騎士を名乗った処刑人
二年生も終わりに近付いていた。
セドリック・ハワード。学園最強と呼ばれる騎士科首席。
その名は多くの生徒達から尊敬を集めている。
だが、お兄様によれば、その輝かしい評判の裏では、一年以上前から見過ごせない問題が続いていたらしい。
ローゼンベルク家の応接室には重い沈黙が沈殿していた。
窓の外では夕暮れが庭園を紅く染めていたが、その色彩さえ室内には届かない。
長机の上には夥しい数の書類が並べられている。
被害生徒達の証言書。
決闘申請記録。
医務室の診療記録。
訓練場の利用台帳。
教員や生徒への聞き取り結果。
さらに、それらを時系列ごとに整理した調査報告書。
私は目の前に積み上げられた資料の山を見つめた。
一人の生徒を調べた結果とは思えない。
むしろ長年放置されてきた問題そのものが、そこに積み上げられているようだった。
静寂の中、お兄様が一冊の報告書を閉じた。
その音だけが異様に大きく響く。
「予想以上だった」
低い声だった。
いつもと変わらないように聞こえる。だが、長年兄を見てきた私には分かった。
怒っているのだ。
「ラルフ・エインズワースの件は氷山の一角だった」
お兄様は卓上の資料へ視線を落とした。
「証言を得られたのは五件」
私は思わず息を呑む。
五件。
言葉にしてしまえばそれだけだ。
だが、その数字の裏には、一人一人の恐怖と沈黙が積み重なっている。
ライアン様も表情を引き締めた。
「他にもいたのですか」
「ああ」
短い返答だった。
「接触した関係者は十五名を超える」
私は目を見開く。
想像していたより遥かに多い。
お兄様は続けた。
「だが五件で十分だった」
そう言って机上の資料を指先で軽く叩く。
「証言だけではない」
「決闘記録がある」
「診療記録がある」
「訓練場の利用履歴もある」
「複数の教員証言も確保した」
淡々とした口調だったが、それは感情論ではなく事実によって包囲したという宣言でもあった。
「もう否定はできない」
その言葉に私は視線を落とす。
書類の束は厚い。だが、その重みは紙の量ではない。
そこに記された記録の重さだった。
一枚一枚が、かつて誰かが押し殺した声だった。
「残りはどうなったのですか」
私が尋ねると、お兄様の目が僅かに細められた。
「王宮へ引き渡した」
私は思わず顔を上げた。
学園ではない。
王宮。
それは、この問題が既に生徒同士の諍いではなくなったことを意味していた。
「将来の騎士団幹部候補による継続的な越権行為」
お兄様は静かに告げる。
「学園の手に余る」
その一言で十分だった。
私は目の前の資料へ視線を落とす。
五件。
けれど、お兄様が見つけたのは五件だけではない。
五件で十分だったのだ。
それだけで事実を証明できるほど、多くの記録と証言が積み上がっていた。
やがて、お兄様は一枚の証言書を取り上げた。
「最初に口を開いたのはラルフだった」
震える筆跡が目に入る。
インクの滲みさえ、その時の心情を語っているようだった。
『決闘は事実です』
『ですが私から申し込んだものではありません』
『呼び出されたのです』
『断れませんでした』
『相手はセドリック様でしたから』
短い文面だったが、その数行を読んだだけで分かる。
これは決闘の記録ではない。
恐怖の記録だった。
続いて読み上げられたのは文官科の生徒の証言だった。
そして貴族科の生徒。
内容は違うけれど、結末は同じだった。
疑問を口にした。呼び出された。圧力を受けた。そして沈黙した。
お兄様は最後の証言書を閉じた。
「偶然ではない」
静かな断言だった。
「常習だ」
その一言が、二週間に及ぶ調査の結論だった。
◇◇◇
数日後、学園側による事情聴取が行われた。
だが私は参加していない。
生徒である私に、その場へ同席する資格はなかった。
学園長、教師陣、騎士団関係者。そして証拠提出者であるお兄様。
聴取はその面々によって行われた。
私はただ結果を待つしかない。
その日の夕刻。
帰宅したお兄様は応接室の椅子へ腰を下ろした。
普段より僅かに疲れて見えた。長時間に及ぶ聴取だったのだろう。
手袋を外し、静かに机へ置く。
そして短く告げた。
「終わった」
「どうでしたか」
お兄様はすぐには答えなかった。
しばらく沈黙し、ようやく口を開く。
「セドリックは否定しなかった」
私は息を呑んだ。
「認めたのですか」
「ああ」
お兄様は頷く。
「だが反省していたわけではない」
その言葉に胸の奥が冷える。
お兄様は静かに続けた。
「自分は殿下と聖女候補を守っただけだと言っていた」
私は言葉を失う。
やはり、彼は最後まで信じていたのだ。
自分が正義の側に立っていると。
「放置すれば被害が広がった」
「だから自分が止めた」
「そう主張していた」
お兄様の声には苦味が滲んでいた。
