表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/14

4月8日 九条静香はすべてを背負う。


 放課後の教室で帰り支度をしていると、前の扉が勢いよく開いた。


「ひより先輩!」


 飛び込んできたのは、一年生の小日向すずちゃんだった。


 小柄な体に丸い目。栗色の髪を耳の下で二つに結び、歩くたびに赤いリボンが揺れる。


「すずちゃん。どうしたの?」


「静香お姉さま、知りませんか?」


「静香ちゃん?」


「いないんです」


 すずちゃんは唇を尖らせた。


「学院祭の打ち合わせなのに?」


「はい。私に何も言わずに」


 それは珍しい。


 静香ちゃんは時間に正確で、約束を忘れない。学院祭の打ち合わせに、何も言わず遅れるような人ではなかった。


「教室も図書室も中庭も探しました。先生方にも聞いたのに、どこにもいなくて」


「ずいぶん探したねえ」


「静香お姉さまがいないと、困りますから」


「みんなが?」


「私が一番困ります」


 すずちゃんは胸の前で両手を握った。


「静香ちゃんのこと、本当に好きなんだねえ」


「一番好きです」


 即答だった。


「静香お姉さまは優しいし、きれいだし、何でもできます。髪もとかしてくれるし、怖い夢を見たら起きてくれます」


「世界一のお姉さんだね」


「はい。私のです」


「静香ちゃんは、すずちゃんのものなんだ?」


「疑似姉妹ですから」


 すずちゃんは、かわいらしく首をかしげた。


「私が一番近くて当然です」


 笑顔なのに、言葉はなかなか重い。


「本人にも言ってるの?」


「毎日」


 静香ちゃんも大変だ。


「ひより先輩なら、行きそうな場所を知りませんか?」


「うーん。たぶん、音楽室かな」


「音楽室?」


「考え事があるとき、昔からよく行くんだよ」


「私も行きます」


「すずちゃんは、生徒会室で待っていた方がいいんじゃない?」


「でも……」


「役員のみんなも待ってるんでしょう? 静香ちゃんは私が連れていくから」


 すずちゃんは少し考えた。


「寄り道しません?」


「たぶん」


「二人で長話もしません?」


「どうだろう」


 すずちゃんは私の手を握った。


「すぐ連れてきてください」


「そんなに会いたい?」


「はい」


 すずちゃんはにっこり笑った。


「ひより先輩と二人きりは、少し嫌なので」


「正直だねえ」


「お願いします」


 かわいらしくお願いされているはずなのに、断ってはいけない気がする。


「分かった。行ってくるね」


「絶対ですよ」


 私は教室を出た。


 特別棟へ近づくと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。


 激しく、息をつく暇もない曲だった。


 細かな音が幾重にも重なり、階段の踊り場まで押し寄せてくる。


 姿を見なくても分かる。


 静香ちゃんだ。


 静香ちゃんの演奏は、きれいというより強い。


 一つの音も迷わない。


 世界の方が道を開けるまで、まっすぐ進み続けるような音だった。


 音楽室の扉は、少しだけ開いていた。


 夕方の光が差し込む部屋の中央で、九条静香ちゃんがグランドピアノに向かっている。


 艶のある黒髪は、顎のあたりで切り揃えられていた。


 整った顔立ちに、普段はいつもにこやかな笑みを浮かべている。誰に対しても穏やかで、声を荒らげることもほとんどない。


 それでも、静香ちゃんがそこにいるだけで、自然と目を向けてしまう。


 誰かを威圧しているわけではない。ただ、この人が場の中心なのだと、見た瞬間に分かるのだ。


 制服の上着は椅子の背にかけられ、白いブラウスの袖は肘までまくられている。


 いつもの柔らかな笑顔はない。


 鋭い視線を鍵盤へ向け、両手を激しく走らせていた。


 少しでも気を抜けば崩れそうな速さなのに、一音も乱れない。


 天才という言葉は、こういう人のためにあるのだと思う。


 静香ちゃんの家にとって、ピアノは良家の娘が身につける教養にすぎなかった。


 高校を卒業すれば、両親が決めた相手と結婚する。音楽もそこで終わる。


 それが、用意されていた未来だった。


 静香ちゃんは反発した。


 学業も、生徒会長の仕事も、すべて完璧にこなしたうえで、大きなコンクールに入賞できたなら、音楽を続けさせてほしいと両親へ求めた。


 そして、本当に全部やった。


 生徒会長を務めながら学年上位を保ち、前年のコンクールでは最優秀賞を取った。


 静香ちゃんは、誰にも文句を言わせない結果を出して、自分の未来を奪い返したのだ。


