4月8日 桜庭ひよりは、笑ってごまかす
生徒会室を出たころには、校舎の窓が夕焼けに染まっていた。
廊下の端から差し込む橙色の光が、床の上に長い四角を作っている。
「結局、会議に最後まで参加しちゃったねえ」
私は凜ちゃんの隣を歩きながら言った。
「先輩は、ほとんど何もしていませんでしたけど」
「猫を呼ぶ企画を提案したよ」
「却下されました」
「時代が私に追いついてない」
「先生方が正しいです」
凜ちゃんは、私のカーディガンを腕にかけたまま冷静に答えた。
「それより、どうして先輩の荷物を私が持っているんですか」
「凜ちゃんが持ってきてくれたから」
「渡したら、また私の腕にかけたでしょう」
「似合ってたから」
「カーディガンに似合うも何もありません」
「凜ちゃんが持つと、高級品に見える」
「先輩の名前が油性ペンで書いてありますけど」
「盗難防止です」
「幼稚園児みたいです」
校舎から寄宿舎へ続く道には、部活動を終えた生徒たちの声が響いていた。
テニスコートからボールを打つ音が聞こえる。空はまだ明るいが、木々の影には少しずつ夜の色が混じり始めていた。
「綾乃ちゃん、本当に美羽のことが好きなんだねえ」
私が言うと、凜ちゃんが眼鏡を押し上げた。
「神楽坂さんは、何でもできるのに、白石先輩の前ではすぐ調子を崩しますね」
「かわいいよねえ」
「私は、あまり理解できません」
「ちょっと羨ましい?」
「何がですか」
「負けたら、素直に悔しがれるところ」
凜ちゃんが私を見る。
「凜ちゃんは、負けても平気な顔をしそうだから」
「負ける前提で話さないでください」
「じゃあ、私とのツンデレ勝負は凜ちゃんの勝ち」
「参加していません!」
「抱擁力なら私の勝ち」
「競技になりません」
「忘れ物の数も」
「それは先輩の圧勝です」
「やったあ」
「褒めていません」
私が両手を上げた、そのときだった。
喉の奥に、小さな引っかかりを感じた。
「あれ」
一度、軽く咳が出た。
続いて、もう一度。
「先輩?」
「大丈夫、大丈夫」
手を振ろうとしたが、三度目の咳は深かった。
「っ、げほ……!」
肺の奥を強くつかまれたように、息が止まる。
胸を押さえて道の端に立ち止まった。息を吸おうとしても、喉の奥で空気が細くなる。
「先輩!」
凜ちゃんがすぐに私の腕を支えた。
「座ってください。ゆっくりでいいですから」
私は並木道の脇にある低い石垣へ腰を下ろした。
「吸入薬は?」
答える余裕がなく、鞄を指さす。
凜ちゃんは迷わず薬を取り出し、私の手へ握らせた。
「急いで吸わないでください。ゆっくりです」
背中を撫でられながら、短く息を吐き、少しずつ空気を入れる。
やがて咳が弱まり、胸の痛みも波が引くように遠ざかっていった。
「ふう……」
ようやく顔を上げると、凜ちゃんが私の前にしゃがみ込んでいた。
顔色が、私より悪い。
「驚かせたねえ」
「笑わないでください」
「笑ってないと、凜ちゃんがもっと怖い顔になるから」
「怖い顔ではありません」
「じゃあ、かわいい顔」
「そういう話ではありません!」
声がわずかに震えていた。
「……ごめんね」
凜ちゃんは答えず、私の手首を握って呼吸を確かめている。
「寮の看護師さんに診てもらいます」
「もう平気だよ」
「平気ではありません。今日は長かったです」
「よく覚えてるねえ」
「毎日見ていますから」
凜ちゃんが立ち上がろうとする。
私はその袖をつかんだ。
「本当に、もう大丈夫」
「先輩はいつもそう言います」
「だって、本当に大丈夫だもん」
「大丈夫な人は、道で動けなくなったりしません」
反論できず、私は困って笑った。
「今日は失敗したねえ」
「何がですか」
「うまく隠せなかった」
凜ちゃんの表情が固まった。
「……隠していたんですか」
「少し咳が出そうだなとは思ってた」
「どうして言わないんですか」
「言ったら、凜ちゃんがずっと心配するでしょう」
「今の方が心配します!」
凜ちゃんの目に、薄く涙が浮かんだ。
私は幼いころから、重い肺の病気を抱えている。
以前は階段を上るだけでも息が切れ、入退院を繰り返していた。今の薬が身体に合ってからは、毎日学校へ通い、寄宿舎で暮らせるまでになった。
医師は、それを奇跡に近いと言った。
ただし、その奇跡がいつまで続くかは分からない。
「病院では、薬は効いてるって言われたよ」
「知っています」
「奇跡的なくらい」
「それも聞きました」
「じゃあ、大丈夫」
「薬が効かなくなるかもしれないんですよ」
凜ちゃんが小さな声で言った。
「怖くないんですか」
私は夕焼けの空を見上げた。
「怖くないと言ったら、嘘になるかな」
「だったら――」
「でも、今は元気だからねえ」
