# Chapter 02 - Ep13: Studio Polaris
* * *
土曜日の午前10時。
私たちは旧音響実験棟の前に集合した。
レイナは黄色いバンダナを頭に巻いて、やる気満々の顔をしている。
その手にはバケツと雑巾のセット。
完全に気合が入っている。
望はエプロンとゴム手袋を持参してきた。
黒いエプロンに「Don't touch my bass」って英語で刺繍されている。
どこで買ったんだ、それ。
澪さんは……相変わらず眠そうだけど、ちゃんといる。
手には工具箱とマスク。
さすが、実用主義だ。
「よし、大掃除開始!」
私の号令で、全員が部屋に入った。
重い鉄扉を開けると、むわっと埃っぽい空気が押し寄せてくる。
「うわっ、やっぱり臭い……」
レイナが鼻を押さえた。
確かに、カビと埃と古い機械油が混ざったような、独特の匂いがする。
そして、改めて惨状を確認する。
「……ひどいな」
望が呆れたように言った。
埃を被った機材。
錆びついた実験器具が散乱している。
蛍光灯のカバーは黄ばんでいるし、床は長年の汚れで色が変わっている。
壁には何かの染みがついていて、それが人の顔みたいに見える。
「ここ、本当に使えるようになるのかな……」
私は不安になった。
昨日まで爆音で演奏していた空間とは思えない。
「やるしかないだろ」
望がエプロンを着けながら言った。
「まず、いらないものを外に出そう」
私の提案で、作業が始まった。
* * *
使われていない器具をダンボールに詰め、廊下に運び出す。
思った以上に重労働だった。
「うぐぐ……重い……!」
レイナが古いスピーカーを抱えて、よろよろと歩いている。
小柄な体に、不釣り合いな荷物。
「無理すんな。二人で持とう」
望がさっとレイナの横に並んで、スピーカーの反対側を持った。
息がぴったり合って、すんなり運べる。
「ありがとー、望ちゃん!」
「別に」
望はそっぽを向いたけど、頬が少し緩んでいた。
「なにこれ、オシロスコープ?」
レイナが埃まみれの機械を持ち上げた。
緑色のブラウン管に、つまみがたくさんついている。
「古い型だね。多分30年くらい前の」
望が目を細めて見つめる。
彼女は機材に詳しいから、こういうのも分かるんだろう。
「まだ動くのかな」
「……動く」
澪さんが電源コードを差し込んで、スイッチを入れた。
ブーン、という低いハム音が鳴って、画面に緑色の波形がぼんやりと浮かび上がる。
「おお、すげー! 生きてた!」
レイナが歓声を上げた。
「音響実験室だから。波形を測定する機材が残ってる」
澪さんは少しだけ嬉しそうだった。
こういうガジェットが好きなんだろう。
目が、子供みたいにキラキラしている。
「使えそうなのは残そう。あとで録音の波形チェックに使える」
「さすが澪先輩、抜け目ないね」
レイナが感心したように言う。
私たちは「残すもの」と「捨てるもの」を分けながら、黙々と作業を続けた。
ダンボールの数が、どんどん増えていく。
30分後。
廊下にはダンボールの山ができていた。
「……こんなに出たんだ」
私は汗を拭いながら、呆然と眺めた。
部屋一つ分の不用品。
いかにここが放置されていたかが分かる。
「休憩しよう。喉渇いた」
望の提案で、コンビニに買い出しに行くことにした。
* * *
コンビニから戻ると、自動販売機の前でそれぞれ好きな飲み物を買った。
私はポカリ。
レイナはコーラ。
望はブラックコーヒー。
澪さんはお茶。
四人で廊下の窓際に座り込んで、一気に飲み干す。
「ぷはー! 生き返った!」
レイナが満足そうに声を上げた。
「掃除って、こんなに体力使うんだね……」
私は肩を回しながら言った。
普段使わない筋肉が、すでに悲鳴を上げている。
「まだ半分も終わってないぞ」
望が冷静に現実を突きつけてくる。
「うわー、マジか……」
レイナが頭を抱えた。
