# Chapter 01 - Ep04: 18歳の隙間
* * *
◆01◆
翌朝は、驚くほど普通だった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
六畳一間の床に、細長い影が落ちている。
その中を、埃がゆっくりと漂っていた。
昨日も、その前の日も、きっと同じ光景だったはずだ。
なのに――。
今日は少しだけ、遠く感じる。
枕元でスマートフォンのアラームが震えた。
安っぽい電子音が、部屋の空気を叩く。
振動がカラーボックスに共鳴して、不快な低音を撒き散らす。
指先で画面をなぞり、音を止める。
静寂が戻ると、ひんやりした朝の気配がやけに強く感じられた。
「……」
天井を見上げる。
ひび割れ一つない、無機質な白。
昨日の夜。
あの地下室で起きたことを思い返そうとする。
すると、現実の輪郭が一瞬だけ揺らいだ。
耳の奥に残っている、音の圧。
空気が沸騰するような衝撃。
澪さんの、あのまっすぐな視線。
そして『鍵』という言葉。
「夢じゃ、ないよね……」
独り言は、誰にも届かないまま消えた。
鏡の前で寝癖と対峙し、歯を磨き、冷たい水で顔を洗う。
ケトルがシュンシュンと鳴り始め、インスタントコーヒーの粉をマグに落とす。
お湯を注ぐと、苦い匂いが立ち上がった。
一口すする。
ようやく意識が、現実に縫い付けられる。
いつもの朝。
いつもの動作。
いつもの私。
それなのに。
胸の奥だけが、微妙に居心地が悪かった。
昨日の「濃さ」を知ってしまったせいで、今日の空気が薄く感じる。
支度を済ませ、ギターケースを肩に掛けて部屋を出た。
アパートの古い階段。
足を乗せるたびに、ギィ、ギィと頼りない音を立てる。
花壇の前で、大家の老婆がしゃがみこんで土をいじっていた。
「おはようございます、響乃さん。今日はいい天気ねえ」
「あ、おはようございます。そうですね」
愛想よく返す声は、ちゃんと「学生」の声だった。
昨日の私の声とは違う。
昨日は、声より先に音が出ていた気がする。
* * *
◆02◆
坂道を駅へ向かう。
街路樹は等間隔に並び、車は線の上を滑るように進む。
行き交う人はそれぞれの「今日」を抱えて、迷いのない足取りで歩いていく。
私はイヤホンを耳の奥に押し込み、プレイリストを再生した。
最近流行っている洗練されたシティポップ。
完璧に計算されたドラム。
無駄のないベース。
綺麗に磨かれたコード。
耳心地はいい。
けれど――。
(薄い)
音が遠い。
世界そのものが、薄い膜の向こうにあるみたいだ。
昨日、地下室で浴びた音の密度を思い出す。
内臓を揺らす低音。
空気を引き裂く高音。
息が詰まるほどの圧。
あれは「聴く」というより、「浴びる」だった。
『君こそが、私の鍵だ』
澪さんの声が、胸の奥で重い振動になって残っている。
満員電車。
窓に映る自分の顔が、少しぼやけて見えた。
周囲はスマートフォンの海だ。
指が画面を滑る音だけが、小さく重なる。
スーツ、学生証、名札、制服。
誰もが何かのラベルを身に付けている。
会社員。営業。学生。客。店員。
名前より先に、役割がある。
私は自分のギターケースを見下ろした。
黒くて無地。
ステッカーも落書きも、名前もない。
昨日までそれを気にしたことなんてなかったのに。
今日はそれが、やけに寂しい。
(私、何者なんだろう)
十八歳。
大学一年生。
アルバイト。
文学部。
ギター。
ボーカル。
言葉を並べても、芯がない。
どれも「説明」にはなるのに、「証明」にならない。
電車がガタン、と揺れた。
ストラップが肩に食い込み、痛みが走る。
その痛みだけが、今の私にとって唯一本物の感覚みたいで。
私はそっと、目を閉じた。
* * *
◆03◆
講義は信じられないほど退屈だった。
広い階段教室。
数百人分の熱気と無気力が混ざった空気。
教授の声は使い古されたレコードみたいだ。
抑揚がなく、眠気だけを撒き散らしている。
窓の外はどこまでも青いのに、この部屋だけ時間が止まったみたいだった。
