4月8日 選択肢「凜ちゃんに助けを求める」
学院祭の会議が終わったころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「それでは、今日はここまでにしましょう」
静香ちゃんが資料を閉じると、生徒会室のあちこちから安堵の息が漏れた。
結局、中庭の企画と講堂公演は、時間帯を分けて両方行う方向で再検討することになった。
人員も予算も足りないという問題は、何一つ解決していない。
それでも、静香ちゃんがやると決めたのなら、本当に両方実現するのだろう。
「美羽、意見をありがとう」
「どういたしまして。報酬はプリンでいいよ」
「さっきはいらないと言っていなかった?」
「気が変わった」
「ひよりに請求して」
「また私?」
私が抗議すると、美羽は楽しそうに笑った。
その笑い方は、いつもの美羽だった。
勉強道具を一つも持っていないことも、水筒の中身を妙に隠していたことも、会議の間はすっかり忘れていた。
「先輩」
生徒会室の入口から、凜ちゃんが顔を出した。
「そろそろ帰りますよ」
「迎えに来てくれたの?」
「夕食に遅れるので、仕方なくです」
「私がいないと寂しい?」
「そういうことにしておけば、先輩は満足なんですか」
「うん」
「では、そういうことにしておきます」
「今日は素直だねえ」
凜ちゃんは呆れたように息を吐いた。
「ひより」
立ち上がろうとした私を、美羽が呼び止めた。
「少しだけ話があるんだけど」
「告白?」
「違う」
「借金?」
「もっと違う」
美羽は鞄を肩にかけた。
「保健室に来てくれる?」
「保健室?」
「今朝、咳をしてたんでしょ。少し診たいの」
凜ちゃんが眉を寄せた。
「私も行きます」
「五分で終わるよ」
「それでも」
「凜ちゃん」
私は凜ちゃんの頭を軽く撫でた。
「先に食堂で席を取っておいて。窓際がいいなあ」
「子ども扱いしないでください」
「凜ちゃんにしか頼めない重要任務だよ」
凜ちゃんは納得していない顔で、美羽を見た。
「本当に五分ですか」
「ちゃんと返すよ」
美羽は笑顔で答えた。
「ひよりは、私の大事な友達だから」
「……分かりました」
凜ちゃんは私の袖をつかんだ。
「必ず戻ってきてくださいね」
「約束」
「今朝みたいに破らないでください」
「今度は大丈夫」
凜ちゃんは何度かこちらを振り返りながら、生徒会室を出ていった。
静香ちゃんも、資料を職員室へ届けるために部屋を出る。
私と美羽は、最後に生徒会室を出た。
階段へ向かおうとしたところで、美羽が足を止める。
廊下の柱の陰に、綾乃ちゃんが立っていた。
「綾乃」
美羽が名前を呼ぶ。
綾乃ちゃんの肩が、小さく跳ねた。
「白石先輩」
「鍵は?」
「こちらに」
綾乃ちゃんは制服のポケットから一本の鍵を取り出し、美羽へ差し出した。
札には、保健室と書かれている。
「綾乃ちゃんの用事って、それだったの?」
私が尋ねると、綾乃ちゃんは目を伏せた。
「生徒会室に来なかったのも、このため?」
「わたくしは……」
「誰かに見られた?」
美羽が遮った。
「いいえ」
「先生には?」
「職員室へ届ける資料があると申し上げました」
「そう。ちゃんとできたね」
美羽は綾乃ちゃんの頭を撫でた。
優しい手つきだった。
けれど、綾乃ちゃんは褒められて嬉しそうには見えなかった。
「綾乃ちゃんも一緒に来るの?」
「わたくしは、これで――」
「来るよね?」
美羽が笑顔のまま尋ねた。
綾乃ちゃんは一瞬だけ唇を噛み、静かに頭を下げた。
「……はい」
三人で夜の校舎を歩いた。
天井の照明は一つおきに消され、窓には暗い廊下が鏡のように映っている。
「美羽、本当に診察できるの?」
「できるよ」
「どこで覚えたの?」
「病院」
「ごっこ遊び?」
美羽は少しだけ振り返った。
「まだ、そう思ってるんだ」
それ以上は何も言わず、歩き続ける。
保健室の前に着くと、美羽は鍵を差し込んだ。
誰もいない室内には、消毒液の匂いが残っていた。
「そこに座って」
美羽がベッドを指さす。
私は鞄を下ろし、ベッドの端へ腰をかけた。
「話って、咳のこと?」
「それもあるよ」
美羽は私の手首へ指を当てた。
