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4月8日1周目? 選択肢「美羽の様子がいつもと違うように感じた」

 一時間目の授業が始まる三十秒前、私は三年二組の教室へ滑り込んだ。


「間に合ったあ」


「間に合ってないよ。席に着くまでが登校だから」


 窓際の席から、やわらかな声が飛んできた。


 声の主は、白石美羽。


 ふんわりと巻かれた栗色の髪に、長いまつ毛。制服のリボンは、校則に違反しないぎりぎりの緩さで結ばれている。


 頬杖をついて小首をかしげれば、たいていの人は一度くらい見とれてしまう。


 本人も、それをよく分かっている。


「美羽、おはよう」


「おはよ。靴下、凜ちゃんのでしょう」


「朝の上級者向けコーディネート」


「寝ぼけて勝手に履いただけでしょ」


「さすが美羽。私のことをよく見てるねえ」


「見たくなくても目に入るの」


 かわいらしい笑顔のまま、言うことはさっぱりしている。


 そこまでは、いつもの美羽だった。


 けれど、机の上には何も置かれていなかった。


 教科書も、ノートも、英単語帳もない。


 いつもの美羽なら、授業が始まる直前まで問題集を開いているはずなのに。


 代わりに置かれていたのは、淡い桃色の水筒だけだった。


 美羽は周囲を軽く見回してから、その水筒へこっそり口をつけた。


「何飲んでるの?」


 私が尋ねると、美羽はすぐに蓋を閉じた。


「何でもいいでしょ」


「怪しい」


「普通の飲み物だよ」


「普通なら、そんな泥棒みたいに飲まないよ」


「授業前だから隠してるだけ」


「水?」


「違う」


「お茶?」


「違う」


「コーヒー?」


「違う」


「お酒?」


 美羽の指が止まった。


 ほんの一瞬、目が大きく見開かれる。


 水筒を隠すように胸元へ引き寄せた。


「……美羽?」


 次の瞬間、美羽は声を上げて笑った。


「あはははっ! そんなわけないじゃん!」


「今、すごく動揺したよね」


「ひよりが馬鹿なことを言うから、びっくりしただけ」


「未成年の秘密の水筒」


「朝から教室で飲酒する高校生がどこにいるの」


「ここ?」


「いないよ!」


 美羽は笑いながら、私の額を指先で押した。


「ただのぶどうジュース。寮の食堂にあったのを入れてきたの」


「美羽が朝からジュースなんて珍しいね」


「今日は甘いものが飲みたかったの」


「いつもコーヒーなのに?」


「人の好みは変わるんだよ」


 美羽は水筒を鞄へしまった。


 笑顔も、声も、いつもと変わらない。


 それなのに、酒と言った瞬間の顔だけが、妙に頭へ残った。


「美羽、教科書は?」


「なくても平気」


「忘れたの?」


「持ってきてない」


「美羽が?」


「私だって、教科書くらい持ってこない日もあるよ」


「ないよ」


 美羽は少しだけ目を細めた。


「ひよりは、私のことを何だと思ってるの?」


「勉強をやめると死ぬ生き物」


「失礼だなあ」


「休み時間にも勉強してるでしょう」


「今日はしないよ」


「体調悪い?」


「元気」


「試験を諦めた?」


「困らないから大丈夫」


「すごい自信」


「今さら高校の試験で困るわけないでしょ」


 今さら。


 その言い方が、少しだけ変だった。


「美羽、高校生だよね?」


「そう見えない?」


「見た目は、とってもかわいい高校生」


「見た目は余計」


 授業が始まった。


 美羽は教科書を開かず、ノートも取らなかった。


 先生に指名されれば、何事もなかったように答える。


 けれど、それ以外の時間は頬杖をつき、窓の外を眺めていた。


「美羽」


「何?」


「本当に勉強しないの?」


「しつこいなあ」


「美羽が勉強してないと落ち着かない」


「じゃあ、ひよりが代わりに勉強したら?」


「それは違う気がする」


「私もそう思う」


 先生がこちらを見たので、私たちは口を閉じた。


 しばらくして、今度は私が指名された。


「桜庭さん。いま、どこを読んでいますか」


 私は教科書を見下ろした。


 どこだろう。


 横を見る。


 美羽は相変わらず、窓の外を眺めている。


「美羽」


「三段落目」


 こちらを見もせず、答えが返ってきた。


「三段落目です」


「では、その続きから読んでください」


「はい」


 何とか危機を切り抜けた。


 座ってから、美羽へ小声で話しかける。


「ありがとう。お昼にプリンね」


「いらない」


「えっ」


 私は思わず美羽を見た。


「美羽がプリンを断った」


「昨日食べたから」


「毎日食べてるでしょう」


「飽きたの」


「世界の終わりかな」


「今日は、もっとしょっぱいものが食べたい」


「おつまみ?」


「何でそうなるの」


「お酒には甘いものより、しょっぱいものが合うって聞いたことがある」


「そうだね」


 美羽が答えた。


 あまりにも自然な返事だった。


「詳しいね」


「一般常識でしょ」


「高校生の一般常識かな」


 美羽は一瞬黙ったあと、楽しそうに笑った。


「ひよりって、変なところで鋭いよね」


「褒められた?」


「全然」


 休み時間になっても、美羽は勉強を始めなかった。


 椅子へ深く座り、窓から入る風に髪を揺らしている。


「今日は本当に何もしないんだね」


「うん」


「予備校は?」


「行かない」


「どうして?」


「行きたくないから」


「そんな理由で休む人だった?」


「たまにはいいでしょ」


 美羽は桃色の水筒を取り出し、今度は隠さずに飲んだ。


「ひより」


「なあに?」


「今日のお昼、中庭で食べようよ」


「いいねえ」


「二人で」


「綾乃ちゃんは?」


「今日はいい」


「珍しい」


「ひよりと二人がいい日もあるの」


 美羽は、かわいらしく小首をかしげた。


「嫌?」


「嫌じゃないよ」


「じゃあ決まり」


「重い話でもする?」


「しないよ。ひよりは重い話をすると、すぐ変な顔するから」


「どんな顔?」


「全部受け止めてあげます、みたいな顔」


「優しそう」


「腹立つ顔」


「ひどい」


 美羽は笑った。


 明るくて、遠慮がなくて、少しだけ意地悪な、いつもの笑い方だった。


 それでも、何かが違う。


 勉強をしないこと。


 プリンを断ったこと。


 予備校へ行かないこと。


 酒という言葉に、妙に反応したこと。


 何より、何年も先のことを知っている人のように、今さら高校の試験では困らないと言ったこと。


「美羽」


「何?」


「本当に、何かあった?」


 美羽は水筒の蓋を閉めた。


 しばらく私の顔を見つめる。


 それから、いつものように笑った。


「何もないよ」


「本当に?」


「うん」


 美羽は私の頬を片手で挟んだ。


「だから今日は、私のそばにいてね」


「授業中も?」


「当然」


「お手洗いも?」


「そこまではいい」


「思ったより軽い」


「じゃあ、十五分おきに連絡して」


「すぐ重くなった」


「そんな軽い覚悟で、私のことを心配しないでよ」


 美羽は満足そうに私の頬から手を離した。


 先生が教室へ入ってくる。


 美羽は桃色の水筒だけを鞄へしまい、また何もない机へ頬杖をついた。


 美羽の様子が、いつもと違うように感じた。


 けれど、どこが違うのかと聞かれたら、うまく答えられない。


 ただ、美羽の中にいるはずのない誰かが、ときどきこちらを見ているような気がした。


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