打ち明ける覚悟
そう決意したところで、現実は何も変わらない。
私は十五歳の少女でしかなかった。
侯爵家の娘ではあっても、王族を相手取って戦えるわけではない。
現実の私は震えている。恐怖が消えていない。
目を閉じれば、今もあの牢が蘇る。呼吸も上手く整わない。
「お嬢様……?」
不安そうに呼びかける声に、私は顔を上げた。
マリーだった。
学園入学を機に侯爵家を辞し、病を患った母親の看病のため故郷へ帰った侍女。
胸が苦しくなる。大丈夫、まだ何も失われていない。
「少し……一人にしてもらえるかしら」
掠れた声でそう告げると、マリーは心配そうな顔をしながらも頭を下げた。
扉が閉まる。部屋に静寂が落ちた。
私はゆっくり息を吐き、震える両手を見つめた。
一人では駄目だ。
今度は信じるべき人たちを頼る。
やがて部屋の扉が叩かれた。
「アメリア?」
「入るわよ」
扉が開く。
エレノア・ローゼンベルク。
私の母だ。その姿を見た瞬間、私は立ち上がっていた。
「お母様……」
「どうしたの?」
私は答えられなかった。代わりに母へしがみ付く。
温かかった。失ったと思っていた温もりだった。
あの日の私は、お母様に助けを求めることすらできなかった。
だから今こうして母の腕の中にいることが、信じられなかった。
「アメリア……?」
母は戸惑いながらも優しく背を撫でてくれる。
私はその温もりに縋った。
◇◇◇
朝食の席には、お父様もお兄様も揃っていた。
いつも光景だったけれど私には眩しかった。
「顔色が悪いな」
お父様が眉を寄せた。
「昨夜、眠れなかったのか?」
お兄様も心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫です」
そう言って笑おうとしたけれど上手く笑えなかった。
使用人達が朝食を並べていく。
焼きたてのパン、温かなスープ、果物。
私はパンへ手を伸ばした。小さくちぎり、口へ運ぶ。
噛む。そこまでは問題なかったが飲み込もうとした瞬間だった。
喉が閉じる。空気が入らない。呼吸ができない。
肺が空気を求めて悲鳴を上げる。
違う。
これは危険ではない。ただのパンだ。
それなのに飲み込めない。喉が苦しい。息ができない。
嫌だ。やめて。苦しい。
「アメリア?」
お母様の声が遠く聞こえた。
激しい吐き気が込み上げる。
「ごほっ、ごほっっ!」
口の中のものを吐き出す。
「アメリア!」
お兄様が椅子を蹴るように立ち上がった。
大丈夫だと言いたかったけれど声にならない。
涙が溢れる。呼吸をしようとするたび、喉の奥から苦しげな音が漏れた。
視界が揺れて、遠ざかる。お母様とお兄様が何かを叫んでいる。
けれど、その声も次第に聞こえなくなっていった。
そして私は意識を失った。
◇◇◇
目を開けると見慣れた天井だった。
「アメリア!」
お母様の声が聞こえる。
視線を向けると、お父様とお兄様もいた。三人とも酷く心配そうな顔をしている。
「気が付いたか」
お父様が安堵したように息を吐いた。
「医師は身体に異常はなさそうだと言っていたが……」
お兄様が言葉を切る。
「正直、あの様子は異常だった」
重い沈黙が落ちた。
「何があったの?」
お母様が尋ねる。
「話してちょうだい」
気遣う声だった。
私は布団を握り締める。
怖かった。信じてもらえなかったら。おかしくなったと思われたら。
けれど、それだけではない。
時間は戻った。身体も十五歳の頃へ戻った。
それでも、私自身は知っている。
一般牢で過ごした日を。
近付いてくる足音を。
看守たちを。
助けてと叫んだことを。
痛いと泣いたことを。
何があったのか。何をされたのか。思い出したくなかった。
けれど忘れることもできなかった。
身体は戻った。傷も残っていない。
だが私はもう、以前の私ではなかった。
仮に未来を変えられたとして。断罪を回避できたとして。
もう誰かの婚約者になることなど、誰かの妻になることなど。
私には許されないのではないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
それでも。
今はそれより先にやるべきことがある。
私は覚悟を決めた。
「お父様、お母様、お兄様」
私は顔を上げて、深く息を吸った。
「これから信じられない話をしますが、最後まで聞いていただけますか」
お父様が優しく言う。
「話してみなさい」
その一言に背中を押された。
「私には三年後までの記憶があります」
全てを話した。
卒業式の日のこと。アレクシス殿下による断罪。婚約破棄。聖女フィオナ様。
