# Chapter 01 - Ep05: バンド名
* * *
◆01◆
放課後のキャンパスは、けだるい熱気に包まれていた。
終わったばかりの講義の内容は、教室を出た瞬間に頭から蒸発していく。
周りを歩く学生たちの会話。
サークルの勧誘。
学食から漂う、油とソースの匂い。
それらすべてが、今の私にはノイズでしかなかった。
私は早足で、人気の少ない裏門の方へと向かう。
背中に背負ったギターケースの重みだけが、私の行くべき場所を教えてくれていた。
「旧音響実験棟」
レンガ造りの古びた建物。
蔦に覆われた外壁は、夕日を浴びて赤黒く染まっている。
重い鉄扉を開ける。
ひんやりとした空気が、頬を撫でた。
階段を降りるたびに、地上の喧騒が遠ざかっていく。
一段、また一段。
世界から音が消え、私の鼓動だけが大きく響き始める。
地下のスタジオ。
私たちの、二人だけの秘密基地。
防音扉を開けると、そこにはいつもの光景があった。
機材のランプが、暗闇の中で規則正しく明滅している。
赤、緑、オレンジ。
電子機器の排気ファンの低い唸り。
「……おそい」
奥のデスクから、不機嫌そうな声がした。
澪さんは回転椅子に深々と座り、モニターを見つめたままこちらに背を向けている。
「すみません、教授の話が長引いちゃって」
「時間は有限。一秒の遅延も無駄にはできない」
「厳密すぎますよ……」
私は苦笑しながら、ギターケースを下ろした。
重みから解放された肩を回し、大きく息を吐く。
ここに来ると、ようやく呼吸ができる。
地上の「響乃理」という役割を脱ぎ捨てて、ただの「音」になれる場所。
私はケースを開け、ギターを取り出した。
飴色のボディが、薄暗い部屋の中で鈍く光る。
ポロン、と弦を弾く。
乾いた音が、吸音材に吸い込まれていく。
「……ねえ、澪さん」
「何?」
「私たちって、何なんでしょうね」
「哲学的な問い?」
「いえ、そういう意味じゃなくて」
私はギターを抱えたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
コンクリートの染み。
剥き出しの配管。
「昨日の夜、ふと思ったんです。
私たちはこうして集まって、音を出して、曲みたいなものもでき始めてる。
でも、これって何なのかなって」
名前がない。
形がない。
誰にも定義されていない。
昨日の夜、部屋のベッドで天井を見つめながら感じた不安。
この場所で生まれた熱も、私たちが共有した一瞬の火花も。
名前を付けなければ、いつか煙のように消えてしまうんじゃないか。
日常という名の巨大なシステムに、エラーとして処理されてしまうんじゃないか。
「……同感」
澪さんが、キーボードを叩く手を止めた。
椅子を回転させ、こちらに向き直る。
モニターの青白い光が、彼女の整った顔を半分だけ照らしていた。
「名前がないファイルは、保存できない」
「……あ、やっぱりそういう発想なんですね」
「重要だから。
識別子(ID)がないオブジェクトは、システム上では存在しないのと同じ」
澪さんは立ち上がり、冷蔵庫からエナジードリンクを取り出した。
プシュッ、という炭酸の抜ける音が、静かな部屋に響く。
「決めよう。私たちの名前」
「え、今からですか?」
「思い立ったが吉日。それに、名前がないと呼びにくい」
澪さんはデスクの端に腰掛け、足をぶらぶらさせながら私を見た。
「理、何か案はある?」
「えっ、いきなり私ですか?」
「君はボキャブラリーが豊富そうだから。文学部だし」
「文学部は関係ないと思いますけど……」
急に振られて、私は言葉に詰まる。
バンド名。私のバンド。
考えたこともなかったわけじゃない。
高校時代、ノートの隅に落書きした恥ずかしい英単語の羅列が、脳裏をよぎる。
「うーん……もっとこう、明るいのがいいかなって。未来に向かっていく感じの」
「例えば?」