 最後の音が、広い音楽室に長く残った。


 静香ちゃんは鍵盤へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。


「拍手した方がいい?」


 私が声をかけると、静香ちゃんの肩がわずかに揺れた。


「……ひより」


「こんにちは、静香ちゃん」


「いつからいたの?」


「最後の方だけ」


「嘘ね」


「半分くらい」


「最初からでしょう」


「さすが生徒会長。鋭い」


 静香ちゃんはため息をつき、ゆっくりと鍵盤から手を離した。


「ノックくらいして」


「したらやめちゃうと思って」


「当たり前よ」


「もったいないから聞いてた」


 近くまで歩くと、静香ちゃんの額には薄く汗がにじんでいた。


 完璧な生徒会長というより、全力で走ったあとの普通の高校生に見える。


「すごかったねえ」


「荒れていたでしょう」


「うん」


「そこは否定して」


「でも、きれいに弾く静香ちゃんより好きかも」


「褒めているの?」


「もちろん」


 静香ちゃんは、いつものようににこやかに笑った。


 柔らかい笑顔なのに、不思議と弱くは見えない。


 静香ちゃんが笑うと安心する。


 同時に、逆らっても勝てそうにないとも思う。


「今日は、生徒会から逃げてきたの?」


「逃げたつもりはないわ」


「じゃあ、隠れた?」


「……少しだけ」


 珍しく素直だった。


「学院祭の企画がまとまらないの。先生方は例年どおりの講堂公演を望んでいて、生徒からは中庭を使った企画が出ている」


「静香ちゃんは、どっちがいいの?」


「今はどちらでもいいわ。ピアノを弾いていたいもの」


「じゃあ、生徒会長をやめちゃう?」


「それはできないでしょう」


「どうして?」


「私が会長だからよ」


 静香ちゃんは、当然のことのように言った。


 誰かに頼まれたわけでもない。


 少しくらい休んでも、責める人はいない。


 それでも、自分が一度引き受けた役割を途中で放り出すという選択肢は、静香ちゃんの中には存在しないらしい。


「働きますか」


 私が手を差し出す。


 静香ちゃんは少しだけ目を細めた。


「ひよりも手伝うのよ」


「私、生徒会じゃないよ?」


「私を見つけた責任があるでしょう」


「そんな責任ある?」


「今できたわ」


 静香ちゃんは私の手を取り、立ち上がった。


 生徒会室の扉を開けた瞬間、それまで広がっていた話し声が止まった。


 役員たちが一斉に顔を上げる。


 静香ちゃんは、いつものように穏やかに微笑んでいた。


 誰かを睨んだわけでも、声を張ったわけでもない。


 それでも、静香ちゃんが一歩部屋へ入っただけで、散らばっていた空気が一つにまとまった。


 九条静香ちゃんが戻ってきた。


 ただそれだけで、この場の中心がどこなのか、全員が思い出した。


「静香お姉さま!」


 すずちゃんが真っ先に駆け寄り、静香ちゃんの腕へ抱きついた。


「すず。心配をかけたわね」


「遅いです」


「ごめんなさい」


「次は私に言ってください」


「分かったわ」


「ひより先輩と二人きりでした?」


「少し話しただけよ」


 すずちゃんは私を見る。


 笑顔だった。


「本当ですか?」


「本当だよ」


「ならいいです」


 何がいいのかは、よく分からない。


 静香ちゃんはすずちゃんの頭を一度撫でると、会長席へ向かった。


 机の上には、講堂公演と中庭企画、それぞれの資料が積まれている。


 静香ちゃんは二つの企画書を手に取った。


 すずちゃんが、すぐ隣へ立つ。


「すず。資料を配って」


「はい!」


 すずちゃんは嬉しそうに資料を抱えた。


「ひよりも座って」


「私、生徒会じゃないよ?」


「連れてきた責任があるでしょう」


「さっきより責任が増えてる」


「静香ちゃん、横暴だねえ」


「会長の命令よ」


「生徒会役員じゃない人にも効くの?」


「今から効くことにしたわ」


 私が椅子へ座ると、静香ちゃんは二つの企画書を机の中央へ並べた。


「最初から説明してちょうだい」


「はい!」


 すずちゃんが資料を配り始める。


 静香ちゃんは皆の意見を一つずつ聞きながら、企画書へ目を走らせていた。


 音楽室で一心不乱に鍵盤を叩いていた人と、同じ人物には見えない。


 それでも、静香ちゃんはどちらも捨てない。


 自分の夢も、引き受けた役割も。


 何一つ諦めず、全部を手に入れようとする。


 それがどれほど無茶なことなのか、このときの私はまだ分かっていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