「……がんばろう」
澪さんが小さく言った。
その言葉に、励まされる。
普段あまり感情を見せない澪さんが、こうやって声をかけてくれるのが嬉しい。
「そうだね。午前中には片付け終わらせて、午後から本格的な掃除にしよう」
私が立ち上がると、全員も続いた。
「よーし、後半戦だ!」
レイナが拳を突き上げる。
そのポジティブさに、いつも助けられている。
* * *
お昼過ぎ。
ようやく部屋がすっきりしてきた。
床を水拭きすると、思ったより明るい色だったことが分かった。
何層にも積もっていた汚れが取れて、薄いグレーの床が現れる。
蛍光灯のカバーを拭くと、部屋が見違えるほど明るくなった。
今まで薄暗いと思っていたのは、単に蛍光灯が汚れていただけだった。
「……見違えた」
望がため息をついた。
彼女の額には汗が浮かんでいる。
エプロンも、泥と埃で汚れている。
確かに。
あの薄暗くて埃っぽい部屋が、見違えるように綺麗になっている。
「レイアウト、考えよう」
澪さんがスマホでメモを取りながら言った。
「ドラムは一番奥。振動を考えると壁際がいい」
「了解!」
レイナがドラムセットを押して移動させる。
キャスターが床を滑る音が心地いい。
「ベースアンプはここ。ギターアンプは向かい側」
望と私で、それぞれのアンプを配置する。
重い。
腰にくる。
「キーボードは?」
「私は入り口近くでいい。マニピュレータも兼ねるから、全体が見える位置がいい」
澪さんの指示で、機材が配置されていく。
彼女の頭の中には、すでに完成図があるのだろう。
迷いなく、的確に指示を出している。
私はギターを壁に立てかけて、部屋全体を見渡した。
ドラムセット。
ベースアンプ。
ギターアンプ。
キーボードとモニター。
そして、古いオシロスコープ。
バンドのスタジオだ。
本当の、私たちだけの場所。
「……なんか、寂しくない?」
レイナがきょろきょろしながら言った。
「機材はあるけど、なんかこう……味気ない」
「確かに。殺風景だね」
私はうなずいた。
壁は白いまま。
何の飾りもない。
ちょっと冷たい印象がある。
病院の待合室みたいだ。
「ポスター、貼る?」
望が提案した。
「好きなバンドのとか。レコード屋行けば売ってる」
「いいね!」
私も賛成した。
無機質な壁に、色を加えたい。
「……あと」
澪さんが口を開いた。
「ここ、名前をつけたい」
「名前?」
「……Polarisのスタジオ。だから、Studio Polaris」
澪さんは少し恥ずかしそうに視線をそらした。
珍しくロマンチックなことを言う。
いつもは理論と数字ばかりなのに。
「Studio Polaris……」
私は呟いてみた。
悪くない。
というか、すごくいい。
口に出すだけで、なんだか特別な場所に思えてくる。
「賛成!」
レイナが手を挙げた。
「異論なし」
望もうなずく。
「じゃあ決まりだね。ここは今日から『Studio Polaris』」
私は両手を広げて、宣言した。
その瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
ただの旧実験室じゃない。
私たちの、特別な場所になった瞬間。
* * *
「看板、作ろうよ!」
レイナが目を輝かせて言った。
「看板?」
「入口のドアに貼るやつ! 『Studio Polaris』って書いて」
「……いいね」
澪さんが同意する。珍しい。
今日は澪さん、やけにノリがいい。
「私、絵とか得意だから! 任せて!」
レイナが胸を張った。
確かに、レイナは字も絵も上手だった。
ノートの端に描いているイラストを見たことがあるけど、プロ級だった。
「じゃあ画材買いに行こう。ついでに飾り付けのポスターも」
望の提案で、私たちは一度外に出ることにした。
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旧音響実験棟を出ると、午後の日差しが眩しかった。
