員が嫌そうな、でも仕方なさそうな顔で頷いた。
* * *
「お腹空いたー!」
レイナの悲痛な叫びが、空腹の合図だった。
時計を見ると、もう夜の8時を回っている。
3時間もぶっ通しでやってたのか。
「コンビニ行こ! 補給だ補給!」
私たちはぞろぞろと実験室を出て、キャンパス内のコンビニに向かった。
外はすっかり暗くなっていた。
冬の夜風が、熱を持った頬に冷たくて気持ちいい。
遠くの校舎から、吹奏楽部の練習する音が微かに聞こえてくる。
コンビニの自動ドアが開くと、明るい照明と暖房の匂いに包まれた。
私たちは飢えた獣のように棚に散らばる。
数分後。
レジを済ませた私たちは、店の前のベンチに座っていた。
「いただきまーす!」
レイナが袋から取り出したのは、唐揚げ弁当(大盛り)、ポテチ(コンソメパンチ)、そしてコーラ。
茶色い。圧倒的に茶色い。
「……よくそんなに入るな」
望が呆れ顔でコーヒーを啜る。
彼女の手には、おにぎりが二つだけ。
「ドラムはカロリー消費激しいの! 叩いた分だけ食べないと痩せちゃう!」
「燃費悪い車みたいだ」
「うるさいなー。澪ちゃんは何それ?」
レイナが指差したのは、澪さんがちびちび齧っているサラダチキンと、野菜ジュース。
「……タンパク質とビタミン。効率的なエネルギー補給」
「出た、効率厨」
「理は?」
「私は……これ」
私はあんぱんと、甘いカフェオレを掲げてみせた。
「お子様か」
「いいじゃん! 甘いもの欲しかったんだもん!」
アンコの甘さが、疲れた脳に染み渡っていく。
特別なご馳走じゃない。
冷たい風が吹くベンチで、コンビニ飯を食べているだけ。
なのに、今まで食べたどのフレンチよりも、美味しく感じた。
「ねえ、ライブしたいね」
唐揚げを頬張りながら、唐突にレイナが言った。
「ライブ?」
「うん。こんだけ良い音出せるならさ、誰かに聴かせたいじゃん。もったいないよ、ここだけで終わらせるなんて」
レイナの言葉に、望がコーヒーを置いた。
「誰かに聴いてもらいたい、か。……まあ、そうだな」
「でしょ? 目標はデカく! 武道館!」
レイナが箸を指揮棒みたいに振る。
いつもの冗談めかした口調。
でも、その目は真剣だった。
「武道館……」
私が復唱すると、言葉の響きだけで少し震えた。
夢物語だ。
素人の大学生バンドが語るには、あまりにも大きすぎる夢。
「……確率は低いけど、ゼロじゃない」
澪さんが冷静に言った。
「変数を積み重ねて、最適解を選び続ければ、あるいは」
「澪ちゃんの『あるいは』は、結構高い確率ってことだよ!」
レイナが笑う。
つられて、私も笑った。
夜空を見上げる。
街明かりが強すぎて、星なんてほとんど見えない。
でも、ここにはある。
地上に、4つの小さな星が。
「Polaris」
私が呟くと、みんなも空を見上げた。
「北極星。……動かない星」
望が静かに言う。
「迷った時に、道しるべになる星だね」
レイナが付け足す。
私たちのバンド名。
まだ何者でもない私たちの、小さな道しるべ。
「行こうよ、武道館」
私が言うと、全員が私を見た。
「笑われないかな」
「笑わせとけばいいよ。演奏で黙らせればいい」
望が不敵に笑う。
その笑顔が、すごく頼もしかった。
「よーし! じゃあ決起集会だ! 乾杯!」
レイナがコーラを掲げる。
私たちはそれぞれの飲み物を持ち、カチンとプラスチックの音を立てた。
冷めきったコンビニ弁当が、なんだか温かく感じた。
* * *
帰り道。
最寄駅までの道を、4人で並んで歩く。
楽器の重みが、心地よい疲労感と共に肩に食い込む。
駅の改札前。
別れの時間が近づいてくる。
「あ、そうだ。明日は練習休みにして、大掃除しない?」
レイナが提案した。
「さっきも話したけど、スタジオ埃っぽくて。喉やられちゃう」
「……同意。機材のためにも良くない。接点不良の原因になる」
澪さんが頷く。
「しゃーないな。ついでに防音材の剥がれかけてるとこも直すか」
望も乗り気だ。
「決まり! じゃあ10時集合ね! 遅刻厳禁!」
「お前が一番怪しいけどな」
「むっ! 私は時間には正確だよ!」
じゃあね、と手を振って、レイナが改札の中に消えていく。
澪さんと望も、それぞれの方向へ帰っていった。
一人になる。
急に、音が消えた気がした。
さっきまでの爆音と、笑い声が嘘みたいに。
静寂が戻ってくる。
でも、それは以前のような「空っぽの静寂」とは違った。
耳の奥で、まだキーンという高い音が鳴っている。
私の鼓膜が、あの時間を記憶している証拠。
ポケットの中でスマホが震えた。
新しく作ったグループチャット『Polaris』。
『reina: 今日はマジ楽しかった! おつかれ!』
『reina: [変顔をする猫のスタンプ]』
『nozomi: おつかれ。明日の掃除、軍手忘れるなよ』
『mio: お疲れ様。波形データ、送っておく』
『mio: [音声ファイル attachment]』
画面の中で、会話が続いている。
一人で歩いているのに、一人じゃない。
『kotori: お疲れ様! 明日もよろしく!』
返信を打つ指が弾む。
私は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、一つだけ星が見えた気がした。
小さくて、頼りない光。
でも、確かな光。
つい先日まで、私は孤独だった。
モノクロの日常を、ただ消化するだけの毎日だった。
でも今は、世界がこんなにも鮮やかだ。
鼓膜に残る耳鳴りが、愛おしい。
筋肉痛の予感がする腕のダルさが、誇らしい。
私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
これからどんな壁が待っているのか、どんな嵐が来るのか、まだ誰も知らない。
でも、きっと大丈夫。
この4人なら、どんな夜だって越えられる。
そんな根拠のない自信が、私の背中を押してくれた。
私は一歩、強く地面を踏みしめた。
明日は大掃除だ。
ジャージ、洗っておかなくちゃ。
夜の風が、少しだけ温かく感じた。
* * *




