# Chapter 01 - Ep03: 空き実験室
* * *
◆01◆
それから、私の日常は少しだけ変わった。
授業が終われば、旧音響実験棟へ。
誰もいない地下の、あの薄暗いスタジオへ。
最初は「本当に使っていいのかな」と不安だったけど、澪さんは全く気にしていない様子だった。
「この建物、五年前に新しい音響工学棟ができてから放置されてる」
「……じゃあ、本当に誰も来ないんですか?」
「年に一回、設備点検の業者が来るくらい。それ以外はゼロ」
澪さんはそう言いながら、キーボードの配線を整理していた。
几帳面な性格なのか、ケーブル一本一本に番号を振り、整然と束ねている。
「でも、電気も水道も生きてる。無駄に予算だけは潤沢な大学の恩恵」
そう言って、澪さんは珍しく小さく笑った。
* * *
◆02◆
この数日で分かったこと。
澪さんは、とにかく音に対してストイックだ。
セッション中、私が何気なく弾いたフレーズを、すぐに波形解析ソフトで分析する。
BPM、音程、倍音構成、アタックの強さ――すべてを数値化し、ノートに記録していく。
「……なんか、実験されてる気分です」
私が苦笑すると、澪さんは真顔で答えた。
「実験じゃない。観測」
「観測……?」
「君の音がどう変化するのか、記録してる」
どう変化、って。
まるで私が研究対象みたいな言い方だ。
「私ね、音楽って『再現性のある現象』だと思ってる」
澪さんはパソコンの画面を見つめたまま、淡々と続けた。
「同じコード進行なら、同じ感情が生まれる。同じBPMなら、同じ心拍数になる。音楽には、法則がある」
「でも、感情って、そんな単純じゃないですよね?」
私は反論した。
「同じ曲を聴いても、人によってノリ感じ方が違うし――」
「だから面白い」
澪さんは、私を見た。
「君の音は、法則から少しズレてる。良い意味で」
ズレてる。
それが褒め言葉なのか、ただの観察結果なのか、いまいち分からない。
でも――この人にとって、それは「特別」ってことなんだろう。
* * *
◆03◆
「今日は、この部屋の設備を全部確認しよう」
澪さんはそう言って、部屋の奥へと向かった。
「使える機材を把握しておかないと、後で困る」
私もついていく。
壁際には、年代物のラックマウント機材が積み重なっていた。
リバーブ、コンプレッサー、イコライザー。
どれも表面に埃が積もっているが、動作するかは不明だ。
「これ、全部動くんですか?」
「それを、今から確かめる」
澪さんは機材の電源を一つずつ入れていく。
古いランプが点灯し、微かなハム音が鳴り始める。
「おお……生きてる」
私は思わず声を上げた。
「前の世代の研究室が使ってた機材。アナログだけど、味がある」
澪さんは満足そうに頷いた。
「特にこのテープエコー。今の音楽にはない、温かみのある残響が作れる」
彼女は本当に、機材の話をしているときが一番生き生きしている。
* * *
◆04◆
部屋の隅、カーテンで仕切られたスペースを発見した。
「あれ、ここ何ですか?」
カーテンを開けると――そこは小さな録音ブースになっていた。
防音壁に囲まれた、1畳ほどの空間。
中にはマイクスタンドと、古いコンデンサーマイクが一本。
「ボーカルブース。ここで歌を録れる」
澪さんが、中に入ってマイクを確認する。
私もついていくと――マイクスタンドに据えられた機材に目が止まった。
「え、これ……Neumann U87じゃないですか? めちゃくちゃ高いやつ」
「知ってるんだ」
「憧れのマイクなんです。まさかこんなところで見れるなんて……」
「ずっとカバーかかってたから、触ってなかった。動くか確認しよう」
澪さんはミキサー卓に戻り、スイッチを操作した。
パチッ。
マイクのランプが、淡く光る。
「生きてる」
澪さんの声に、珍しく興奮の色が滲んでいた。
「理、試しに何か歌ってみて」
「え、今ですか?」
「うん。マイクテスト」
急に言われても、何を歌えばいいのか。
「……じゃあ、鼻歌でもいいですか?」
「それでいい」
私はブースの中に入り、マイクの前に立った。
ヘッドホンを装着すると、自分の呼吸音がクリアに聞こえる。
「じゃあ、いきます」
深呼吸して、適当なメロディを口ずさむ。
ラーラララ、ラララー……
自分の声が、ヘッドホンから返ってくる。
「――っ」
鳥肌が立った。
いつもの自分の声じゃない。
もっと、クリアで、立体的で、まるで別人みたいだ。
「すごい……」
思わず呟くと、インカムから澪さんの声が聞こえた。
『いいね。音の抜けが綺麗』
