4月8日1周目? 選択肢「静香ちゃんに相談する」
放課後の教室は、昼間より少しだけ広く感じる。
授業を終えた生徒たちが、部活動や寮へ向かい、少しずつ姿を消していくからだ。
私は窓際の席に座ったまま、今日一日のことを考えていた。
朝、私の顔を見て泣きそうになっていた凜ちゃん。
十年間も会えなかった夢を見たと言い、今日はずっと私の袖をつかんでいた。
美羽も、いつもとは少し違っていた。
一日中ほとんど勉強せず、いつもなら絶対に断らないプリンをいらないと言った。何でもない顔で笑っているのに、ときどき何年も先のことを知っているような言葉を口にする。
二人とも、見た目はいつもどおりだった。
笑い方も、話し方も変わらない。
なのに、ときどき私の知らない人のような顔をする。
「考え事?」
美羽が私の机を軽く叩いた。
「今日の夕食は何かなあって」
「嘘。ひよりが食事のことを考えるときは、もっと幸せそうな顔をするから」
「さすが美羽。私のことをよく分かってるねえ」
「長い付き合いだからね」
美羽は淡い桃色の水筒を持ち上げた。
「今日は予備校に行かないの?」
「行かない」
「勉強も?」
「しない」
「潔いねえ」
「一日くらい、何もしなくてもいいでしょ」
美羽は窓の外へ目を向けた。
「生徒会室に行ってくる」
「美羽、生徒会役員じゃないよね?」
「静かだし、椅子がいいから」
「自習しないのに?」
「ぼんやりするのにも、いい椅子は必要なの」
美羽はいつものように笑い、軽く手を振って教室を出ていった。
その背中を見送りながら、私は首をかしげる。
変だと思っているのは、私の方なのかもしれない。
そろそろ寮へ帰ろうと鞄を持ち上げたとき、教室の扉が二度、同じ間隔で叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、二年生の神楽坂綾乃ちゃんだった。
腰まで伸びた青みがかった黒髪は、一筋の乱れもなく整えられている。皺一つない制服に、まっすぐ伸びた背筋。扉を閉める仕草まで、礼法のお手本のように美しい。
けれど、今日の綾乃ちゃんは少し落ち着かなかった。
廊下を一度振り返ってから、静かに扉を閉める。
「綾乃ちゃん。美羽なら、生徒会室に行ったよ」
「存じております」
「迎えに来たんじゃないの?」
「いいえ。先ほど、生徒会役員の方に廊下で呼び止められまして」
綾乃ちゃんは、美羽の名前を聞いたときだけ、わずかに肩を強張らせた。
「学院祭の打ち合わせがあるそうですが、九条先輩がまだいらっしゃらないので、心当たりがないかと尋ねられたのです」
「静香ちゃんが?」
「ええ」
それは珍しい。
静香ちゃんは時間に正確だ。打ち合わせの時間を忘れるような人ではない。
「生徒会室に美羽がいるんでしょう?」
「そう伺っております」
「綾乃ちゃんは行かないの?」
「わたくしは……」
綾乃ちゃんは言葉を止めた。
指先が、制服の袖を強くつまんでいる。
「美羽についていかないなんて珍しいねえ」
私が言うと、綾乃ちゃんはびくりと顔を上げた。
「別に、いつも白石先輩について歩いているわけではありませんわ」
「でも、予備校まで迎えに行ったり、上着を持ってきたりするでしょう?」
「今日は、ほかに用事がありますので」
早口だった。
「何の用事?」
「桜庭先輩には関係ありません」
「美羽と何かあった?」
「何もありませんわ」
綾乃ちゃんは、私の言葉を遮るように答えた。
その顔は怒っているというより、何かに怯えているように見えた。
「桜庭先輩なら、九条先輩の居場所に心当たりがあるのではなくて?」
これ以上は聞かないでほしいらしい。
私は追及するのをやめた。
「静香ちゃんと同室の、疑似姉妹の子は何か知らないの?」
綾乃ちゃんが、不思議そうに私を見た。
「九条先輩に、疑似姉妹はいらっしゃいませんわ」
「いない?」
「ええ。九条先輩はお一人で部屋を使っていらっしゃいます」
「そうだっけ」
「そうですわ」
きっぱりと言われると、そうだったような気もしてくる。
静香ちゃんの部屋を訪ねたことは、何度もあるはずだ。
けれど、そこにもう一人いたかと聞かれると、顔も名前も浮かばなかった。
ただ、何かが引っかかる。
