悪役令嬢の最期
私は第二王子アレクシス・ルーベルト殿下を愛していた。
それは幼い頃から抱き続けていた想いだった。
初めて婚約者として紹介された日のことを、今でも覚えている。まだ少年だった彼はどこかぎこちなく、それでも真っ直ぐに私を見て微笑んだ。
その笑顔が嬉しかった。ずっと彼の隣に立つ未来を信じていた。
だから努力した。武門の名門と呼ばれるローゼンベルク侯爵家の娘としてではなく、彼の婚約者として相応しい女性になるために。
政治を学んだ。外交を学んだ。語学も学んだ。礼儀作法を身に付けた。ダンスも何度も練習した。
全ては彼のためだった。彼に必要だと思ってほしかった。
ただ、それだけだった。
けれど。
いつからだろう。
殿下が私を見る時間が少なくなったのは。
学園へ入学してからだったように思う。
聖女候補フィオナ・セインツ様。彼女が現れてから、殿下の隣にはいつも彼女がいた。
最初は気にしていなかった。殿下が気に掛けるのも当然だと思った。
困っているのなら助けたいと思うのも。
聖女候補として尊敬するのも。
きっと王族として正しいことなのだろうと。
そう思っていた。
けれど。
気付けば二人で過ごす時間が増えていた。
フィオナ様が笑えば殿下も嬉しそうに笑った。
フィオナ様が困れば真っ先に手を差し伸べた。
そんな殿下を見るたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
それでも私は何も言えなかった。
婚約者として相応しくあろうとするばかりで。本当の気持ちを伝えることができなかったのだ。
それなのに。
私の未来は、卒業式の日にあっけなく終わりを迎えた。
◇◇◇
学園の卒業式は滞りなく終わった。祝福と笑顔に満ちた大講堂。
卒業生達は友人達と語り合い、それぞれの未来へ思いを馳せている。
そんな穏やかな空気を切り裂くように、一人の男の声が響いた。
「アメリア・ローゼンベルク侯爵令嬢」
呼ばれて振り返った先にいたのは、アレクシス殿下。そしてその隣にはフィオナ様。
さらに後ろには三人の側近達が並んでいた。
第一側近カイル・グラント様。
騎士科首席セドリック・ハワード様。
文官科首席オリバー・ウェスト様。
見慣れた顔ぶれだが、その場に漂う空気は異様だった。
彼らは皆、まるで罪人を見るような目で私を見ていた。
「貴様との婚約を破棄する」
会場が静まり返った。
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
婚約破棄。
それは、本来なら家同士の話し合いを経て慎重に進められるものだ。
まして公衆の面前で宣言するようなものではないのに、まるで以前から決めていたかのようにアレクシス殿下は迷いなく告げた。
「……殿下?」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど弱々しかった。
しかしアレクシス殿下の表情は変わらない。そこにあったのは嫌悪だった。
「まだ白を切るつもりか」
「何のことでしょう」
問い返すと、前へ出たのはカイル様だった。
「アメリア・ローゼンベルク。貴女はフィオナ様に対し、長期間にわたる嫌がらせを行った」
何を言われているのか分からなかった。
「階段から突き落とそうとした件」
「教材を隠した件」
「悪質な噂を流した件」
「その他にも数々の嫌がらせが確認されております」
次々と並べられる罪状。
だが、そのどれも身に覚えがなかった。
「被害を目撃したという生徒達の証言も集まっております」
今度はオリバー様が前へ出る。手には何枚もの書類が握られていた。
「証言は全て記録済みです」
まるで事実が確定しているかのような淡々とした口ぶりだった。
そんな証言など存在しないことを私は知っている。
少なくとも私がフィオナ様に危害を加えた事実はないのだから。
「申し開きはあるか」
アレクシス殿下が問う。
私は唇を噛み締めた。
悲しかった。怒りより先に、悲しさがあった。
彼は本気で信じているのだろうか。それとも最初から信じる気がないのだろうか。
「そのような事実はございません」
顔を上げ、はっきりと言う。
「証言は証拠ではございません。私を有罪とする証拠をお示しください」
アレクシス殿下は眉一つ動かさない。そして返ってきたのは、あまりにも理不尽な答えだった。
「必要ない」
「フィオナは聖女候補だ」
アレクシス殿下は断言した。
「嘘を吐くはずがない」
その瞬間、私は全てを悟った。
証拠など関係ない。真実も関係ない。必要だったのは悪役だけ。聖女を引き立てるための敵役。
それが私だった。
フィオナ様は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
震える声で、
「私はアメリア様を罰したいわけでは……」
「こんなことになるなんて思っていなかったんです……」
周囲から同情的な視線が集まる。
聖女は優しい。聖女は被害者だ。誰もがそう思っていた。
けれど私はフィオナ様の本当の顔を知っている。
『侯爵令嬢って羨ましいです』
以前、二人きりになった時に言われた。