一般牢。そして朧気ながら看守たちに何をされたか。
そして最後に覚えている、息ができなくなったあの瞬間まで。
話し終わる頃には喉が焼けるように痛かった。
部屋には重い沈黙が落ちていた。
最初に口を開いたのはお兄様だった。
「あり得ない」
怒りを押し殺した声だった。
「アメリアがそんなことをするはずがない」
拳が震えている。
「一般牢だと……?」
怒りを押し殺しているのが分かる。
お母様は蒼白になりながら口元を押さえていた。
瞳に涙が浮かんでいる。
「そんな……」
掠れた声だった。
「そんな酷いことが……」
お父様は長く考え込んでいた。やがて静かに言う。
「アメリア」
「はい」
「殿下のことはどう思っている」
部屋の空気が変わった。
お兄様も、お母様も何も言わない。
だが全員が私を見ていた。当然の質問だった。
前回の私はアレクシス殿下を愛していた。
殿下の隣へ立つために勉学へ励み、王妃教育にも真剣に取り組んだ。
少しでも相応しい婚約者になりたかった気持ちは本物だった。
卒業式の日を思い出す。私の言葉を信じてくださらなかった人。弁明すら聞こうとしなかった人。
そして私を一般牢へ送るよう命じた人。
好きだったはずなのに。胸に残っていたのは今はもう悲しみではなかった。
静かな諦めだった。
「もう残っておりません」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「何も」
誰も言葉を発しない。
私は続けた。
「証拠を確かめることよりも、罪人だと決めつけることを優先した方です」
「今の私にとって殿下は、未来を変えるために警戒すべき相手です」
長い沈黙が落ちる。やがてお父様が小さく頷いた。
「そうか」
それ以上は誰も何も聞かなかった。家族は理解したのだ。私の恋が、あの日の大講堂で終わったことを。
「アメリア」
お父様が改めて私を見る。
「お前はどう思っている」
私は少しだけ俯いた。
「分かりません」
それが正直な答えだった。
「私も信じられないんです」
三人が黙って聞いている。
「ただ、あまりにも鮮明なんです」
牢の臭いも、恐怖も、苦しさも。
「だからお願いがあります」
「これから起きることをいくつかお話しします」
お父様の目が細まる。
「その通りになるか確認してください」
「未来の出来事か」
「はい」
私は頷く。
「これが本当に未来だったのだと」
「ただの悪夢ではなかったのだと」
「私自身、確証が欲しいんです。だから確認してください」
これが悪夢なのか、それとも本当に未来なのか。
やがてお父様がゆっくり頷いた。
「分かった」
その一言に胸が軽くなる。ちゃんと向き合ってくれた。
「では話してもらおう」
お父様が紙を引き寄せる。お兄様も席に座り直す。
お母様は私の手をそっと握ってくれた。
「これから一か月以内に起こることをお話します」
「まず春迎え祭の日です。王都南区で大きな火災が起こります」
私は記憶を辿る。
「火災?」
お兄様が眉をひそめた。
「はい。夜半に雑貨店から出火します。」
当時、王都中で話題になった出来事だった。
祭りの最中に起きた大規模火災だったため、新聞も連日その話題を取り上げていた。
「死者は出ませんが、強風で周囲の建物へ延焼しました」
お父様が紙へ書き留める。
私は続けた。
「その次は建国記念式典です。騎馬演武で、王城騎士団副団長アルフォンス・ベルナー様が落馬します」
お父様が顔を上げる。
「右腕を骨折し、一か月ほど公務を離れることになります」
お兄様が顔色を変えた。
「副団長が?」
その反応は当然だった。王城騎士団所属のお兄様にとって、直属の上官にあたる人物なのだから。
「確かなのか」
「はい」
前回の人生でも騎士団内で大きな騒ぎになった出来事だった。
お兄様も何度かその話をしていた記憶がある。
「......信じ難いな」
それでもお兄様は真剣な顔で呟いた。
私は最後の一つを口にした。
「そして社交シーズン最初の夜会で、東方伯クレイグ家の嫡男が婚約を破棄されます」
「婚約破棄?」
お母様が目を丸くする。
「相手の伯爵令嬢に恋人がいたことが発覚するんです。王都の社交界でも大きな話題になります」
沈黙が落ちた。三人とも顔を見合わせる。
一つなら偶然かもしれないが、三つ。
火災、騎士団、副団長、貴族の婚約問題。
まるで関連性のない出来事ばかりだった。
「これらが起きるか確認してください」
拳を握る。
もし、この三つ全てが現実になれば。私はもう疑わない。
あの地獄は夢ではなかったのだと。
そして、その時こそ。
本当の意味で未来を変える戦いが始まる。