『もっと歌って。何でもいいから』
私は目を閉じて、ふと頭に浮かんだメロディを歌い始めた。
誰かに聴かせるためじゃない。
ただ、自分の声を確かめるように。
歌詞はない。
ただ、「ラーラー」と繰り返すだけ。
でも――不思議と、胸の奥から何かが溢れてくるような感覚があった。
* * *
◆05◆
歌い終わって、ブースを出る。
澪さんは、パソコンの画面を凝視していた。
そこには、私の声の波形がリアルタイムで表示されている。
「……どうでした?」
恐る恐る訊くと、澪さんは顔を上げた。
「完璧」
即答だった。
「君の声、周波数帯域が広い。低音も高音も、バランスよく出てる」
「それって……良いことですか?」
「最高」
澪さんは、珍しく笑顔を見せた。
ほんの数ミリ、口角が上がっただけの、不器用な笑顔。
でもそれは、どんな宝石よりも綺麗に見えた。
「マイクテストはOK。……次は、合わせてみる」
澪さんはそう言って、キーボードの前に座った。
「え、合わせるって……何をですか?」
「セッション。君のギターと、私のキーボード」
「ええっ、いきなり!? 練習とか――」
「いらない。感じたままでいい」
澪さんは、私を見ずに鍵盤に指を置いた。
「君は土台。私が壁と屋根を作る」
建築の話じゃないんだけどな。
心の中でツッコミを入れつつ、私はケースからギターを取り出した。
深呼吸して、Eコードを押さえる。
ジャラ……。
「いくよ」
澪さんの合図とともに、私の指が動いた。
* * *
◆06◆
ジャキッ。
最初の一音。
6弦の開放弦が、重く空気を震わせる。
続けて5弦、4弦。
単純な8ビート。
コードはEメジャー。
泥臭く、力強く。私の焦燥を、そのままぶつけるようなストローク。
すると。
ヒュン……。
空気が、変わった。
澪さんの指が鍵盤を滑る。
そこから溢れ出したのは、音階というよりは「風景」だった。
冷たい風。
夜明け前の空。
あるいは、深海の水圧。
重厚なシンセベースが床を這い、私のギターを下から支え上げる。
かと思えば、高音のきらめきが頭上から降り注ぐ。
(なに、これ……)
鳥肌が立った。
私の拙いギターが、まるで映画のサウンドトラックのように彩られていく。
「もっと」
音が、そう叫んでいた。
『もっと、感情を吐き出せ』
挑発だ。
これは、セッションという名の殴り合いだ。
上等じゃない。
私は歯を食いしばり、右手の振りを速めた。
弦が切れそうなほど強く、激しく。
ジャキッ! ジャキッ!
私の音の刃が、澪さんの作った音の壁を切り裂いていく。
その破壊衝動が、たまらなく心地よかった。
私たちが生み出した熱が、部屋の空気を焦がしていく。
視界が滲む。
涙なのか、汗なのか分からない。
ただ、目の前の世界が極彩色に明滅していた。
その時。
ブツッ。
「――っ?」
世界が、飛んだ。
一瞬。
本当に一瞬だけ、音が消えた。
いや、音だけじゃない。光も、重力も。
まるで、フィルムのコマが一つだけ欠落したように。
ガガッ……。
すぐに音は戻った。
でも、違和感は拭えないまま、残響だけが部屋に取り残された。
* * *
◆07◆
「……エラー」
しばらくして、澪さんが呟いた。
「え?」
「バッファオーバーフロー。処理落ちした」
彼女は悔しそうに唇を噛み、乱暴にキーを叩いた。
「ごめん。いいところだったのに」
「あ、いえ……それより」
私は自分の胸を押さえた。
まだ、心臓が痛いほど脈打っている。
「今の……すごく、なかったですか?」
音飛びのことじゃない。
私たちが生み出した熱のことだ。
澪さんは手を止め、ゆっくりとこちらを向いた。
その色素の薄い瞳が、私を射抜く。
「……見つけた」
彼女の瞳に、狂気にも似た光が宿る。
「君こそが、私の『鍵』だ」
「鍵……?」
意味は分からない。
でも、その言葉は呪文のように私の心に刻まれた。
「明日も来る?」
澪さんが訊いてくる。
「もちろんです」
私は即答した。
「じゃ、また明日」
澪さんは小さく手を振って、パソコンに向き直った。
部屋を出て、階段を上る。
重い扉を開けると、そこには当たり前の夕焼けがあった。
でも、私には分かっていた。
世界はさっきと同じようで、決定的に何かが変わってしまったと。
Studio 01。
まだ二人だけの、名前もないバンド。
でも、ここから何かが始まる。
そんな確信めいた予感が、私の背中を押していた。
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