『最初から全部持っているんですもの』
とても綺麗な笑顔で。
『私だって頑張ったんです』
その目には羨望と嫉妬があった。そして優越感も。
『私だって努力してここまで来たんです。だから少しくらい幸せになってもいいですよね?』
そう言った彼女の瞳は、決して純粋なものではなかった。
「よってアメリア・ローゼンベルクとの婚約を破棄する」
アレクシス殿下の宣告が響く。
「さらに国外追放とする」
胸が痛んだ。好きだったから。本当に好きだったから。
だからこそ辛い。苦しい。
彼が私を信じてくれなかったことが。
悲しい……
「連れて行け」
アレクシス殿下の命令で前へ出たのはセドリック様だった。
私は思わず彼を見上げる。だが彼は目を逸らさない。無表情のまま私の腕を掴んだ。
「離してください」
訴えても力は緩まない。振りほどこうとした瞬間、身体を強く押された。
床へ倒れ込む。膝に鋭い痛みが走った。周囲がざわめく。
侯爵令嬢への扱いではない。
だがセドリック様の表情は変わらなかった。
「立て」
私が立ち上がれずにいると、セドリック様は舌打ちし、眉を顰めた。
まるで面倒な荷物でも扱うように腕を掴み、無理やり引き上げる。
その姿に騎士としての誇りは見えなかった。
◇◇◇
異変に気付いたのは、その後だった。
連れて行かれた場所を見た瞬間、全身の血の気が引く。
薄暗い通路。鉄格子。鼻を突く悪臭。
そこは貴族牢ではなかった。
平民の罪人を収監する一般牢だった。
「待ってください」
呼び止めても、セドリック様も兵士達も答えない。
「私は侯爵令嬢です」
反応はない。嫌な予感が膨らんでいく。
そして気付いた。
お父様は国境にいる。お兄様も同行している。
ローゼンベルク侯爵家は代々国境防衛を担う武門侯爵家だ。隣国との紛争対応のため、お二人とも王都を離れていた。
国王陛下と王妃殿下も同じだ。停戦協議のため隣国へ赴いている。
お母様は王都にいる。けれど、この状況を知っているのだろうか。
誰も来ない。まるで全てが仕組まれていたかのようだった。
背筋を冷たいものが這い上がる。
偶然とは思えなかった。
◇◇◇
薄暗い牢の中で私は震えていた。
何かがおかしい。これは国外追放の手続きではない。
何か別の目的がある。
そう思った時にはもう遅かった。
複数の足音が近付いてくる。
鉄格子の向こうに現れた看守達を見た瞬間、本能が危険を告げた。
助けではない。
これは終わりだ。
それから先の記憶は曖昧だった。
看守たちの手が伸びてきた。
嫌だった。
怖かった。
必死に逃げようとした。
痛い、やめて、助けてと声の限り叫んだ。
けれど誰も来なかった。
助けを求めても誰も来なかったこと。
どれだけ泣き叫んでも誰も助けてくれなかったこと。
恐怖だけが残っている。
そして最後に覚えているのは。
息ができなかったことだった。
口の中へ無理やり押し込まれた布。
塞がる喉。吸おうとしても吸えない空気。
苦しい、助けて、死にたくない。
肺が悲鳴を上げる。
視界が暗く染まっていく。
嫌だ。
嫌だ!!
まだ死にたくない。
誰か――
「お嬢様!」
その声と同時に、私は弾かれたように身体を起こした。
「っ、げほっ! げほっ!」
激しい咳が込み上げる。呼吸が上手くできない。
喉が痛い。
胸が苦しい。
私は必死に空気を求めた。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
頭が追いつかない。恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは鉄格子ではなかった。薄汚れた石壁でもない。
見慣れた天蓋付きの寝台。柔らかな絨毯。朝日が差し込む窓。
「……え?」
掠れた声が漏れる。
理解できない。
どうして。
ここは牢ではない。
私は死んだのではないの?
あの苦しさを覚えている。
恐怖も絶望も、今なお身体に刻み込まれている。
「お嬢様……?」
半泣きになった侍女が駆け寄ってくる。
その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「……マリー?」
あり得ない。マリーは三年前に侯爵家を辞めている。
実家の母親が病を患い、看病のため故郷へ帰ったのだ。それ以降、一度も会っていない。
「お嬢様……?」
心配そうな声が聞こえる。けれど私の頭は混乱していた。
視線が机の上へ向く。
そこには見覚えのある冊子が置かれていた。
王立学園の入学案内。
今さらあるはずのないものだった。
震える手で開く。記載された年度を見た瞬間、全身から血の気が引いた。
次いで、壁に掛けられたカレンダーを見る。そして机の手帳を見る。
全部同じだった。三年前。学園入学前の春。
「そんな……」
掠れた声が漏れる。
理解できない。けれど、理解するしかなかった。
私が知る未来のマリーは、もう侯爵家にはいない。
ここにいるはずがない。
ならば。
本当に私は三年前へ戻ったのだ。
恐怖は消えない。今も喉の奥には苦しさが残っている。
けれど。
今度は終わらせない。
三年後の卒業式まで。
私を断罪した者たち全員に、必ず償ってもらう。