「『Shining Road』とか……?」
「ダサい」
「即答!?」
「昭和の歌謡曲みたい」
「うっ……じゃあ、『Blue Sky Project』」
「平凡。検索で埋もれる」
「厳しいなあ……」
私は頭を抱えた。
私のセンス、そんなに古いだろうか。
「じゃあ、澪さんは何かあるんですか?」
「ある」
澪さんは自信満々に頷き、ノートパソコンをこちらに向けた。
画面上のメモ帳に、いくつかの単語が並んでいる。
『Error 404』
『Null Pointer Exception』
『System Halt』
『Fatal Error』
『Blue Screen of Death』
「……あの、澪さん?」
「何?」
「これ、全部パソコンが壊れた時の用語ですよね? しかも、なんか死ぬほど不吉なやつばっかり」
「かっこいいのに」
澪さんは不満げに唇を尖らせた。
「破壊的で、クール。既存のシステムを否定する意志を感じる」
「否定しすぎです。お客さんが引きますよ。『Blue Screen of Death』なんて、ライブ中に機材トラブルで止まりそうじゃないですか」
「縁起でもないこと言わないで」
「澪さんが考えたんですよ!」
私たちは顔を見合わせて、ふっと笑ってしまった。
違う。
私のも、澪さんのも、何かが違う。
私の案は、綺麗すぎて、どこか嘘くさい。
澪さんの案は、鋭すぎて、誰も寄せ付けない。
私たちの音は、もっと――。
「……ねえ、理」
笑い収めたあと、澪さんが静かに言った。
「君は、何が好きなの?」
「好きなもの……ですか?」
「音楽以外で。君を構成している要素」
好きなもの。
私は視線を彷徨わせる。
狭いワンルームのアパート。
コンビニの廃棄弁当。
憂鬱な満員電車。
退屈な講義。
そんな灰色の日常の中で、私が唯一、美しいと思えるもの。
「……星、とか」
ポツリと、その言葉が出た。
「星?」
「はい。昔から、星を見るのが好きで」
子供の頃の記憶。
田舎の祖父の家。
夏休みの夜、縁側に座って見上げた夜空。
『理、あれを見てごらん』
祖父の太い指が指し示した先。
満天の星の中で、ひとつだけ動かない星があった。
「望遠鏡を覗くとね、真っ暗な空の中に、無数の光の粒があるんです。
肉眼じゃ見えないくらい小さな星も、それぞれが違う色をしてて、違う温度で燃えてて。
それを見ていると、自分がちっぽけな存在だってことさえ、どうでもよくなるというか……安心するんです」
気がつくと、私は饒舌に語っていた。
澪さんは黙って聞いてくれている。
「星か……」
澪さんは少し考え込み、再びキーボードを叩き始めた。
カタカタカタ、という軽快なタイピング音。
画面に、星の名前が次々と表示されていく。
『Sirius』
『Vega』
『Altair』
『Antares』
「どれも有名すぎますね……。それに、なんかキラキラしすぎてて、私たちっぽくないかも」
「じゃあ、マイナーな星にする? 『HD 140283』とか」
「記号! 覚えられないです」
澪さんは「むぅ」と唸り、検索条件を変えたようだ。
「じゃあ、意味のある星」
「意味?」
「これ」
澪さんがエンターキーを強く叩いた。
画面の中央に、ひとつの単語が浮かび上がる。
◆02◆
『Polaris』
「ポラリス……北極星、ですか?」
「そう。こぐま座のα星。現在の北極星」
澪さんは画面を見つめたまま、静かに語り始めた。
モニターの光の中で、彼女の瞳がきらりと光る。
「北極星は、動かない。
地球の自転軸の延長線上にあるから、他の星は時間をかけて空を回るけど、北極星だけは常に北の空に留まり続ける」
「動かない星……」
「昔の旅人は、この星を道しるべにして旅をした。
海の上でも、砂漠の中でも、北極星を見つければ自分の居場所が分かった。
『航海士の星』なんて呼ばれ方もする」
道しるべ。
