4月8日 神楽坂綾乃はお世話がしたい。
生徒会室の長机には、学院祭の企画書が扇のように広げられていた。
「先生方は例年どおりの講堂公演を希望していて、生徒からは中庭を使った企画が出ているのね。両方やりましょう」
静香ちゃんが当然のように言うと、隣に座るすずちゃんが目を丸くした。
「さすがに無理ではありませんか?」
「大丈夫よ。私が少し寝なければ終わるから」
「出た。静香の根性論。古いわー」
美羽が頬杖をつき、シャープペンシルをくるりと回す。
「では、あなたならどうするの?」
「予算が足りないなら、どっちもやらなければいい」
「あら。それも合理的ねえ」
美羽は生徒会役員でもないのに、いつの間にか議論の中心にいた。
そして私は、その隣で企画書の余白に猫を描いている。
「ひよりちゃん」
「はい」
「聞いている?」
「聞いてるよ。この計画には猫が足りない」
「猫の話はしていないわ」
「中庭に猫を集めれば、お客さんが増えるかも」
「どうやって集めるの?」
美羽が聞く。
「心でお願いする」
「企画書には書かないでね」
静香ちゃんがため息をついた、そのときだった。
生徒会室の扉が、きっちり二度叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、二年生の神楽坂綾乃ちゃんだった。
腰まで届く青みがかった黒髪は、一筋の乱れもなく艶やかに整えられている。色白の端正な顔立ちに、切れ長の目。制服も靴も新品のようにきれいで、背筋を伸ばして歩く姿は、それだけで育ちの良さを感じさせた。
片手には美羽の上着。もう一方には、小さな紙袋を提げている。
「綾乃。どうしたの? 私がいなくて寂しくなった?」
「予備校へ行く時間を過ぎても戻っていらっしゃらないので、迎えに参りました」
「やっぱり寂しかったんだ」
「違います」
きっぱり否定しながらも、綾乃ちゃんはまっすぐ美羽の隣へ向かう。
「今日は夕方から冷えるそうです。上着をお持ちしました」
「ありがとう」
「それから、昼食をプリンだけで済ませたと伺いましたので、サンドイッチも作ってまいりました」
紙袋から取り出された包みは、きれいな布で丁寧に結ばれていた。
中には、一口大に切り揃えられた色鮮やかなサンドイッチが並んでいる。具材の大きさまで均一で、売り物よりも上品に見えた。
「綾乃ちゃんが作ったの?」
「ええ。この程度でしたら、どなたにでもできますわ」
「私はできないよ」
美羽があっさり言う。
「白石先輩は、包丁を持つ前に髪を結んでください。先日はそのまま調理を始めようとなさったでしょう」
「綾乃が結んでくれるから大丈夫」
「そういう問題ではありません」
そう言いながら、綾乃ちゃんは美羽の後ろへ回った。
美羽の巻き髪を指先で丁寧に整え、緩んでいたリボンを結び直す。その手つきは慣れていて、美羽も当然のように大人しくしている。
「なんだか、美羽の奥さんみたいだねえ」
私が言うと、美羽がすぐに振り返った。
「高校生に妻を持たせないでくれる?」
「でも、上着を持ってきて、ご飯を作って、髪まで直してるよ」
「ただの世話焼きな後輩だよ」
「疑似姉妹です」
綾乃ちゃんが即座に訂正した。
「そこは譲らないんだ」
「当然ですわ」
「じゃあ、将来は本物の妻に?」
「話を進めないで」
美羽が私の額を指で押した。
綾乃ちゃんは頬を赤くしていたが、否定はせず、美羽のリボンを最後まできれいに整えた。
「美羽より綾乃ちゃんの方が、ずっと女子力が高いねえ」
「私は見た目を整える担当。綾乃は生活全般を整える担当だから」
「役割分担が夫婦なんだよ」
「だから高校生に妻を持たせないでって言ってるでしょ」
美羽はそう言いながら、綾乃ちゃんの作ったサンドイッチを一つ口に運んだ。
「おいしい」
「当然です。白石先輩のお好みは把握しておりますから」
「じゃあ毎日作って」
「構いませんわ」
迷いのない返事だった。
美羽が一瞬だけ目を丸くする。
「冗談なんだけど」
「わたくしは本気です」
「重いなあ」
「白石先輩にだけは言われたくありません」
私は思わず笑った。
「美羽より重い子、初めて見たかも」
「ひより。本人の前で珍獣みたいに言わないで」
美羽も口ではそう言いながら、どこか楽しそうだった。
「綾乃は何でもできるんだよ。料理も裁縫も、お茶をいれるのも上手」
「白石先輩が何もなさらなすぎるのです」
「でも、勉強は私に聞きに来るよね」
綾乃ちゃんの動きが止まった。
「……確認しているだけです」
「昨日も英語の問題を持ってきたよね」
「一問だけです」
「三問」
「細かいことをよく覚えていらっしゃいますわね」
「綾乃のことだからね」
美羽が笑うと、綾乃ちゃんは視線をそらした。
「そういう言い方で、ごまかさないでください」
「ごまかしてないよ。料理も上手だし、身だしなみも完璧。勉強だってすごく頑張ってる。かわいい疑似妹だと思ってる」
「……それなら結構です」
さっきまで尖っていた綾乃ちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。
そのとき、生徒会室の扉がもう一度開いた。
「先輩。寮へ戻ってこないので、様子を見に来ました」
凜ちゃんが、私の水筒とカーディガンを抱えて立っていた。
「凜ちゃん。会いたかった?」
「忘れ物を届けに来ただけです」
「優しいねえ」
「桜庭先輩も、ずいぶん後輩にお世話されていらっしゃるのですね」
綾乃ちゃんが凜ちゃんへ微笑みかける。
「神楽坂さんも、白石先輩のお迎えですか?」
「ええ。白石先輩は勉強の予定を立てるのはお得意なのに、ご自分の生活を整えるのは苦手ですので」
「分かります。先輩も自分のことになると、急に何もできなくなります」
二人の間に、静かな連帯感が生まれた。
「私たちを材料に仲良くならないでよう」
「仕方ないよ。手のかかる同室者を持つと苦労するからね」
美羽はサンドイッチを食べながら、他人事のように笑っている。
「白石先輩。そろそろ予備校へ参りましょう」
「うん。綾乃も来る?」
「もちろんです。最後までお供いたします」
「途中まででいいんだけど」
「最後までです」
綾乃ちゃんは美羽へ上着を着せ、襟元をきれいに整えた。
「ほら。やっぱり妻だよ」
「ひより、まだ言うの?」
「白石先輩がお望みでしたら、わたくしは別に――」
「綾乃も乗らないで」
珍しく美羽が二人分の突っ込みを入れた。
綾乃ちゃんは美羽の鞄まで持とうとして、さすがにそれは断られていた。
「自分の鞄くらい持てるよ」
「では、疲れましたらすぐにお申し付けください」
「はいはい」
「返事は一度です」
「もうお母さんじゃん」
「妻から母親に変えないで」
美羽が呆れた顔をする。
けれど、綾乃ちゃんが隣に並ぶまで、先へは歩かなかった。
二人は肩を並べて生徒会室を出ていく。
綾乃ちゃんは、美羽が行く場所なら、どこへでもついていくのだった。