私は一番後ろの席で、ノートを取るふりをしてペンを動かす。
視線は黒板に向けたまま。
けれど書いているのは、文学史じゃない。
昨日、あの部屋で聴いたメロディ。
頭の中で鳴り止まない、歪んだシンセの残響。
五線譜のつもりで引いた線の上。
音符が不揃いに踊る。
ページの隅に、ふと書いてしまった文字。
Studio 01
心臓が跳ねる。
慌ててペンで塗りつぶす。
黒いインクの塊が、秘密を隠すように滲んでいく。
隠したい。
けど、消したくない。
矛盾している。
まるで、自分の存在みたいだ。
昼休み。
学食は油の匂いと話し声で飽和していた。
「今日の新入生歓迎会、楽しみだね」
「先輩たちが奢ってくれるって! 料理も豪華らしいよ」
キャンパスのあちこちで弾む、無邪気な声。
サークル、飲み会、新しい予感。
その明るさが、棘のように耳に刺さった。
私は箸を止め、トレーの上のうどんを見つめた。
私の「場所」には、誰もいない。
湯気の立たない麺。
味が、ほとんどしない。
私はいつもの、窓際の端の席に座る。
ここだけが、わずかに外界から切り離された聖域だった。
でも今日は、その聖域さえ狭く感じる。
自分がここに「はまっていない」感覚が、輪郭を持って迫ってくる。
(足りない)
周りのパズルは完成しているのに、私のピースだけが形を持っていない。
いや、形がないんじゃない。
形はある。
けれど、どの穴にも合わない。
昔から友達と群れるのは苦手だった。
笑うタイミングが分からない。
盛り上がる話題についていけない。
言葉にしようとするほど、伝えたいものは指の隙間からこぼれ落ちる。
結局、愛想笑いだけが上手い「物静かな子」を演じてきた。
本当の私は、どこにいるのか。
その問いに、昨日の地下室だけが少し答えてくれた気がした。
言葉を使わなくても繋がれた瞬間。
音だけで、確かに「ここにいる」と思えた瞬間。
だから今、この場所の会話が余計に遠い。
私は、もう「無名のまま」では戻れないところまで来てしまったのかもしれない。
* * *
◆04◆
放課後。
私は実験棟へは向かわず、駅前のコンビニへ向かった。
週三回のアルバイト。
大学から駅へ流れる人の波に逆らいながら、「日常」の持ち場へ戻る。
バックヤードで制服のポロシャツに着替え、名札を胸につける。
鏡に映るのは、どこにでもいる店員の顔。
感情の薄い「接客用の顔」だ。
名前は書いてあるのに、私の中身はどこか空っぽになる。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くたび、乾いた電子音が鳴る。
レジに立ち、商品を淡々とスキャンする。
「780円になります」
「ポイントカードはお持ちですか」
「袋はご利用になりますか」
一分間に何度も繰り返す、決まりきった動作。
そこに私の意志は必要ない。
私は巨大な街を回すための、小さな歯車になる。
匿名性が、前は心地よかった。
代わりがいる安心感があった。
でも今は、その「代わり」が怖い。
私がいなくても世界は何も変わらない。
昨日まではそれでよかったのに、昨日の音がそれを許してくれない。
夕方の店内。
ホットスナックの油の匂い。
冷蔵ケースのコンプレッサーの低い唸り。
高校生の笑い声。
疲れたサラリーマンの溜息。
全部が混ざり合って、この場所の空気を作る。
ふと外を見ると、家路を急ぐ車列のヘッドライトが連なっていた。
オレンジ色の夕闇が街を侵食していく。
そのグラデーションはあまりにも美しく。
あまりにも「正解」の色だった。
『ブツッ』
不意に、バーコードリーダーの赤い光が一瞬だけ点滅した。
スキャンが通らない。
液晶に見慣れない記号が一瞬だけ走る。
「あれ……?」
もう一度、引き金を引く。
『ピッ』
今度は何事もなかったかのように正常な音が鳴る。
合計金額が表示される。
ただの読み取り不良。
古い機材の気まぐれ。
そう、頭では分かっている。
それでも――胸の奥がひやりと冷えた。