自分の居場所。
その言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
重たい石ではなく、温かい光の粒として。
廃部になって、居場所をなくした私。
大学という巨大な箱の中で、どこに行けばいいのか分からずに迷子になっていた私。
そんな私を見つけてくれた、澪さん。
そして今、私たちはこの地下室で、新しい音を鳴らし始めている。
「私たちも、誰かの道しるべになれるかな」
無意識に、そんな言葉が口をついて出た。
「え?」
澪さんが振り返る。
「あ、いや……なんでもないです。ちょっと大袈裟すぎました」
恥ずかしくなって誤魔化そうとしたけれど、澪さんは私をじっと見ていた。
その視線から、逃げられない。
「なれるよ」
「えっ」
「君の声なら、きっとなれる。
暗闇の中で迷っている誰かの、足元を照らす光に」
澪さんの言葉には、不思議な説得力があった。
お世辞でも慰めでもなく、ただの計算された事実として告げているような。
あるいは、未来を見てきた予言のような。
「Polaris……」
口に出してみる。
ポ、ラ、リ、ス。
Pの破裂音の強さと、Lの流れるような響き。
Sの静かな余韻。
舌の上で転がすと、不思議なほどしっくりきた。
冷たくて、でも熱い。
遠くて、でも確かな存在感。
「いいですね。すごく、いいです」
「でしょ?」
澪さんは得意げに笑った。
今日一番の、いい笑顔だった。
「決まり」
澪さんは満足そうに頷き、フォルダの名前を変更した。
『New Project』という仮の名前が消え、新しい文字列が刻まれる。
『Polaris』
その瞬間、私たちのバンドが本当に生まれた気がした。
ただのデータの集まりだったものが、命を持って鼓動し始めたような。
◆03◆
「じゃあ、ロゴも作らないと」
「え、今すぐですか?」
「鉄は熱いうちに打て。イメージが鮮明なうちに形にする」
澪さんは早速、デザインソフトを立ち上げた。
この人の行動力には、時々ついていけなくなる。
「ちょっと、こっち来て」
澪さんに手招きされ、私は彼女の隣に椅子を持っていく。
狭いデスクの前、二人並んでモニターを覗き込む。
澪さんの肩が、私の肩に触れるか触れないかの距離にある。
微かに、甘い香りがした。
エナジードリンクの人工的な匂いとは違う、シャンプーの香りだろうか。
「シンプルでいい。星をモチーフにして……」
マウスを動かす手つきは慣れたものだ。
黒いキャンバスの上に、白い線が引かれていく。
幾何学的なラインが交差して、星の形が形作られていく。
「あ、そこ、もう少し線を細くした方が……」
「こう?」
「はい。もっと鋭い感じで。突き刺さるような」
「了解」
カチカチ、というマウスのクリック音だけが響く。
「色は? 青系がいいかな」
澪さんがカラーパレットを開く。
「いや、白でいこう。暗闇の中で一番輝く白(#FFFFFF)」
「白……いいですね。何にも染まらない色」
「そう。私たちの音は、誰にも染められない」
二人でああだこうだ言いながら、画面上の図形をいじくり回す。
線の太さを1ピクセル単位で調整し、文字の間隔を微調整する。
没頭していた。
時間の感覚がなくなるほど。
「……できた」
一時間後。
画面には、シンプルだが力強いロゴが完成していた。
北極星を模した、鋭角的な四芒星のシンボルマーク。
その下に、細身のサンセリフ体で綴られた『Polaris』の文字。
無駄な装飾を削ぎ落とした、ミニマルなデザイン。
「完璧」
澪さんが自画自賛しながら、椅子に深くもたれかかった。
私も、文句なしに格好いいと思った。
「これ、ステッカーにしたいですね」
「いいね。ギターケースに貼ろう。
あと、ノートパソコンの天板にも」
「Tシャツとかも作ります?」
「それは売れてから」
私たちは顔を見合わせて笑った。
地下室の密室。
