4月8日 選択肢「朝寝坊する」
朝六時四十分。
寄宿舎三階のいちばん端、三〇八号室で、目覚まし時計がけたたましく鳴り響いていた。
ただし、鳴っている場所は机の上ではない。
「むう……」
ベッドから伸びた腕が、床をゆっくりと探る。
目覚まし時計は昨夜、確かに枕元へ置いたはずだった。それが今は、なぜかベッドの下で鳴っている。
私が寝ぼけて蹴り落としたのか。
それとも、時計が自由を求めて旅立ったのか。
私は後者だと思う。
「あと五分……時計にも自由は必要……」
いつもなら、すぐに「必要ありません」と冷たい声が返ってくる。
けれど、今日は何も聞こえなかった。
私は薄く目を開ける。
カーテンは閉じたまま。部屋の反対側にある凜ちゃんのベッドは、きれいに整えられていた。
「凜ちゃん?」
返事はない。
枕元の時計へ手を伸ばそうとして、私はようやく思い出した。
「あ」
今日は朝から、凜ちゃんと散歩をする約束だった。
学院の中央にある大きな樹まで歩いて、そこで少し話をしようと――。
そこまで考えて、私は首をかしげた。
「いつ約束したんだっけ」
昨夜だった気がする。
けれど、どこで、どんな話の流れで決めたのかが思い出せない。
約束だけが、最初から頭の中に置かれていたように残っている。
目覚まし時計を拾い上げる。
「七時十分」
約束の時間は、とっくに過ぎていた。
「これは怒られるねえ」
そう呟いたところで、部屋の扉が勢いよく開いた。
「先輩!」
凜ちゃんが立っていた。
肩までの黒髪はすでに整えられ、制服のブラウスにも皺一つない。いつもの凜ちゃんと同じ、隙のない姿だ。
ただ、その顔だけが違っていた。
怒っている。
それ以上に、ひどく不安そうだった。
「凜ちゃん、おはよう」
「おはよう、ではありません!」
「散歩の約束だよね」
凜ちゃんの動きが止まった。
「……覚えているんですか」
「うん。なぜか今、思い出した」
「なぜかって何ですか」
「そこまでは覚えてないんだよねえ」
「先輩が昨日、自分から誘ったんですよ。朝の樹は人が少なくて気持ちがいいからって」
「私、そんな爽やかなこと言った?」
「言いました!」
凜ちゃんは眼鏡を押し上げ、深く息を吐いた。
「約束の樹の下で、三十分も待ったんですからね」
「ごめんねえ」
「笑ってごまかさないでください」
「笑ってないよ」
「笑っています」
「凜ちゃんに朝から会えて嬉しいだけ」
「私は怒っています」
そう言いながらも、凜ちゃんは私のベッドの前から動かなかった。
まるで私が本当にそこにいるのか、確かめるように見つめている。
「凜ちゃん?」
「……途中で、先輩が来ない理由を考えたんです」
「寝坊だね」
「最初はそう思いました」
「正解」
「でも、部屋へ戻ってもいなかったらどうしようって」
凜ちゃんの声が、わずかに震えた。
「どこを探しても見つからなかったらって、急に怖くなって」
「私はここにいるよ」
「見れば分かります」
「触って確かめる?」
「結構です」
即答だった。
それでも凜ちゃんは、ベッドの端に置かれた私の手を握った。
「凜ちゃん?」
「寝坊した罰です」
「手を握るのが?」
「脈を確認しているだけです」
「新しい罰だねえ」
凜ちゃんは返事をしなかった。
しばらくして、ようやく私の手を離す。
「早く起きてください。食堂が混みます」
「散歩は?」
「もう時間がありません」
「じゃあ、明日行こう」
凜ちゃんは少し黙った。
「……明日も、いるんですか」
「いる予定だけど」
「予定では困ります」
「じゃあ、約束」
私は小指を差し出した。
凜ちゃんはそれをじっと見つめたあと、そっと自分の小指を絡める。
「今度は、絶対に起きてください」
「善処します」
「それは約束ではありません!」
ようやく、いつもの凜ちゃんに戻った。
私は布団から立ち上がり、そのまま凜ちゃんへ後ろから抱きついた。
「朝の充電」
「ちょっ……先輩!」
「凜ちゃんは今日もあったかいねえ」
「離してください。制服に皺がつきます!」
いつもなら、すぐに押し返される。
けれど今日は、凜ちゃんの身体が固まったまま動かなかった。
むしろ、私の腕へそっと手を重ねる。
「凜ちゃん?」
「十秒までです」
「今日は長いねえ」
「寝坊した人は黙っていてください」