「今だけの話をしているんじゃありません」
「私は、今の話をしたいな」
凜ちゃんは唇を結んだ。
「先輩は、いつもそうやってごまかします」
「ごまかしてないよ」
「死ぬかもしれないんですよ」
その言葉だけが、夕方の空気の中へ重く落ちた。
「うん」
私は答えた。
「でも、今死んでも、たぶん悔いはないよ」
「そんなこと言わないでください」
「凜ちゃんにも会えたし」
「言わないでください!」
凜ちゃんが私の手を強く握った。
「まだ卒業もしていません。進学だって、旅行だって、何もしていません」
「じゃあ、卒業旅行は凜ちゃんも一緒に行こう」
「私は来年があります」
「留年すれば同級生になれるよ」
「しません!」
凜ちゃんの声に、少しだけいつもの調子が戻った。
「ほら。まだ話したいことがいっぱいある」
「だったら、死んでも悔いはないなんて言わないでください」
「今が幸せだから、という意味だよ」
私は握られた手を、そっと握り返した。
「凜ちゃんと朝ごはんを食べて、美羽に怒られて、静香ちゃんのピアノを聞いて、すずちゃんが走り回って、綾乃ちゃんが悔しがってる」
「私は毎朝、先輩を起こしているんですけど」
「それも幸せ」
「迷惑です」
「迷惑も含めて、毎日楽しいよ」
私は凜ちゃんの顔をのぞき込んだ。
「だから、もし途中で終わっても、何もなかった人生じゃない。私は十分幸せだったって思える」
「私は思えません」
凜ちゃんの返事は、きっぱりしていた。
「先輩が勝手に満足しても、残される側は困ります」
「怒ってる?」
「怒っています」
「抱きしめたら許してくれる?」
「許しません」
「じゃあ、抱きしめながら怒って」
「嫌です」
凜ちゃんは目元を拭い、立ち上がった。
それから、私の前へ手を差し出す。
「帰ります」
「看護師さんのところ?」
「行きます」
「夕食は?」
「そのあとです」
「お腹すいた」
「元気そうですね」
「凜ちゃんのおかげで」
「そういうことを言っても、予定は変えません」
私は凜ちゃんの手を借りて立ち上がった。
まだ少し胸が重い。
凜ちゃんは私の腕を離さず、肩が触れるほど近くを歩いた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「近いねえ」
「先輩がまた倒れないようにです」
「本当はくっつきたい?」
「違います」
「じゃあ、離れたら?」
「嫌です」
答えてから、凜ちゃんは自分の言葉に気づいたらしい。
顔を赤くし、前を向いた。
私は何も言わずに笑った。
しばらく歩いたあと、凜ちゃんが口を開く。
「明日の話をしましょう」
「明日?」
「神楽坂さんが、学校の地下に古い通路があるらしいと言っていました」
「地下道?」
「資料室で、昔の校舎図を見つけたそうです。旧講堂から寄宿舎の近くまでつながっているかもしれないと」
「秘密の地下道だ」
「入口が残っているかも分からないそうですが」
「明日、みんなで探検しよう」
「まだ何も言っていません」
「放課後に探検しよう」
「立入禁止かもしれません」
「静香ちゃんがいれば許可を取れる」
「生徒会長を何だと思っているんですか」
「開かない扉を開ける鍵」
「迷惑な使い方をしないでください」
呆れた声だったが、凜ちゃんの口元は少し笑っていた。
「美羽も誘おう」
「勉強があると言いそうです」
「綾乃ちゃんが連れてくるよ」
「すずちゃんに秘密の通路なんて話したら、今夜眠れなくなるんじゃないですか」
「静香ちゃんの布団に入れば大丈夫」
「静香会長が眠れません」
「凜ちゃんも怖かったら、私のベッドに来ていいよ」
「行きません」
「狭いけど、詰めれば二人入れる」
「行きません」
「今の間は迷ったね?」
「迷っていません!」
寄宿舎の明かりが見えてきた。
今日が終わり、明日が来る。
当たり前のようで、私には少しだけ特別なことだった。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「明日、楽しみだね」
凜ちゃんは私の腕をつかんだまま、うなずいた。
「はい」
その返事は、祈りのようにも聞こえた。
明日も先輩が笑っていますように。
明日もくだらないことを言いますように。
明日も隣を歩けますように。
そんな祈りを聞かなかったふりをして、私は明るく言った。
「地下には、巨大なワニがいるかも」
「いません」
「百年前の生徒会長の幽霊」
「いません」
「秘密の宝物」
「それは少しだけ期待しています」
「凜ちゃん、かわいい」
「今のは忘れてください!」
私たちは笑いながら、寄宿舎の扉をくぐった。
明日のことを話している間だけは、遠い未来のことを考えなくてもよかった。