キャンパスの端から、ペデストリアンデッキを歩いて駅へ向かう。
「あー、やっと太陽だ」
レイナが伸びをしながら言った。
確かに、地下のスタジオにいると時間感覚がなくなる。
今が昼なのか夜なのかも分からなくなる。
白い校舎と青空のコントラストを眺めながら歩くこと十分。
モノレールの「青藍大学前」駅に到着した。
この大学、広すぎて移動だけで疲れる。
でも、車窓から見える丘陵地帯の景色は嫌いじゃない。
緑が多くて、空気が澄んでいる。
モノレールで三駅。
「都賀中央」駅で降りると、駅前は休日の買い物客で賑わっていた。
家族連れ。
カップル。
友達同士で歩く学生たち。
みんな、楽しそうだ。
私たちも、そんな風に見えているんだろうか。
再開発された駅ビルのペデストリアンデッキを抜けて、少し裏道に入る。
そこには、再開発から取り残されたような古い商店街があった。
「こっちの方が、面白い店あるから」
望が先導する。
レンガ敷きの細い路地。
古いレコード屋、画材屋、雑貨屋。
時間が止まったような、でも不思議と居心地のいい空間だった。
昭和の匂いがする。
私が生まれる前の時代の空気が、まだここには残っている。
* * *
画材屋と雑貨屋を巡り、それぞれが思い思いのものを選ぶ。
レイナはカラフルなマーカーと画用紙を選び、「絶対かわいくする!」と意気込んでいる。
色見本を見ながら、真剣に悩んでいる姿が可愛い。
望はレコード屋で70年代ロックのポスターを物色している。
「ツェッペリン、いいな……」とか呟きながら、じっくり選んでいる。
澪さんは電子部品の店で何かを買っていた。
LEDライトらしい。
「間接照明にする」とのこと。
さすが、こだわりが違う。
私は……何を選べばいいか分からなくて、みんなについて回っているだけだった。
「理ちゃん、何か買わないの?」
レイナが不思議そうに聞いてきた。
「うーん……センスがないからさ、私」
「えー、そんなことないでしょ」
「いや、本当に。服とか選べないし、部屋もシンプルっていうか何もないし」
正直に言うと、レイナは目をまん丸にした。
「じゃあ、一緒に選ぼうよ! 私がアドバイスする!」
「ええ、悪いよ……」
「いいからいいから!」
レイナに引っ張られて、私は雑貨屋の奥へと連れていかれた。
「これとか、理ちゃんに似合いそう」
レイナが差し出したのは、使い込まれた革風の小物入れ。
アンティーク調で、少し色褪せた感じが逆にいい。
「あと、これ!」
星座のイラストが入った小さな額縁。
北極星を中心に、星々が散らばっている。
「Polarisだもんね」
レイナがニコッと笑う。
「……いいな、これ」
私は額縁を手に取った。
値札を見ると、思ったより安い。
学生でも買える値段だ。
結局、レイナが選んでくれた二つを買った。
レイナのセンスは確かだった。
というか、私の好みまで見抜いていたことに驚いた。
「レイナちゃん、ありがとう」
「えへへ、どういたしまして」
レイナは嬉しそうに笑った。
* * *
夕方、スタジオに戻る。
袋いっぱいの戦利品を持って。
早速、飾り付けが始まった。
望は壁にポスターを貼っていく。
レッド・ツェッペリン、クイーン、デヴィッド・ボウイ。
古いけど、かっこいい。
伝説のロックスターたちが、私たちを見守ってくれているみたいだ。
「このアングル、どうかな」
望がツェッペリンのポスターの位置を確認している。
几帳面だ。
ミリ単位でこだわっている。
澪さんは天井の隅にLEDテープライトを這わせている。
脚立に登って、器用に配線している。
理系の本領発揮だ。
スイッチを入れると、淡い青い光が部屋を包んだ。
「うわ、めっちゃいい雰囲気……!」
レイナが歓声を上げた。
確かに、一気にライブハウスっぽくなった。