モニターの光だけが私たちを照らしている。
世界から切り離されたこの場所で、私たちは間違いなく「共犯者」だった。
◆04◆
「じゃあ、今日はここまで」
澪さんがパソコンを閉じると、部屋は完全な暗闇に戻る前に、非常灯の緑色の光に包まれた。
私たちは荷物をまとめ、地下室を出た。
重い鉄扉を閉める。
ガチャリ、と鍵がかかる音が夜のキャンパスに響く。
地上に出ると、冷たい夜風が火照った頬を冷やしてくれた。
「寒っ……」
私は思わず身を縮める。
季節は春だが、夜はまだ冬の気配を残している。
時刻は夜の九時を回っていた。
キャンパスにはもう学生の姿はほとんどない。
遠くの校舎で、警備員の懐中電灯が揺れているのが見えるだけだ。
私たちは無言のまま、正門へと向かう並木道を歩いた。
砂利を踏む音だけが、ザッ、ザッ、とリズムを刻む。
ふと、澪さんが立ち止まった。
「理」
「はい?」
「空」
澪さんが指差す先を見上げる。
都会の夜空。
地上の光が強すぎて、空は白っぽく濁っている。
星なんて、ほとんど見えない。
「見えないね」
「ですね。東京の空じゃ、無理かな」
少し残念に思っていると、澪さんは指を下ろさずに言った。
「あそこ」
「え?」
「肉眼じゃ見えにくいけど、あの方角にある。北極星」
澪さんの指先が示すのは、真北の空。
私には、ただの暗い空間にしか見えない。
「見えなくても、そこにある。ずっと変わらずに」
澪さんの声は、夜気のように澄んでいた。
「私たちの音楽も、物語も、今はまだ誰にも見えてない」
「……そうですね」
「でも、ある。
確かに、ここに」
澪さんは自分の胸に手を当てた。
そして、私の胸にも、そっと人差し指を向けた。
「ここにも」
彼女の言葉は、確信に満ちていた。
今の私たちには、何の根拠もない。
まだライブもしたことがない。
誰かに聴かせたこともない。
ただの自己満足かもしれない。
それでも。
心臓の奥で燃えているこの小さな熱だけは、嘘じゃない。
「いつか」
私が言うと、白い息が夜空に溶けた。
「いつか、あの星みたいに。
誰かが見つけてくれるでしょうか」
「見つけさせる」
澪さんは強気な笑みを浮かべた。
「世界中が無視できないくらい、眩しく光ればいい。
そうすれば、嫌でも目に入る」
その言葉があまりにも澪さんらしくて、私は吹き出してしまった。
「ふふっ……そうですね。やりましょう」
「言質取った」
「あ」
澪さんは満足そうに頷き、再び歩き出した。
その背中は、ギターケースよりもずっと小さくて、華奢で。
でも、どこよりも頼もしく見えた。
「頑張りましょう、リーダー」
「……リーダーじゃない。発起人」
「はいはい」
私たちは並んで歩く。
『Polaris』。
動かない星。
迷える誰かのための、道しるべ。
見えない星を頭上に感じながら、私はギターケースのベルトを握り締めた。
その重みが、今は心地よかった。
夜風が、少しだけ温かく感じられたのは、きっと隣に仲間がいるせいだ。
私たちの物語には、まだタイトルがついたばかり。
ページはまだ、ほとんど白紙のままだ。
それでも、書き出しの一行目は、きっと悪くない。
「あ、そうだ理」
「なんですか?」
「お腹すいた。ラーメン食べて帰ろう」
「……さっきのエモい空気返してください」
「カロリーは正義」
澪さんは私の腕を引き、駅前のラーメン屋へと向かう。
星よりも、目の前の豚骨ラーメン。
それもまた、私たち「Polaris」らしいのかもしれない。
* * *
あけましておめでとうございます。
さて、2026年はどんな波乱が巻き起こるのでしょうか。
「事実は小説より奇なり」とも言いますし、きっと予想もつかない出来事が待っているはず。
今年も一緒に、この物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。