大切なことを忘れているような気がするのに、何を忘れたのかが分からない。
「桜庭先輩?」
「ううん。何でもない」
私は頭を振った。
「静香ちゃんなら、たぶん音楽室かな」
「音楽室?」
「考え事をしたいとき、よくピアノを弾きに行くから」
「では、お願いできますか」
綾乃ちゃんが丁寧に頭を下げた。
「綾乃ちゃんは来ないの?」
「申し上げたでしょう。ほかに用事があります」
「生徒会室には行かないんだね」
「……ええ」
返事は小さかった。
綾乃ちゃんはもう一度廊下を確かめると、逃げるように教室を出ていった。
凜ちゃんも、美羽も、綾乃ちゃんも。
今日はみんな、言葉と表情が少しずつ噛み合っていない。
まるで私だけが知らない時間を、それぞれが抱えているようだった。
放課後の特別棟は静かだった。
二階と三階の間まで来たところで、激しいピアノの音が聞こえてくる。
姿を見なくても分かる。
静香ちゃんだ。
迷いのない音。
一音一音が鋭く、強く、それでも決して乱れない。
私は胸の奥に詰まっていた息を、ゆっくり吐き出した。
「よかった」
何がよかったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、その音は私の知っている静香ちゃんのものだった。
音楽室の扉は、少しだけ開いていた。
夕方の光が差し込む部屋の中央で、九条静香ちゃんがグランドピアノに向かっている。
艶のある黒髪は、顎のあたりで切り揃えられていた。制服の上着は椅子の背にかけられ、白いブラウスの袖は肘までまくられている。
いつものにこやかな表情はない。
鋭い目で鍵盤を見つめ、両手を激しく走らせていた。
少しでも気を抜けば崩れそうな速さなのに、一音も乱れない。
静香ちゃんが弾いているだけで、この部屋のすべてが彼女のために存在しているように見えた。
私は扉を開けず、曲が終わるのを待った。
最後の音が、広い音楽室に長く残る。
「拍手したほうがいい?」
私が声をかけると、静香ちゃんの肩がわずかに揺れた。
「……ひより」
「こんにちは、静香ちゃん」
「いつからいたの?」
「最後のほうだけ」
「嘘ね」
「半分くらい」
「最初からでしょう」
「さすが静香ちゃん」
静香ちゃんはため息をつき、鍵盤から手を離した。
「ノックくらいして」
「したらやめちゃうと思って」
「当たり前よ」
「もったいないから聞いてた」
私が近づくと、静香ちゃんは額の汗を指先で拭った。
「さっきから、変な顔をしているわね」
「変な顔?」
「笑っているけれど、少しも楽しそうではないわ」
「静香ちゃんには分かっちゃうかあ」
「長い付き合いだもの」
静香ちゃんは椅子に座ったまま、私を見上げた。
急かすことも、答えを決めつけることもしない。
ただ、私が話し始めるのを待っている。
「今日ね、何かおかしいんだ」
「何が?」
「それが、分からないの」
「分からないままでいいから、話してみなさい」
私はピアノへ背中を預けた。
「凜ちゃんが、ずっと会えなかった人に再会したみたいな顔をしてた。美羽も、ときどき私の知らない美羽みたいに見える。綾乃ちゃんも、何かに怯えてるみたいだった」
「そう」
「みんな、見た目は同じなのにね」
静香ちゃんは口を挟まず、静かに聞いている。
「私だけ、何も知らない気がするんだ」
口に出すと、胸の奥にあった形のない不安が、少しだけ輪郭を持った。
「みんなが、私を置いて大人になっていくみたいな……」
私は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「変だよね。みんな高校生なのに」
「変ではないわ」
静香ちゃんは迷わず答えた。
椅子から立ち上がり、私の前へ来る。
「ひより」
「なあに?」
「私は、決してあなたを置いていかないわ」
穏やかな声だった。
それでも、その言葉が揺らぐとは少しも思えなかった。
「本当に?」
「ええ」
「でも、静香ちゃんは海外へ行っちゃうかもしれないでしょう?」
「行かないわ」
静香ちゃんは、はっきりと言い切った。
「あなたを置いて、どこかへ行ったりしない」
「ピアノは?」
「ピアノを続けることと、あなたのそばにいることは両立できるでしょう」
「でも、外国の舞台に立ちたいって」
