4月8日 九条静香はすべてを背負う。
放課後の教室で帰り支度をしていると、前の扉が勢いよく開いた。
「ひより先輩!」
飛び込んできたのは、一年生の小日向すずちゃんだった。
小柄な体に丸い目。栗色の髪を耳の下で二つに結び、歩くたびに赤いリボンが揺れる。
「すずちゃん。どうしたの?」
「静香お姉さま、知りませんか?」
「静香ちゃん?」
「いないんです」
すずちゃんは唇を尖らせた。
「学院祭の打ち合わせなのに?」
「はい。私に何も言わずに」
それは珍しい。
静香ちゃんは時間に正確で、約束を忘れない。学院祭の打ち合わせに、何も言わず遅れるような人ではなかった。
「教室も図書室も中庭も探しました。先生方にも聞いたのに、どこにもいなくて」
「ずいぶん探したねえ」
「静香お姉さまがいないと、困りますから」
「みんなが?」
「私が一番困ります」
すずちゃんは胸の前で両手を握った。
「静香ちゃんのこと、本当に好きなんだねえ」
「一番好きです」
即答だった。
「静香お姉さまは優しいし、きれいだし、何でもできます。髪もとかしてくれるし、怖い夢を見たら起きてくれます」
「世界一のお姉さんだね」
「はい。私のです」
「静香ちゃんは、すずちゃんのものなんだ?」
「疑似姉妹ですから」
すずちゃんは、かわいらしく首をかしげた。
「私が一番近くて当然です」
笑顔なのに、言葉はなかなか重い。
「本人にも言ってるの?」
「毎日」
静香ちゃんも大変だ。
「ひより先輩なら、行きそうな場所を知りませんか?」
「うーん。たぶん、音楽室かな」
「音楽室?」
「考え事があるとき、昔からよく行くんだよ」
「私も行きます」
「すずちゃんは、生徒会室で待っていた方がいいんじゃない?」
「でも……」
「役員のみんなも待ってるんでしょう? 静香ちゃんは私が連れていくから」
すずちゃんは少し考えた。
「寄り道しません?」
「たぶん」
「二人で長話もしません?」
「どうだろう」
すずちゃんは私の手を握った。
「すぐ連れてきてください」
「そんなに会いたい?」
「はい」
すずちゃんはにっこり笑った。
「ひより先輩と二人きりは、少し嫌なので」
「正直だねえ」
「お願いします」
かわいらしくお願いされているはずなのに、断ってはいけない気がする。
「分かった。行ってくるね」
「絶対ですよ」
私は教室を出た。
特別棟へ近づくと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。
激しく、息をつく暇もない曲だった。
細かな音が幾重にも重なり、階段の踊り場まで押し寄せてくる。
姿を見なくても分かる。
静香ちゃんだ。
静香ちゃんの演奏は、きれいというより強い。
一つの音も迷わない。
世界の方が道を開けるまで、まっすぐ進み続けるような音だった。
音楽室の扉は、少しだけ開いていた。
夕方の光が差し込む部屋の中央で、九条静香ちゃんがグランドピアノに向かっている。
艶のある黒髪は、顎のあたりで切り揃えられていた。
整った顔立ちに、普段はいつもにこやかな笑みを浮かべている。誰に対しても穏やかで、声を荒らげることもほとんどない。
それでも、静香ちゃんがそこにいるだけで、自然と目を向けてしまう。
誰かを威圧しているわけではない。ただ、この人が場の中心なのだと、見た瞬間に分かるのだ。
制服の上着は椅子の背にかけられ、白いブラウスの袖は肘までまくられている。
いつもの柔らかな笑顔はない。
鋭い視線を鍵盤へ向け、両手を激しく走らせていた。
少しでも気を抜けば崩れそうな速さなのに、一音も乱れない。
天才という言葉は、こういう人のためにあるのだと思う。
静香ちゃんの家にとって、ピアノは良家の娘が身につける教養にすぎなかった。
高校を卒業すれば、両親が決めた相手と結婚する。音楽もそこで終わる。
それが、用意されていた未来だった。
静香ちゃんは反発した。
学業も、生徒会長の仕事も、すべて完璧にこなしたうえで、大きなコンクールに入賞できたなら、音楽を続けさせてほしいと両親へ求めた。
そして、本当に全部やった。
生徒会長を務めながら学年上位を保ち、前年のコンクールでは最優秀賞を取った。
静香ちゃんは、誰にも文句を言わせない結果を出して、自分の未来を奪い返したのだ。
最後の音が、広い音楽室に長く残った。
