崩れ始めた聖女候補
その報せが届いたのは三日後だった。
朝食を終えた直後、執事が一通の封書を執務室へ運び込む。
封蝋に刻まれていたのは王宮監査局の紋章だった。
部屋の空気が僅かに変わる。
お父様は封書を受け取ると静かに目を通した。
そして小さく息を吐く。
「動いたな」
短い一言だった。だが、その言葉だけで十分だった。
私は思わず身を乗り出す。
お兄様が書状を受け取った。
「監査許可ですか」
「ああ」
お父様は頷いた。
「正式に受理された」
書状が机の中央へ置かれる。
セインツ商会への強制監査命令。
関連帳簿の差し押さえ許可。
そしてトーマス・セインツ本人への事情聴取命令。
ライアン様が静かに息を吐いた。
「予想以上に早いですね」
「証拠が揃いすぎていた」
お父様は淡々と言う。
机上には調査資料が積まれている。
密会記録。
資金の流れ。
資産推移。
教会関係者との接触記録。
隣国商人との取引履歴。
全て、お兄様達が集めたものだった。
「監査局も放置できなかったのだろう」
お父様は静かに告げる。
私は資料へ視線を落とした。
前回。誰も疑わなかった。だから誰も調べなかった。だが今は違う。
私達が集めた証拠が王宮を動かした。
止まっていた歯車は、もう動き始めている。
そして、トーマス・セインツを取り巻く世界もまた。
崩れ始めようとしていた。
◇◇◇
トーマス・セインツが拘束されたという報せを聞いたのは、その日の夜だった。
夕食後、応接室へ集まった私達に、お兄様が王宮から届いた報告書を見せる。
「終わった」
お兄様は静かに言った。
「そんなにあっさりだったのですか」
私が尋ねると、お兄様は小さく首を振った。
「最初は否定したらしい」
報告書が机へ置かれる。
「何かの間違いだと」
「自分は法を守っていると」
「誰かに陥れられたのだと」
苦い声だった。
ライアン様が小さく息を吐く。
「典型的ですね」
「ああ」
お兄様は頷く。
「だが笑っていられたのは最初だけだ」
裏帳簿、架空取引、未申告資産、隣国商人との接触記録。
そして、本人の署名入り文書。
一つずつ証拠が提示されたらしい。
私は黙って聞いていた。その場の空気が目に浮かぶようだった。
「それでも否定したそうだ」
お兄様が続ける。
「だが最後の文書を見た時」
短い沈黙。
「黙った」
部屋が静まり返った。それだけで十分だった。
「その後、監査官が拘束命令を読み上げた」
低い声が続く。
「騎士達が動き」
「トーマスは初めて取り乱した」
私は目を伏せる。もはや想像は難しくなかった。
「逃げようとしたのですか」
「いや」
お兄様は首を横へ振った。
「逃げられないと分かっていた」
短い沈黙。
やがてお兄様は報告書を閉じた。
「最後まで自分は守られると思っていたらしい」
「教会との繋がり」
「聖女候補の父という立場」
「築いてきた人脈」
静かな声だった。
「自分は普通の商人とは違う」
「そう信じていたのだろう」
私は無意識に拳を握る。
だが、誰も守らなかった。
王宮は動き。騎士は拘束した。
「結局」
お兄様は静かに言った。
「特別だったのではない」
「そう思い込んでいただけだ」
その言葉が妙に胸に残った。
◇◇◇
翌日、学園の空気は明らかに変わっていた。
「聞いたか?」
「セインツ商会だろ」
「王宮が動いたらしい」
「身柄まで拘束されたって」
誰も大声では話さない。だからこそ噂は広がる。
私は足を止めなかった。
それでも分かる。
学園中がその話題で持ち切りだった。
かつてフェリクス様がそうであったように。
一度動き出した群衆の視線は止まらない。
そして群衆は、標的が変わったことなど気にも留めない。
今、その中心にいるのはフィオナ様だった。
中庭へ出る。
そこにはフィオナ様の姿があった。
フィオナ様はいつも通り微笑んでいる。
背筋を伸ばし。穏やかに言葉を返している。
だが、彼女の周囲だけが変わっていた。
以前なら常に人が集まっていた。
賞賛、憧憬、好意。そうした感情が自然と集まっていた。