「学園長が理由を尋ねた」
お兄様は静かに言った。
「奴は最後まで自分が正しいと思っていた」
私は目を伏せる。やはりそうだったのだ。
「むしろ被害者達が殿下や聖女候補へ敵意を向けていたと主張していた」
部屋の空気が重くなる。
ライアン様が眉をひそめた。
「敵意、ですか」
「ああ」
お兄様は頷く。
「疑問を呈した者も」
「反対意見を述べた者も」
「奴の中では守るべき相手を脅かす存在だったらしい」
私は言葉を失った。
そこには悪意がない。
本気で正しいと思っている人間ほど止め難いものはない。
「それで?」
私は恐る恐る尋ねた。
お兄様は少しだけ視線を落とした。
「私は一つだけ聞いた」
低い声だった。
「何人を裁いたのか、と」
部屋が静まり返る。
「返答は?」
ライアン様が尋ねた。
お兄様は苦く笑う。
「覚えていません、だった」
私は凍りついた。
覚えていない。
その一言が何より残酷だった。
一人一人の人生を変えたかもしれないのに。
本人にとっては数える必要すらなかったということだ。
「だから言った」
お兄様の声が重くなる。
「お前は忘れても」
「相手は忘れない」
「骨を折られた者も」
「脅された者も」
「恐怖を植え付けられた者も」
「全員覚えている」
私は目を閉じた。
その言葉だけで十分だった。
どれほどの沈黙が流れたのか。
想像できてしまう。
「それでもセドリックは殿下のためだったと言った」
お兄様は続けた。
「だから私は否定した」
視線がまっすぐ前を向く。
「殿下は命じていない」
「お前が勝手にやったことだ」
「忠誠を言い訳にするな」
誰も口を挟まない。
「騎士は主君の剣だ」
「主君に代わって人を裁く存在ではない」
そして最後に、お兄様は静かに告げた。
「お前は騎士を名乗った処刑人だ」
やがて、お兄様は小さく息を吐いた。
「その時、初めてセドリックの顔色が変わった」
私は何も言えなかった。
「ようやく気付いたんだろう」
お兄様は窓の外へ目を向ける。
「守っていたつもりで、自分が恐怖を振り撒いていたことに」
◇◇◇
処分は速やかに下された。
継続的な威圧行為。
私的制裁。
騎士候補生としての重大な問題行為。
積み上げられた証拠は否定できるものではなかった。
学園は退学処分を決定した。
騎士団推薦も取り消された。
さらに王宮の判断により、辺境守備隊での再教育も命じられる。
将来を約束された騎士科首席は、その全てを失った。
◇◇◇
「処分は受け入れたそうだ」
数日後、夕食後の応接室で、お兄様が静かに言った。
「異議申し立てもなかった」
少し間を置く。
「騎士団推薦の取り消しにもな」
私は目を伏せた。騎士にとって推薦は単なる進路ではない。
積み重ねてきた実績。
周囲からの信頼。
将来を託されるという証そのものだ。
騎士科首席だったセドリックは、その全てを失った。
ライアン様が小さく息を吐いた。
「意外ですね」
「そうかもしれない」
お兄様は窓の外へ視線を向けた。
夕闇が庭園を覆い始めている。
「ようやく自分のやったことと向き合う気になったのだろう」
私は何も言えなかった。
セドリックの顔を思い出す。
彼は間違っていた。多くの人を傷付けた。それは事実だ。
だが。
少なくとも最後には。
自分の罪から目を背けなかった。
それだけは認めてもいいのかもしれない。
「辺境守備隊への出立は来週だそうだ」
ライアン様が資料へ目を落とした。
「二度と会わないかもしれませんね」
私は窓の外を見る。
沈みゆく夕日。
長く伸びる影。
そして静かな夜。
一つの戦いが終わったのだと、ようやく実感した。
カイルが失脚した。
オリバーもいなくなった。
セドリックも去る。
前回、私を追い詰めた者達は、少しずつ表舞台から姿を消し始めていた。
けれど、胸の奥に残る違和感は消えない。
むしろ大きくなっている。
なぜなら、彼らは中心ではなかったからだ。
◇◇◇
その夜、ローゼンベルク家の執務室でお父様が一冊の報告書を机の上へ置いた。
「ようやく掴んだぞ」
低い声だった。
お父様は報告書を開いた。
「セインツ家だ」
机の上へ並べられる資料。
隣国との不自然な取引。
説明できない資産増加。
裏帳簿と思われる記録。
静かな説明だった。
だが内容は穏やかではない。
「決定打ではない」
お父様は言う。
「だが」
そこで僅かに口元が動く。
「ようやく尻尾を掴んだ」
私は報告書へ視線を落とした。
思い返せば、調査は死に戻り直後から続いていた。
二年近い時間をかけて積み上げてきた疑念。
その全てが、ようやく一つの形になろうとしていた。
報告書の最上段に記された名前を見る。
フィオナ・セインツ。
前回の未来で、全ての中心にいた少女。
そして私達はようやく、その足元へ辿り着いたのだった。