静香ちゃんは鍵盤へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「拍手した方がいい?」
私が声をかけると、静香ちゃんの肩がわずかに揺れた。
「……ひより」
「こんにちは、静香ちゃん」
「いつからいたの?」
「最後の方だけ」
「嘘ね」
「半分くらい」
「最初からでしょう」
「さすが生徒会長。鋭い」
静香ちゃんはため息をつき、ゆっくりと鍵盤から手を離した。
「ノックくらいして」
「したらやめちゃうと思って」
「当たり前よ」
「もったいないから聞いてた」
近くまで歩くと、静香ちゃんの額には薄く汗がにじんでいた。
完璧な生徒会長というより、全力で走ったあとの普通の高校生に見える。
「すごかったねえ」
「荒れていたでしょう」
「うん」
「そこは否定して」
「でも、きれいに弾く静香ちゃんより好きかも」
「褒めているの?」
「もちろん」
静香ちゃんは、いつものようににこやかに笑った。
柔らかい笑顔なのに、不思議と弱くは見えない。
静香ちゃんが笑うと安心する。
同時に、逆らっても勝てそうにないとも思う。
「今日は、生徒会から逃げてきたの?」
「逃げたつもりはないわ」
「じゃあ、隠れた?」
「……少しだけ」
珍しく素直だった。
「学院祭の企画がまとまらないの。先生方は例年どおりの講堂公演を望んでいて、生徒からは中庭を使った企画が出ている」
「静香ちゃんは、どっちがいいの?」
「今はどちらでもいいわ。ピアノを弾いていたいもの」
「じゃあ、生徒会長をやめちゃう?」
「それはできないでしょう」
「どうして?」
「私が会長だからよ」
静香ちゃんは、当然のことのように言った。
誰かに頼まれたわけでもない。
少しくらい休んでも、責める人はいない。
それでも、自分が一度引き受けた役割を途中で放り出すという選択肢は、静香ちゃんの中には存在しないらしい。
「働きますか」
私が手を差し出す。
静香ちゃんは少しだけ目を細めた。
「ひよりも手伝うのよ」
「私、生徒会じゃないよ?」
「私を見つけた責任があるでしょう」
「そんな責任ある?」
「今できたわ」
静香ちゃんは私の手を取り、立ち上がった。
生徒会室の扉を開けた瞬間、それまで広がっていた話し声が止まった。
役員たちが一斉に顔を上げる。
静香ちゃんは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
誰かを睨んだわけでも、声を張ったわけでもない。
それでも、静香ちゃんが一歩部屋へ入っただけで、散らばっていた空気が一つにまとまった。
九条静香ちゃんが戻ってきた。
ただそれだけで、この場の中心がどこなのか、全員が思い出した。
「静香お姉さま!」
すずちゃんが真っ先に駆け寄り、静香ちゃんの腕へ抱きついた。
「すず。心配をかけたわね」
「遅いです」
「ごめんなさい」
「次は私に言ってください」
「分かったわ」
「ひより先輩と二人きりでした?」
「少し話しただけよ」
すずちゃんは私を見る。
笑顔だった。
「本当ですか?」
「本当だよ」
「ならいいです」
何がいいのかは、よく分からない。
静香ちゃんはすずちゃんの頭を一度撫でると、会長席へ向かった。
机の上には、講堂公演と中庭企画、それぞれの資料が積まれている。
静香ちゃんは二つの企画書を手に取った。
すずちゃんが、すぐ隣へ立つ。
「すず。資料を配って」
「はい!」
すずちゃんは嬉しそうに資料を抱えた。
「ひよりも座って」
「私、生徒会じゃないよ?」
「連れてきた責任があるでしょう」
「さっきより責任が増えてる」
「静香ちゃん、横暴だねえ」
「会長の命令よ」
「生徒会役員じゃない人にも効くの?」
「今から効くことにしたわ」
私が椅子へ座ると、静香ちゃんは二つの企画書を机の中央へ並べた。
「最初から説明してちょうだい」
「はい!」
すずちゃんが資料を配り始める。
静香ちゃんは皆の意見を一つずつ聞きながら、企画書へ目を走らせていた。
音楽室で一心不乱に鍵盤を叩いていた人と、同じ人物には見えない。
それでも、静香ちゃんはどちらも捨てない。
自分の夢も、引き受けた役割も。
何一つ諦めず、全部を手に入れようとする。
それがどれほど無茶なことなのか、このときの私はまだ分かっていなかった。