今は違う、皆が距離を測っている。
そんな空気が見て取れた。
それでもフィオナ様は笑顔を崩さない。
◇◇◇
その夜、ローゼンベルク家へ更なる報告が届いた。
私は再び応接室へ呼ばれる。
お父様は新たな書類を机へ置いた。
「もう一つ分かったことがある」
低い声だった。
私は顔を上げる。
お父様は書類を開いた。
「トーマス・セインツは隣国へ情報を流していた」
部屋が静まり返る。
ライアン様が眉をひそめた。
「情報、ですか」
「ああ」
お父様は頷く。
「王国内の物資流通に関する記録」
「貴族家への納入実績」
「港湾の取引状況」
「その他の商業情報だ」
私は思わず息を呑んだ。
軍事機密ではない。
だが、王国にとって無害とも言えない。
「王宮が本気で動いた理由の一つがこれだ」
お父様は静かに言う。
「単なる脱税や不正会計なら、ここまで大事にはなっていない」
私は報告書へ視線を落とした。
前回、卒業式が近付いた頃、隣国との関係は急速に悪化した。
物資不足、価格の高騰、商人達の混乱。
そして国境付近では小規模な衝突まで起きていた。
私は当時、それらを単なる不運な出来事だと思っていた。
だが、もし、その火種が既にこの時点で存在していたのだとしたら。
もし、トーマス・セインツがその一端を担っていたのだとしたら。
今回の摘発によって、未来は既に大きく変わり始めているのかもしれない。
私は静かに息を吐く。
少なくとも一つだけ確かなことがあった。
トーマス・セインツは拘束された。
隣国への情報流出も止まる。
もし私の推測が正しいのなら、卒業式の頃に王国を揺るがした混乱も。
国境で起きた紛争も。
その火種ごと摘み取られたことになる。
未来は確実に変わっている。
私が知っていた未来とは別の形へ。
「そして」
お父様は次の書類を机へ置く。
「教会にも調査が入る」
部屋の空気が張り詰めた。
「教会にも……」
思わず声が漏れる。
お父様は頷いた。
「セインツ家との継続的な接触について説明を求めたそうだ」
ライアン様が資料へ目を落とした。
「聖女候補選定以前から接触していた者達ですね」
「ああ」
お父様は静かに言う。
「王宮は偶然とは見ていない」
「既に処分も始まっている」
私は顔を上げた。
お父様は報告書を指先で叩く。
「セインツ家との接触が確認された教会関係者数名は職務停止になった」
部屋が静まり返る。
「早いですね」
ライアン様が呟く。
「教会も必死なのだろう」
お父様は低く答えた。
「制度そのものへの不信だけは避けたいはずだ」
私は無意識に拳を握り締めた。
トーマスだけではない。
王宮はその背後まで調べ始めている。
そして教会もまた、自らの内部へ刃を向け始めていた。
「教会はどう動くのでしょう」
私が尋ねる。
お父様は少し沈黙した。
「恐らく切り離す」
その答えに部屋が静まり返る。
「制度を守るためだ」
お兄様が続けた。
「守られるのは聖女候補制度そのものだろう」
ライアン様も頷く。
「フィオナではなく」
その言葉の重みを私は理解した。
聖女候補という肩書。それは今までフィオナ様を守ってきた盾だった。
だが、その盾も揺らぎ始めている。
「最悪の場合」
お父様は書類を閉じた。
「活動停止もあり得る」
私は言葉を失った。
前回、そんな未来は存在しなかった。
◇◇◇
翌日、最後の講義が終わる直前だった。
教室の扉が開き、教師が姿を現した。
いつもより厳しい表情だった。
教室から音が消える。
教師は真っ直ぐフィオナ様を見た。
「フィオナ・セインツ」
フィオナ様が顔を上げる。
「学園長がお呼びです」
一瞬だけ。フィオナ様は返事を忘れた。その顔から血の気が引いていく。
やがて立ち上がる。
「……はい」
小さな返事だった。
その背中を、教室中の視線が追う。
学園だけではない。教会も。王宮も。
既に結論を求め始めていた。
その事実を、まだフィオナ様は知らない。
扉が閉まる。
その音は、何かの終わりを告げる鐘のように聞こえた。