白い蛍光灯とは全然違う、柔らかい光。
「……夜の演奏時に使う。蛍光灯より目に優しい」
澪さんが淡々と説明する。
でも、ちょっと嬉しそうだ。
口元が、微かに緩んでいる。
私は額縁を壁に掛けた。
星座のイラスト。
北極星を中心に、星々が散らばっている。
「Polaris、だもんね」
レイナが隣で言った。
「うん。私たちの名前の由来」
北極星。
いつもそこにあって、旅人を導く星。
私たちも、そんな存在になれたらいいな。
そして、小物入れを棚に置く。
その中には、ピック立てとか、弦のストックとか。
細々としたものを入れておける。
部屋全体を見渡す。
さっきまでとは、全然違う。
ポスターが貼られた壁。
青く光る天井。
きれいに配置された機材たち。
そして、星座の額縁。
ここが、私たちの場所なんだ。
そう実感できる空間になった。
* * *
最後に、レイナが看板を完成させた。
画用紙に、カラフルな文字。
「Studio Polaris」
ポップで、キュートで、でもちょっとロックな雰囲気。
星のイラストがちりばめられている。
レイナの個性が詰まった、最高の看板だ。
「どう? どう?」
レイナが得意げに掲げる。
「……いい」
澪さんがうなずいた。
「上手いな、お前」
望が素直に褒めた。
望が誰かを褒めるなんて珍しい。
「最高だよ、レイナちゃん!」
私は思わずレイナを抱きしめた。
「ちょ、近い近い!」
レイナは顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに笑っていた。
看板をドアに貼り付けて、一歩下がって眺める。
古い音響実験室。
誰にも使われなかった場所。
でも今は違う。
ポスターが貼られた壁。
青く光る天井。
きれいに配置された機材たち。
そして、入り口には私たちの名前。
「……いいスタジオになった」
望がぽつりと言った。
「秘密基地みたい」
レイナが目を輝かせる。
「……うん」
澪さんが小さくうなずく。
私は胸がいっぱいになって、言葉が出てこなかった。
ここが、私たちの場所だ。
Polarisの、Studio Polaris。
嬉しくて、誇らしくて、ちょっと泣きそうになった。
「よし、記念撮影しよう!」
レイナがスマホを取り出した。
「セルフィー?」
「うん! こんな大事な日、記録しなきゃ!」
レイナの提案で、四人で看板の前に並ぶ。
レイナがスマホを高く掲げて。
「はい、チーズ!」
パシャリ。
画面を見ると、四人の笑顔が映っていた。
ちょっと疲れた顔をしているけど、みんな嬉しそうだ。
この写真、一生の宝物にしよう。
* * *
「さあ、仕上げに一発やるか!」
レイナがスティックを掲げた。
全員が楽器を手に取る。
望がベースを抱え、澪さんがキーボードの前に座り、私がギターを構える。
LEDライトの青い光が、私たちを照らしている。
壁のポスターの中で、伝説のロックスターたちが見守っている。
「ワンッ、ツー、スリー、フォー!」
レイナのカウント。
そして、爆音。
新しくなったStudio Polarisに、私たちの音が響き渡る。
ドラムの振動が床を揺らし、ベースが壁を震わせ、ギターとシンセが空気を切り裂く。
最高だ。
最高に、楽しい。
演奏しながら、私はふと思った。
この光景を、ずっと覚えていよう。
この音を、この空気を、この仲間たちの顔を。
今この瞬間が、きっと私の宝物になる。
そう確信できる、夕暮れだった。
曲が終わる。
四人とも、汗だくだ。
「……疲れた」
望がソファに倒れ込んだ。
「でも、最高だったね」
レイナが笑う。
「……うん」
澪さんも、珍しく満足そうに頷いた。
私は窓のない部屋の天井を見上げた。
青いLEDライトが、星空みたいに見えた。
ここが、私たちの始まりの場所。
Studio Polaris。
この場所から、私たちの物語が本当に始まるんだ。




