聖女候補の足跡
季節は既に三年生への進級を目前に迎えている。
私はお父様に呼ばれ、ローゼンベルク家の執務室を訪れていた。
室内には既にお兄様とライアン様の姿がある。
机の上には新たな書類束が積まれていた。
表紙に記された名前を見て、私は静かに息を呑む。
フィオナ・セインツ。
そして、その父、トーマス・セインツ。
死に戻り直後から続けていた調査が、ようやく一つの形になろうとしていた。
「まだ罪を問える段階ではない」
お父様は報告書を開きながら言った。
静かな声だったが、その表情は険しい。
「だが看過もできん」
その一言に、室内の空気が僅かに張り詰める。
お父様が慎重な言葉を選ぶ時は決まっている。
事態が予想以上に厄介な時だ。
「セインツ家ですか」
ライアン様が尋ねる。
「ああ」
お父様は頷いた。
「確証はまだない」
「だが気になる点が多すぎる」
そう言って一枚の資料を机へ広げた。
私は自然と身を乗り出す。
そこに記された数字を見て、違和感の正体を理解した。
「資産の増加が異常です」
ライアン様が資料へ視線を落とす。
「しかも問題は時期ですね」
私は年表へ目を向けた。フィオナ様が聖女候補として選定される以前。
その頃からセインツ家の資産は増え始めていたのだ。
まだ聖女候補に過ぎないはずのフィオナ様の家が、既に財を築き始めている。
順序が合わなかった。
「前回、私が知らなかっただけでしょうか……」
お父様は小さく頷く。
「可能性はある」
静かな声だった。
「だが我々は聖女候補という肩書に目を奪われていた」
その言葉に返す言葉はなかった。
私自身もまた、同じだったからだ。
「こちらも気になります」
ライアン様が別の書類を差し出した。
複数の名前が並んでいる。
商人。仲介人。そして教会関係者。
「教会ですか……」
「ああ」
お父様が頷いた。
「調査そのものは以前から進めていた」
資料を一枚めくる。
「だが最近になって、ようやく繋がりが見え始めた」
自然と背筋が伸びた。
「フィオナが聖女候補へ選ばれる以前から、セインツ家と複数の教会関係者との接触記録が確認されている」
室内の空気が変わる。
「偶然でしょうか」
ライアン様が問う。
「分からん」
お父様は首を横へ振った。
「だが私は偶然という言葉を信用しない」
沈黙が落ちる。
机上に積まれた資料の重みが、一段と増したように感じられた。
入学前から追い続けてきた調査。
断片だった情報。繋がらなかった証拠。
それらが今、ゆっくりと一つの形を取り始めている。
まだ線は繋がっていない。
だが、確かに何かがある。
そんな予感だけが静かに育っていた。
◇◇◇
翌日の昼休み。私は回廊を歩いていた。
そこで不意に足を止める。
中庭の向こうに、フィオナ様の姿が見えた。
そして、その隣にはアレクシス殿下がいた。
二人は何かを話している。
フィオナ様が笑う。
その手がアレクシス殿下の袖へ触れた。
殿下も気に留める様子はない。
ごく自然な仕草だった。
まるで最初から許された距離であるかのように。
胸の奥が小さく軋む。
前回もそうだった。
殿下はよくフィオナ様の話をした。
フィオナ様が困っていた。
フィオナ様が頑張っていた。
フィオナ様が泣いていた。
婚約者は私だった。けれど、殿下が見ていたのは、いつもフィオナ様だった。
今なら分かる。
殿下は不貞を働いたわけではない。
それでも、大切にしたいと思う相手が私ではなかった。
それだけで十分だった。
近くを通り過ぎた女子生徒達の声が聞こえた。
「今週の慈善式典もフィオナ様が出席されるそうよ」
「孤児院慰問でしょう?」
「教会も期待しているみたい」
私は無意識に足を止めた。
聖女候補としての活動。
フィオナ様は既に教会の行事へ参加し始めている。
周囲の期待も大きい。
そういえば前回も似た話を聞いたことがあった。
教会の式典、慰問活動、慈善事業。
皆が当然のように語っていた。
まるでフィオナ様が特別な存在であることを疑わないかのように。
やがてフィオナ様がこちらへ気付く。
視線が合った。
フィオナ様は柔らかく微笑み、会釈する。
私も礼を返した。
その時だった。
フィオナ様は何気ない仕草でアレクシス殿下を見上げた。
本当に一瞬だけ。確認するように。
隣にいることを確かめるように。
その様子を見て、私は不意に思った。
フィオナ様は最初から知っていたのではないだろうか。
殿下が自分を特別に見ていることを。
そして、それを受け入れることにも慣れていたのではないかと。
もちろん証拠などない。
私の思い込みかもしれない。
けれど、その笑顔には、自分が選ばれる側であることを疑っていない者の余裕があるように見えた。
だからだろうか。
私はなぜか、その表情を忘れられなかった。
◇◇◇
「アメリア」
聞き慣れた声だった。
振り返るとアレクシス殿下が立っている。
私は静かに礼を取った。
「殿下」
「少し話せるか」
私は頷き、人気のない中庭へ移動した。
しばらく沈黙が続き、やがて殿下が口を開いた。
「最近、おかしいと思わないか」
私は表情を変えない。
「何のことでしょう」
「カイルだ」
殿下は低く言う。
「オリバーも」
「セドリックも」
視線が地面へ落ちた。
迷い。戸惑い。そんな感情が見えた。
「皆、フィオナを守ろうとしていた」
「なのに、なぜこうなった」
私は何も答えなかった。
「アメリアは何か知っているか」
私は殿下を見つめる。
以前なら、この一言だけで喜んでいたかもしれない。
だが今は違う。胸の中は驚くほど静かだった。
「いいえ」
私は微笑む。
「存じません」
嘘ではない。
私達が掴んでいるのは断片だけだ。
繋がりそうで繋がらない証拠。説明のつかない違和感。そして幾つもの偶然。
まだ真実には届いていない。
殿下は僅かに目を伏せた。
「そうか」
短い返答だった。
その姿を見ながら思う。殿下はまだ気付いていない。
けれど。
自分が信じていたものに疑問を抱き始めている。それだけは分かった。
◇◇◇
その夜、ローゼンベルク家へ新たな報告が届いた。
再び執務室へ呼ばれた私達を待っていたのはお父様だった。
机の上には封を切られたばかりの書類が置かれている。
「確認が取れた」
低い声が響く。
私は資料へ目を落とした。そして息を止める。
密会記録。
トーマス・セインツ。
例の商人、日時、場所、全てが記されていた。
「相手は王宮の監視対象だ」
お父様が告げる。
空気が張り詰めた。
お兄様が資料を手に取る。
「裏は取れているのですね」
「ああ」
短い返答だった。
「既に王宮も動き始めている」
お父様が静かに言った。
「こちらが渡した証拠でな」
ローゼンベルク家の名で提出された報告書。
それらが王宮を動かしたのだ。
「監査局も看過できなかったらしい」
お父様は続ける。
「近いうちに動くだろう」
私は息を呑む。前回も存在していたのかもしれない。
私が見えていなかっただけで。
フィオナ・セインツ。
聖女候補。
そして前回の未来で全ての中心にいた少女。
私達はようやく、その足跡を捕らえた。
だが、今度は違う。私は目を逸らさない。
その先に待つ真実が何であろうとも。
たとえ、それが前回の未来そのものを覆す真実だったとしても。