昨日、音が消えた一瞬。
世界が「飛んだ」感覚。
あれと同じ温度だ。
「店員さん、お箸ついてないよ」
「あ……っ、すみません。失礼しました」
苛立った客の声に、私は反射的に謝罪を吐き出した。
心の伴わない平坦な声。
慌てて割り箸を差し込む。
現実の時間は、一瞬の滞りも許してくれない。
ポケットのスマートフォンが、一瞬だけ震えた気がした。
取り出しても通知はない。
気のせいか、バッテリーの誤作動か。
けれどそれは、暗闇の中で私だけが受け取った微かな信号みたいだった。
「君の居場所は、ここじゃない」
誰かがそう囁いた気がして。
胸の奥が、ざわついた。
* * *
◆05◆
帰宅は22時過ぎ。
住宅街は昼の喧騒が嘘みたいに静まり返っている。
街灯のオレンジ色が足元に歪な影を落とし、アスファルトのざらつきが靴の裏から伝わった。
「……ただいま」
誰もいない六畳一間。
スイッチを押すと、蛍光灯が不機嫌そうに瞬きをしてから青白く灯った。
脱ぎ捨てた服。
コンビニの袋。
壁際に置かれたギターケース。
一人暮らしを始めて一ヶ月。
手に入れたはずの自由は、ときどきどうしようもない「空虚」として襲ってくる。
沈黙が、耳の奥に刺さった。
ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
ゴボゴボという低い音が、静寂を少しだけ埋める。
スマートフォンを開くと、母からの通知。
『ちゃんと食べてる? 来週、お米送るから。無理しないでね』
『ありがとう。大丈夫。元気にやってるよ』
嘘ではない。
けれど本当でもない。
「元気」という言葉でコーティングされた毎日。
それは、中身のない箱みたいに軽い。
私はなんとなく動画アプリを開く。
流行りのダンス、華やかな日常、整えられた笑顔。
おすすめは「正しい」楽しさで溢れている。
検索窓に指を置き、「バンド」「セッション」と打ち込む。
出てくるのは、綺麗なスタジオ、綺麗な映像、綺麗な音。
どれも上手い。
どれも正しい。
だけど、どこか違う。
昨日の地下室の音は、汚くて、熱くて、息苦しかった。
制御できない感情が、そのまま音になって溢れていた。
あれは誰かに見せるためじゃなく、存在するための音だった。
私は画面を閉じ、スマートフォンの電源を切った。
部屋に、再び重い静寂が戻る。
眠りにつく前。
床に座り込み、吸い寄せられるようにギターケースを開けた。
飴色のアコースティックギター。
昨日、澪さんが「いい音だ」と言ってくれた、私の唯一の所有物。
そっと抱きかかえ、弦をポロロンと鳴らす。
夜だから、音を殺すように指を置いたまま、振動だけを感じる。
柔らかな共鳴が、身体の芯に伝わった。
(……名前が、欲しい)
ふいに思った。
バンドの名前。
私たちの音の名前。
それがないままだと、昨日の熱が「なかったこと」になる気がした。
この世界は、名付けられていないものを簡単に消してしまう。
誰にも観測されないものを、最初から存在しなかったみたいに扱う。
私はもう、無名のままでは耐えられない。
昨日の音が、私にそれを教えた。
「……戻れないな」
昨日までの、何者でもなかった自分には。
名前のないまま、静かな世界に紛れて生きることには。
暗闇の中。
充電ケーブルに繋がれたスマートフォンのランプが、赤く脈打っていた。
まるで。
まだ名前を持たない何かが。
生まれるのを待っているみたいに。
* * *
さて、本投稿が本年最後の更新となります。
12月に初投稿として連載を始めたばかりですが、ランキングに入れたり、読んでくださる方が少しずつ増えていることが数字として見えてきたりと、ありがたさを噛みしめています。
いつも応援、本当にありがとうございます。
2026年は、青春とミステリーをさらに多方面からお届けできるよう、より一層頑張っていきます。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。