十秒を少し過ぎたところで、凜ちゃんは私の腕を外した。
「早く顔を洗ってください」
「はあい」
洗面台の横には、すでに私のタオルが用意されている。
「怒ってるのに、タオルは出してくれるんだ」
「出したのは先輩が寝坊する前です」
「昨日から私を愛してたんだねえ」
「昨日からではありません!」
凜ちゃんはそこまで言って、口を閉じた。
「じゃあ、もっと前から?」
「早く顔を洗ってください!」
耳まで赤くなっている。
私は笑いながら、蛇口をひねった。
朝食を急いで済ませ、私たちは校舎へ向かった。
凜ちゃんはずっと、私の制服の袖をつかんでいた。
「凜ちゃん、今日は積極的だねえ」
「先輩がまたどこかへ行かないようにです」
「学校まで一本道だよ」
「それでもです」
「離れたら?」
「嫌です」
答えてから、凜ちゃんは自分の言葉に気づいたらしい。
顔を赤くし、前を向いた。
「先輩が迷子になると困るという意味です」
「私は迷子になったことないよ」
「昨日、図書室から寮へ戻る途中で園芸部の温室にいましたよね」
「あれは寄り道」
「三十分も?」
「花がきれいだったから」
「今日は寄り道禁止です」
「猫がいても?」
「禁止です」
「泣いてる猫でも?」
「先輩よりは自力で帰れます」
昇降口で靴を履き替えたところで、私はあることに気づいた。
「凜ちゃん」
「今度は何ですか」
「英語の教科書、部屋に忘れたかも」
凜ちゃんの動きが止まった。
「……かも、ではなく?」
「確実に」
「どうしてそんなに落ち着いているんですか!」
「大丈夫。今日は一時間目、古典だから」
「英語は二時間目でしょう!」
「未来の私に期待しよう」
「期待できません!」
凜ちゃんは鞄を開き、英語の教科書を取り出した。
「私の予備です。昼休みまでには返してください」
「予備の教科書を持ち歩いてるの?」
「先輩が忘れると思ったので」
私は、しばらく凜ちゃんの顔を見つめた。
「な、何ですか」
「このやり取り、前にもした気がする」
「毎日のように忘れ物をしているからでしょう」
「そうかなあ」
「そうです」
確かに、その可能性は高い。
「凜ちゃん」
「はい」
「好き」
「……っ!」
廊下を歩いていた何人かの生徒が振り返った。
凜ちゃんは真っ赤になり、教科書を私の胸へ押しつける。
「そういうことを大声で言わないでください!」
「でも、本当に助かったから」
「だったら次から忘れ物をしないでください!」
「善処します」
「絶対にしない人の言い方です!」
予鈴が鳴った。
私たちは顔を見合わせる。
「凜ちゃん、走るよ」
「誰のせいだと思っているんですか!」
「寝坊を選んだ私のせい」
「分かっているなら反省してください!」
二年生の教室へ向かう廊下と、三年生の教室へ向かう階段。
その分かれ道で、凜ちゃんが私の袖を離した。
「先輩」
「なあに?」
「放課後、すぐに戻ってきますか」
「生徒会に捕まらなければ」
「必ず戻ってきてください」
「うん」
「約束ですよ」
「約束」
凜ちゃんはまだ何か言いたそうにしていた。
けれど、二度目の予鈴が鳴り、二年生の教室から友人が凜ちゃんを呼ぶ。
「凜ちゃんも、私がいなくて寂しくても泣かないように」
「泣きません!」
ようやく、いつもの返事が返ってきた。
私が手を振ると、凜ちゃんも小さく手を振り返した。
その姿を見届けてから、私は階段を駆け上がる。
今日もきっと、いつもと同じ一日だ。
授業を受けて、友達と笑って、放課後になれば三〇八号室へ帰る。
そこには、きっと凜ちゃんがいる。
今朝、約束の樹の下へ行っていたなら、凜ちゃんは何を話すつもりだったのだろう。
少しだけ気になった。
けれど、選ばなかった朝の出来事を知ることはできない。
「……あ」
階段の途中で、私は足を止めた。
自分の足元を見る。
靴下には、ペンギンのマーク。
凜ちゃんのお気に入りの靴下だった。
「まあ、いいか」
始業の鐘が鳴る。
遠くの廊下から、凜ちゃんの声が聞こえた気がした。
「よくありません!」
私は笑いながら、三年生の教室へ駆け込んだ。
なぜ私は、昨夜の会話を思い出せないのに、朝の約束だけを覚えていたのか。
そして凜ちゃんが、なぜ私を見つけた瞬間、泣きそうな顔をしたのか。
このときの私は、まだ何も知らなかった。




