最初の敵
王立学園へ入学してから二週間。
窓から差し込む陽射しは柔らかく、校庭には笑い声が満ちている。
何も知らなければ、平和な学園生活そのものだった。
だが私には分かっていた。
平穏とは、嵐の訪れを知らない者だけに許された幻想なのだと。
フィオナ・セインツ様は、かつて私が見た未来と同じように学園で急速に人気を高めていた。
平民出身の少女。特別に妖艶な美貌を持つわけではないが、人の心へ入り込むことに長けていた。
誰に対しても柔らかく微笑み、身分の差なく言葉を交わし、相手の話を真剣に聞く。
教会から『聖女候補』として期待されているという肩書きが、その評判をさらに後押ししていた。
聖女候補とは、教会が将来の聖女となる可能性を認めた者へ与える称号である。
王国全体でも数名しか存在せず、その多くは各地の神殿や大聖堂で活動している。
王立学園へ在籍している候補者はフィオナ様だけだった。
教会行事への参加。
慈善活動や慰問。
時には王族主催行事へ列席することもある。
その役割は多岐にわたり、人々から向けられる期待も大きい。
人々が特別視するのも無理はなかった。
聖女候補という言葉には、それだけの重みがあった。
そして前回の私は、その肩書を疑いもしなかった。
フィオナ様の実際の治癒魔法は中級程度に過ぎない。
だが、人は能力だけで誰かを評価するわけではない。
平民出身の心優しい聖女候補。その響きは、誰もが好む物語だった。
婚約者であるアレクシス殿下とも、全く顔を合わせていないわけではなかった。
学園内で見掛ければ挨拶を交わす。時には昼食会や茶会に同席することもある。
先日も、王城で開かれた小規模な晩餐会へ招かれたばかりだった。
殿下は以前と変わらず穏やかだった。
学園生活について尋ね、勉学の話をし、私の体調まで気遣ってくださる。
何一つ不自然なところはなかった。
それなのに。
私は殿下の顔を真っ直ぐ見ることができなかった。
卒業式の日を思い出してしまうからだ。
私を見下ろしていた冷たい眼差しを。婚約破棄を告げた時の声を。
一般牢へ送る命令を下した時の表情を。
まだ起きていない未来の出来事だと分かっている。
今の殿下は何も知らない。少なくとも今の殿下は、あの日の殿下ではなかった。
それでも胸の奥に残る痛みは消えなかった。
不思議なことに、かつて抱いていた恋情を思い出すこともなかった。
以前の私なら、殿下と過ごす僅かな時間さえ特別だった。言葉を交わすだけで嬉しかった。
その笑顔を見るだけで満たされていた。けれど今は違う。
目の前にいるのは婚約者であるはずなのに、胸は少しも高鳴らなかった。
残っているのは愛情ではない。
信じていた人に見捨てられたという記憶だけだった。
◇◇◇
ある日の昼休み。私は中庭へ続く回廊を歩いていた。
ふと前方が騒がしくなる。一人の女子生徒が石畳へ転倒したのだ。
擦りむいた膝から少し血が滲んでいる。大した怪我ではない。保健室へ行けば済む程度のものだった。
だがその時。
「大丈夫ですか?」
真っ先に駆け寄ったのはフィオナ様だった。彼女は躊躇なく膝をつき、治癒魔法を施す。
柔らかな光が傷口を包み込み、流れていた血が止まった。
周囲から感嘆の声が上がる。
「なんてお優しいの」
「さすが聖女候補ですわ」
「素晴らしい方だわ」
フィオナ様は困ったように笑う。
「そんな、大したことではありません」
その姿を見つめながら、私は静かに息を吐いた。フィオナ様は何も間違っていない。
誰かを助けただけだ。だが同時に、その場にいた全員が同じ印象を強めていた。
優しい人、聖女と呼ばれるに相応しい人。
そうした認識は少しずつ積み重なり、人々の中で揺るがぬものへ変わっていく。
違和感を覚えたのは、その数日後だった。
談話室で紅茶を飲んでいると、近くの席で噂話が始まる。
「聞きまして?」
「何をですの?」
「レティシア様がフィオナ様を侮辱したそうですわ」
私は思わず耳を傾けた。レティシア・ヴァンデル伯爵令嬢。成績優秀で真面目な人物だ。
「何と仰ったのですか?」
「聖女候補になるには実績が不足しているのではないか、と」
「あら……」
令嬢達の表情が曇る。だが私は首を傾げた。それは侮辱なのだろうか。一つの意見に過ぎないのではないか。
しかし翌日、その噂は変化していた。
レティシア嬢は聖女候補を認めていない。
更に翌日。
平民を見下しているらしい。
数日後には。
人格に問題のある傲慢な令嬢。
そんな評判になっていた。
同じことが何度も繰り返された。
教会の方針に疑問を呈した生徒。
聖女候補という肩書きを慎重に扱うべきだと発言した生徒。
アレクシス殿下には既に婚約者がおられると口にした生徒。
そうした者達ばかりが噂の標的になる。
