仕掛けられた罠
入学から半年近くが過ぎていた。
季節は既に秋へ移り変わっている。
学園生活にも慣れ、生徒達の人間関係も固まり始めていた。
だが、その裏では別のものも根を張っていた。
聖女候補フィオナ様を称賛する空気。
彼女へ異を唱える者を疎む空気。
そして、その流れを巧妙に誘導する人間達。
カイル・グラントが蒔いたさまざまな種は、半年という時間をかけて学園中へ根を張っていた。
だからこそ、今ここで止めなければならない。
フェリクス様を救う。
その方針は翌日のうちに決まった。
既に噂は広がり、証言の収集も始まっている。
何もせずにいれば、フェリクス様は前回の私と同じ道を辿るだろう。
大勢の前へ立たされ、身に覚えのない罪を着せられ、弁明の機会すら与えられないまま断罪される。
私はその恐ろしさを誰よりも知っていた。
◇◇◇
放課後、私はライアン様と共に中庭を歩いていた。
穏やかな陽射しが石畳を照らしている。だが私の胸の内は重かった。
前回の人生を思い出していたからだ。
私は長い間理解できなかった。
なぜ皆がフィオナ様の側へ集まったのか。
なぜアレクシス殿下が、カイルが、オリバーが、そして、セドリックが、
あれほど強くフィオナ様を守ろうとしたのか。
今なら少しだけ分かる。フィオナ様は特別だった。
平民出身で、聖女候補。本来なら貴族社会とは交わるはずのない少女だった。
素直で控えめに見えた。
人懐こく、助けられれば心から喜ぶように見えた。
少なくとも周囲には。
それが本当のフィオナ様だったのかどうかは、今の私にも分からない。
ただ一つだけ確かなのは、彼女が人を惹きつける術を持っていたということだった。
特に殿下はそうだったのだろう。以前、私は偶然耳にしたことがある。
『聖女候補は国家にとって重要な存在だ』
『正式に認定されるまでは、王族が守らなければならない』
殿下はそう語っていた。王族として当然の責任感だと思ったから、当時の私は何も疑わなかった。
だが。一度だけ、私は殿下へ申し上げたことがあった。
『少々距離が近過ぎるのではありませんか』
責めるつもりではなかった。嫉妬でもない。婚約者として不満を抱いていたわけでもない。
ただ周囲の目が気になったのだ。
聖女候補ばかりを特別扱いすれば、余計な憶測を招くと考えただけだった。
けれど。
『邪推し過ぎだ』
返ってきた言葉は冷たかった。
『彼女は守られるべき立場だ』
『君までそのようなことを言うのか』
それ以上、私は何も言えなかった。その時からだったのかもしれない。
私の言葉が少しずつ届かなくなったのは。
気付けば殿下の周囲にはフィオナ様を中心とした輪ができていた。
カイルは正義感が強かった。
弱い立場の人間を見れば放っておけない。
それは本物だった。だからこそ危険だった。
自分が正しいと信じる人間ほど、自分の過ちに気付きにくい。
オリバーは違う。彼は感情では動かない。理屈と効率を優先する人間だった。
最初に結論を定める。その後に最も合理的な手段を探す。
証言の編集も彼にとっては、その延長線上に過ぎなかったのだろう。
そしてセドリック。彼は最も単純で、最も厄介だった。
騎士は主君へ従う、それが絶対だった。
殿下が守ると言えば守る。殿下が敵だと言えば敵になる。
そこに迷いはない。
卒業式の日。最後まで私へ剣のような視線を向けていたのも彼だった。
今でも覚えている。無実を訴える私を見ても。彼は一度も揺らがなかった。
あの男は世論で動かない。証言にも左右されない。主君への忠誠だけで動く。
だから、カイルとオリバーを崩したとしても。
終わりではない。
◇◇◇
「ローゼンベルク様?」
呼び掛けられて顔を上げる。
フェリクス様だった。
私達に呼び出された彼は、困惑したような表情を浮かべている。
「少々お時間をいただけますか」
「構いませんが……」
フェリクス様は頷いた。
私達は中庭の一角へ移動する。
「最近、周囲の様子がおかしいと思いませんか」
私が尋ねると、フェリクス様は苦笑した。
「やはり分かりますか」
疲れたような声だった。
「正直なところ困っています」
「最近、避けられるんです」
「陰で何か言われているのも分かります」
「心当たりはありますか」
ライアン様が尋ねる。
「ありません」
即答だった。迷いはない。
「ただ」
少し考えて続けた。
「最近、カイル様と話す機会が増えました」
私はライアン様と視線を交わした。
予想通りだ。
「どのようなお話を?」
「フィオナ様についてです」
フェリクス様は答える。
「もっと理解してあげてほしい」
「誤解があるかもしれない」
「そういう話でした」
命令でも強要でもない。だが方向だけは示している。まさしくカイルのやり方だった。
「ルートナー様」
私は静かに言った。
「これから状況はさらに悪化します」
フェリクス様が目を見開く。
「え?」
「既に『フィオナ様を快く思っていない』という噂が出ています」
「今後はもっと直接的になります」
「貴方が聖女候補そのものを否定している、という話になるでしょう」
数日後、私達が予測した通り、新たな噂が広がり始めた。
『フェリクスは聖女候補そのものを否定している』
それは以前よりも悪質だった。
もはや意見の違いではない。
聖女候補そのものへの敵意として解釈される言葉だった。
再び会った時、フェリクス様の顔色は青ざめていた。
「本当に出ました」
掠れた声だった。
「信じていただけましたか」
ライアン様が尋ねる。
フェリクス様はゆっくり頷いた。
「協力します」
その一言で全てが決まった。
そこから私達は罠を張った。フェリクス様には普段通り生活してもらう。
ただし幾つかの議論だけは意図的に人前で行う。
聖女候補制度。
教会の役割。
貴族と平民。
どれも議論として成立する内容ばかりだった。
一方でライアン様は信頼できる生徒達へ協力を依頼していた。
聞いた内容を、そのまま記録してもらうために。
飾らず、誇張せず、聞こえた通りを。
「これで比較できます」
ライアン様は静かに言った。
「本来の発言と」
一拍置く。
「提出される証言を」
オリバーは予想通り動いた。
学園内で証言の収集が始まる。
その報告を受けた瞬間、私はライアン様と顔を見合わせた。
集められた証言は整理され、都合の良い部分だけが残される。
やがて一人の悪人像が出来上がる。
私達が警戒しているのは、まさにその過程だった。
◇◇◇
その夜、執務室へ集まった私達の前へ、一枚の通達が置かれる。
「学園が動きます」
ライアン様が言った。
「学年集会か」
お父様が低く呟く。
「はい」
ライアン様は頷いた。
「三日後です」
私は息を呑んだ。断罪はいつも公開の場から始まる。
誰もが見ている場所で。誰もが信じる場所で。
「準備は整っています」
ライアン様が言う。
「証言の原本もあります」
「ならば戦えるな」
お父様の声は静かだった。
戦える。
確かにそうだろう。
カイルの世論、オリバーの証言。
今度こそ崩せる。
だが。
私の脳裏には、もう一人の姿が浮かんでいた。
セドリック・ハワード。
もし学年集会でカイルとオリバーを止められたとして。
それで終わるとは思えなかった。セドリックは主君の判断を疑わない。
殿下がフィオナ様を守ると決めている限り、彼もまた、その意思に従うだろう。
いずれ私は、あの男とも向き合わなければならない。
学年集会まで、あと三日。
最初の戦いが、ようやく始まろうとしていた。