脈を数えるように、しばらく黙っている。
「苦しくない?」
「今は平気」
「薬は?」
「ちゃんと持ってるよ」
「見せて」
私は鞄から吸入薬を取り出した。
美羽は使用回数や残量を確認し、そのまま自分の手元へ置いた。
「返してね」
「必要になったら、私が渡す」
「どうして?」
「今日から私が管理するから」
美羽は何でもないことのように言った。
「食事も、薬も、睡眠も。しばらく全部、私が見る」
「しばらくって?」
「ひよりが落ち着くまで」
「私は落ち着いてるよ」
「自分では分からないこともあるんだよ」
美羽は私の鞄を持ち上げ、ベッドから離れた机の上へ置いた。
携帯電話も取り出し、その横へ並べる。
「美羽?」
「今夜はここで寝てね」
私は少し笑った。
「入院ごっこ?」
「ごっこじゃないよ」
美羽の笑顔は変わらない。
「外には出ないで。誰にも会わないで。ご飯も薬も、私が全部用意するから」
「寮に帰るよ」
「帰さない」
柔らかい声だった。
だからこそ、冗談には聞こえなかった。
「美羽、それは困るよ」
「何も困らないよ。ひよりは、私の言うとおりにしていればいいんだから」
「凜ちゃんと約束したの」
「凜ちゃんには私から説明する」
「自分で説明するよ」
私は立ち上がろうとした。
美羽は私の肩へ手を置き、ベッドへ座らせた。
力は強くない。
それでも、離すつもりがないことだけは分かった。
「ひより」
美羽は私の両手を包んだ。
「私を信じて」
声は優しかった。
いつも私をからかうときよりも、ずっと真剣だった。
「ひよりを傷つけるようなこと、私がすると思う?」
「思わないよ」
答えは、すぐに出た。
美羽は私の友達だ。
昔から私の体調を気にして、薬を忘れれば怒ってくれた。私が苦しくても笑ってごまかそうとすれば、誰より先に気づいてくれた。
今日の美羽には、私の知らない事情があるのかもしれない。
言えないことがあるのかもしれない。
それなら、今は美羽を信じるべきなのだと思った。
「綾乃」
美羽が呼んだ。
「扉を閉めて」
綾乃ちゃんは動かなかった。
「白石先輩……」
「聞こえなかった?」
美羽は振り返らない。
綾乃ちゃんは俯いたまま、ゆっくりと扉を閉めた。
鍵の回る音がした。
「どうして鍵をかけるの?」
「ひよりが出ていかないように」
「それを監禁って言うんじゃないかなあ」
「入院だよ」
「お医者さんの許可もないのに?」
「私が医者だから」
美羽は真顔で答えた。
何かがおかしい。
そう思うのに、美羽がここまで言うのなら、きっと理由があるとも思った。
私には理解できなくても、美羽には分かっていることがあるのだろう。
「綾乃ちゃん」
私は扉の前に立つ綾乃ちゃんを見た。
「開けてもらえる?」
綾乃ちゃんの指が鍵に触れる。
「綾乃」
美羽が名前を呼んだ。
それだけで、綾乃ちゃんの手が止まった。
「誰の言うことを聞けばいいか、分かってるよね?」
綾乃ちゃんの顔から、血の気が引いた。
「……はい」
「鍵を持って、そこに立ってて」
「承知いたしました」
綾乃ちゃんは鍵を握りしめ、扉の前から動かなくなった。
「美羽」
「何?」
「綾乃ちゃんに何をしたの?」
「何もしてないよ」
美羽は首をかしげた。
「綾乃が、自分で私に従ってるだけ」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
保健室の前で止まる。
「先輩?」
凜ちゃんの声だった。
扉の取っ手が動く。
「先輩、中にいるんですか」
「凜ちゃん」
返事をしようとすると、美羽が私の手を強く握った。
「大丈夫だって言ってあげて」
「うん」
「今日は私といるから、先に帰ってって」
美羽の言うとおりにすればいい。
凜ちゃんは心配性だから、私の声を聞けば安心するはずだ。
「凜ちゃん」
「先輩!」
「私は大丈夫だよ。だから――」
先に帰っていて。
そう続けるつもりだった。
けれど、言葉が出なかった。
代わりに、知らない光景が頭の中へ浮かんだ。
白い病室。
閉じたカーテン。
窓の外は暗く、廊下を通る足音も聞こえない。
ベッドの上に、私が一人で横になっている。
誰かを待っている。