「海外でなければピアノが弾けないわけではないわ」
静香ちゃんは一歩近づいた。
「あなたとピアノのどちらかを選ばなければならないなら、私はあなたを選ぶ」
「そんなに簡単に決めていいの?」
「簡単に決めたわけではないわ」
静香ちゃんは、私を抱きしめた。
あまりに自然だったので、私は一瞬動けなかった。
静香ちゃんの腕は細いのに、逃げ場がないくらい強かった。
「私は、もう決めているの」
耳元で、静香ちゃんの声が聞こえる。
「何が起きても、あなたを一人にはしないわ」
「うん」
「だから、私に任せておきなさい」
「全部?」
「全部よ」
「すごい自信だねえ」
「私にできないと思う?」
静香ちゃんは少しだけ身体を離し、いつものにこやかな笑みを浮かべた。
優しいのに、逆らっても勝てそうにない笑顔だった。
「思わない」
「なら、安心していなさい」
根拠は何もない。
それでも静香ちゃんが大丈夫と言えば、本当に大丈夫な気がした。
「静香ちゃん」
「何?」
「もう少しこのままでもいい?」
「仕方ないわね」
静香ちゃんはもう一度、私の背中へ腕を回した。
静香ちゃんから抱きしめてくれるなんて、珍しい。
けれど今は、それをからかう気にはなれなかった。
しばらくして、私は静香ちゃんの肩から顔を上げた。
「ところで、生徒会の打ち合わせは?」
静香ちゃんの動きが止まった。
「……今、何時?」
「四時半」
「そんなに?」
「みんな待ってるよ」
静香ちゃんは額へ手を当てた。
「完全に忘れていたわ」
「静香ちゃんでも忘れるんだねえ」
「笑い事ではないわ」
静香ちゃんは椅子の背から上着を取り、袖を通した。
短い黒髪を軽く整える。
それだけで、ピアニストの顔から生徒会長の顔へ戻っていく。
「行きましょう、ひより」
「私も?」
「私を連れ戻した責任があるでしょう」
「そんな責任ある?」
「今できたわ」
「静香ちゃん、横暴だねえ」
「会長の命令よ」
「私、生徒会役員じゃないよ?」
「今から効くことにしたわ」
静香ちゃんはにこやかに言い切り、音楽室を出た。
私もそのあとを追う。
生徒会室の扉を開けた瞬間、それまで広がっていた話し声が止まった。
役員たちが一斉に顔を上げる。
静香ちゃんは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
誰かを睨んだわけでも、声を張ったわけでもない。
それでも、静香ちゃんが一歩部屋へ入っただけで、散らばっていた空気が一つにまとまった。
九条静香ちゃんが戻ってきた。
ただそれだけで、この場の中心がどこなのか、全員が思い出した。
美羽は桃色の水筒を机に置き、いつもと変わらない笑顔で静香ちゃんを見ていた。
教室にいたときと同じ、かわいらしくて、少しだけ意地悪そうな笑顔だ。
今だけを見れば、何もおかしくない。
「遅れてごめんなさい」
静香ちゃんは役員たちへ頭を下げた。
それから会長席へ向かい、机の上に広げられた企画書を手に取る。
「最初から説明してちょうだい」
誰かが資料を動かす音がした。
椅子が引かれ、散らばっていた視線が静香ちゃんへ集まる。
先ほどまで曖昧に揺れていた部屋の空気が、一本の糸で縛られたように締まっていった。
音楽室では、部屋のすべてが静香ちゃんのために存在しているように見えた。
ここでも同じだった。
静香ちゃんがいるだけで、誰が話を聞き、誰が決めるのかが自然と定まっていく。
私は空いている椅子へ座り、その横顔を見つめた。
もう大丈夫だと思った。
何が起きても、静香ちゃんがいる。
静香ちゃんは海外へ行かない。
私を決して置いていかないと言ってくれた。
それなのに。
部屋の中には、美羽がいる。
静香ちゃんも戻ってきた。
生徒会役員たちも、それぞれの席に座っている。
必要な人は、みんないるはずだった。
それでも、賑やかな部屋のどこかに、ぽっかりと空いた場所があるような気がした。
何が足りないのかは分からない。
思い出そうとしても、最初から何もなかったように、考えが滑っていく。
静香ちゃんが企画書をめくる。
その小さな音で、私の意識は会議へ引き戻された。
部屋の空気は、もう静香ちゃんを中心に整っていた。
ただ、名前のない空白だけが、その外側に残っていた。