まるで見えない基準が存在するかのように。
私は背筋に冷たいものを感じた。これは偶然ではない。
前回も見た。同じ空気を、同じ流れを。
答えを得たのは、その翌日だった。
中庭に面した回廊で、私は偶然カイル・グラント様を見かけた。
相手をしていたのは侯爵家の令息だった。二人は穏やかに会話している。
「フィオナ様は本当に立派な方ですね」
カイル様は微笑む。
「そうだな」
令息も頷いた。
「だからこそ心配なんです」
その言葉に私は足を止めた。
「心配?」
「ええ」
カイル様は少し困ったような表情を見せる。
「最近、フィオナ様に対して良くない感情を抱いている方がおられると聞きまして」
「誰だ?」
「分かりません」
カイル様は首を振る。
「もちろん事実かどうかは分かりません」
そこで話は終わると思ったが彼は静かに続ける。
「ですが、もし本当ならフィオナ様は何も仰らず耐えておられることになります」
「私は、それが少し心配なのです」
令息の顔色が変わった。
「聖女候補が傷付けられているかもしれないのか」
「私もそうでないことを願っています」
カイル様はそう言って微笑んだ。誰の名前も出していない。誰も非難していない。
ただ心配しているだけだ。
けれど。
その場を離れた令息の胸には確実に疑念が植え付けられていた。
三日後。その令息は別の生徒達へ話していた。
「どうやらフィオナ様が苦労されているらしい」
五日後。
「フィオナ様へ悪意を向ける者がいるそうだ」
一週間後。
「聖女候補を虐めている連中がいる」
噂は成長していた。誰かが命令したわけではない。人々が自ら広げたのだ。
だが私は最初の一歩を与えた人物を知っている。
その夜、侯爵家の執務室で私は見聞きしたことを話した。
話を聞き終えた後、お父様は長く沈黙していた。
「なるほど」
やがて低く呟く。
「これは単なる噂ではないな」
するとライアン様が続けた。
「はい」
彼の表情は険しかった。
「世論です」
それからしばらくして、ライアン様は大量の書類を抱えて戻ってきた。
「調査結果です」
机の上へ書類が並べられていく。
「噂の標的となった人物は八名」
伯爵令嬢。
侯爵家の令息。
騎士科の上級生。
平民科の首席。
立場も身分も異なる。
だが。
「全員に共通点があります」
ライアン様は静かに言った。
「全員がフィオナに否定的な発言をしています」
「ある者は聖女候補を過剰に持ち上げるべきではないと言いました」
「ある者は教会の方針を疑問視しました」
「ある者は殿下とアメリアの婚約を支持しました」
「逆に言えば、フィオナを支持する者が標的になった例はありません」
お兄様が眉を寄せる。
「偶然ではないな」
「はい」
ライアン様は頷いた。
「標的となっているのは行動を起こした者ではありません」
「フィオナに対して、どのような考えを持っているかです」
部屋が静まり返る。
お兄様が低く呟いた。
「思想の選別か」
「更に興味深いことがあります」
ライアン様が最後の書類を置いた。
「標的となった八名は全員、噂が広がる直前にカイル・グラントと接触しています」
お兄様の視線が鋭くなる。
「証拠はあるのか」
「直接的なものはありません」
ライアン様は首を振った。
「カイルは命令していません」
「断定もしていません」
そして淡々と続ける。
「ただ問い掛けるのです」
『もし本当なら問題ではありませんか』
『弱い立場の方を守るべきだと思うのですが』
『疑うのは良くありませんが心配ですね』
どれも正しい言葉だった。だから否定できない。だから受け入れてしまう。
私は前回の敗因を理解した。
カイル・グラントは嘘を作らない。証拠も捏造しない。
もっと巧妙だ。
まずフィオナを善良さの象徴へ変える。
そして彼女を守ることを正義と定義する。その正義に反対する者は悪となる。
異論を唱える者は敵となる。
後は簡単だった。
人々は自らの善意によって動く。
正しい側へ立とうとする。皆がそうしているから。そうしなければ自分が悪になるから。
誰も自分が誘導されているとは思わない。自らの判断だと信じている。
話し合いの後、私は一人で庭園へ出た。
夜風が頬を撫でる。遠くで噴水の音が聞こえていた。
カイル・グラント。
私を断罪した第一側近。
彼は剣を振るわない。
魔法も使わない。
ただ人の心を操る。
善意を利用し、恐怖を利用し、正義を利用する。
そして気付けば、誰もが同じ方向を向いている。
あの日の卒業式も、きっとその延長線上にあったのだろう。
私は静かに拳を握り締めた。
だが今度は違う。
敵の正体は見えた。その手口も理解した。ならば必ず崩せる。
夜空を見上げながら、私は胸の内で固く誓った。
カイル・グラント。
貴方が築いた偽りの正義は、私達が打ち砕いてみせる。