今日ではない。
明日でもない。
何日も、何年も。
誰も来ないと分かっているのに、扉を見つめ続けている。
「……何、これ」
胸が苦しくなった。
見たことのない景色のはずなのに、知っている。
消毒液の匂いも、夜中に機械が鳴る音も、朝になっても誰も来ない静けさも。
身体の奥が、それを覚えていた。
「ひより?」
美羽が私の顔をのぞき込む。
「大丈夫。私がいるから」
美羽は優しい。
私のためにしてくれている。
美羽には美羽の事情がある。
だから、困らせてはいけない。
信じなければいけない。
そう思うのに、扉の向こうから凜ちゃんの声が聞こえた。
「先輩、返事をしてください!」
一人にしないで。
頭の中の病室で、誰かがそう言った。
それが今の私なのか、ずっと先の私なのか分からなかった。
気づいたときには、美羽の手を振りほどいていた。
「凜ちゃん」
「先輩?」
「……助けて」
自分でも、どうしてそんな言葉を口にしたのか分からなかった。
美羽は私を守ろうとしているだけだ。
美羽を信じると決めたばかりだった。
それでも、もう一度だけ声が出た。
「凜ちゃん、助けて」
扉の向こうで、凜ちゃんが息を呑んだ。
美羽の笑顔が消えた。
「そっか」
美羽は静かに言った。
「そこまで思い出しちゃったんだ」
「思い出した……?」
扉が激しく叩かれる。
「先輩、扉から離れてください!」
綾乃ちゃんが、鍵を握ったまま美羽を見た。
「白石先輩、もう――」
「綾乃」
美羽の声が低くなる。
「私に逆らわないで」
綾乃ちゃんの唇が震えた。
「ですが、桜庭先輩は助けを求めています」
「だから何?」
美羽が振り返る。
笑顔はなかった。
「ひよりが今、自分で正しい判断をできると思ってるの?」
「それは……」
「私より、ひよりのことを分かっているつもり?」
綾乃ちゃんは答えられなかった。
「鍵を渡して」
綾乃ちゃんは両手で握っていた鍵を、美羽へ差し出した。
「ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
美羽は鍵を受け取ると、私の鞄から小さなケースを取り出した。
蓋を開く。
中には、細い注射器が入っていた。
「本当は、ひよりが自分から納得してくれると思ってた」
「美羽」
「大丈夫」
美羽はもう一度、私の手を取った。
「今のは、ひよりの本当の気持ちじゃないから」
「どうして、美羽が決めるの?」
「私の方が、ひよりのことを知ってるから」
扉が強く叩かれる。
「先輩!」
美羽の腕が、私の身体へ回った。
抱きしめるような、優しい動きだった。
「ひよりは、我慢するのが得意だもんね」
耳元で、美羽が囁く。
「嫌なことも、怖いことも、相手には事情があるって考えて、全部受け入れようとする」
「美羽……」
「だから、私が決めてあげる」
制服の袖がまくられる。
細い針が腕へ触れた。
「嫌」
「痛くしないから」
「そういうことじゃないよ」
「分かってるよ」
美羽の声は、どこまでも優しかった。
「今度こそ、何も怖くない朝にしてあげる」
小さな痛みが走った。
身体から力が抜けていく。
美羽は私を抱きしめたまま、ゆっくりとベッドへ横たえた。
天井が遠ざかっていく。
「美羽……」
「おやすみ、ひより」
美羽の指が、私の髪を撫でる。
「目が覚めたら、また朝だから」
また朝。
その言葉が、頭の奥に引っかかった。
朝六時四十分。
ベッドの下で鳴る目覚まし時計。
約束の樹。
泣きそうな顔の凜ちゃん。
何も勉強しない美羽。
疑似姉妹のいない静香ちゃん。
同じ一日を、私は何度過ごしているのだろう。
「先輩!」
扉の向こうから聞こえる凜ちゃんの声が、遠ざかっていく。
眠ったら、また忘れる。
凜ちゃんが迎えに来てくれたことも。
美羽を信じようとしたことも。
静香ちゃんが、決して置いていかないと抱きしめてくれたことも。
全部。
私は最後の力で、閉じていく瞼を開こうとした。
扉の向こうに、凜ちゃんがいる。
けれど、その姿を見ることはできなかった。
美羽の手が、私の額に触れる。
「次は、もっと楽しい朝にしてあげる」
その声を最後に、世界が暗闇へ沈んだ。




