4月15日 選択肢「凜ちゃんから未来の話を聞く」
白い城の奥。
カエルのお姫様が倒れていた玉座の間を抜けると、さらに広い部屋へ出た。
天井には、色あせた壁画が残っている。
雨を喜ぶカエルたち。
泥玉を投げる子どもたち。
曲がった王冠をかぶり、池へ飛び込むお姫様。
床には乾いた泥が積もり、ところどころに白い石の破片が落ちていた。
凜ちゃんは広間の中央まで歩き、そこで立ち止まった。
「先輩」
「うん?」
「少し、話してもいいですか」
「もちろん」
「長くなるかもしれません」
「今日は疲れないから大丈夫だよ」
「そういう問題ではありません」
凜ちゃんはそう言ったけれど、小さく笑った。
私たちは崩れた柱のそばへ座った。
ダイナマイトペンギンは少し離れたところで、腹巻きの中を探っている。
どうやら葉巻を探しているらしい。
凜ちゃんは膝の上で手を組んだ。
「私は、大学を卒業したあと、広告会社に就職しました」
「漫画家じゃなかったんだ」
「最初はデザイナーでした」
「似合いそう」
「その会社で、ある商品の宣伝漫画を作ることになったんです」
凜ちゃんは、乾いた床へ視線を落とした。
「私はキャラクターデザインを任されました。でも、何を出しても没でした」
「厳しい会社だねえ」
「かわいくない。印象に残らない。今風ではない。子どもが欲しがる要素がない」
「いっぱい言われたんだ」
「はい。最初は腹が立ちました。でも、何度描き直しても採用されなくて」
凜ちゃんの指が、制服のスカートを小さくつまむ。
「会社のトイレで泣きました」
「凜ちゃんが?」
「私だって泣きます」
「知ってるよ」
「先輩の前では、かなり泣いていた気がします」
「そうだったかなあ」
「今もそうです」
「そうかも」
凜ちゃんは少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。
「その日の仕事が終わってから、先輩の病室へ行きました」
私は自分の胸へ手を当てた。
「入院してたんだ」
「はい。ただ、そのころはまだ話せましたし、普通に笑っていました」
「よかった」
「よくありません。病人なのに、私が泣きつきに行ったんですから」
「凜ちゃんが来てくれたら、きっと嬉しかったと思うよ」
「先輩はそう言いました」
凜ちゃんの声が少し柔らかくなる。
「私の話をずっと聞いて、ひどい会社だね、と言ってくれました。何度も没を出されるのは、凜ちゃんが悪いんじゃなくて、向こうも欲しいものが分かっていないんだよって」
「私、優しいねえ」
「自分で言わないでください」
「そのころ、美羽は?」
「美羽先輩も、よく病室に来ていました」
「ちゃんとお医者さんになった?」
「はい。医師になっていました」
「そっか。よかった」
「そして、その医師が、ある日お酒を持ってきました」
「病室に?」
「私も同じことを言いました」
凜ちゃんは少し遠い目をした。
「先輩は『大丈夫、美羽が持ってきたんだから』と言いました」
「すごい信頼だねえ」
「美羽先輩も『少しくらいなら死なないよ』と」
「お医者さんが言っちゃ駄目なやつだ」
「そのころから、あの人はああでした」
少し離れたところから、ダイナマイトペンギンが口を挟む。
「その夜の話なら俺も知ってるぞ」
「まだ生まれていません」
「俺の設定が決まった夜だ。生まれたようなもんだろ」
「まったく違います」
「細けえ女だ」
「あなたが雑すぎるんです」
凜ちゃんは呆れた顔をした。
でも、口元は笑っていた。
「それで、病室で三人で少し飲みました。先輩はすぐ酔ってしまって」
「何したの?」
「私のスケッチブックへ、丸いペンギンを描きました」
「ペンギンが好きだったのかな」
「さあ。突然でした」
「天才は突然思いつくからねえ」
「そのペンギンに、ダイナマイトを巻こうと言い出したのも先輩です」
「危ないねえ」
「葉巻を持たせると言ったのも」
「もっと危ない」
「私は全部反対しました」
「紙には楽しそうに書いてたよ」
「酔っていましたから」
「『もうやっちゃいましょう』って」
「読まなくていいところまで読みましたね」
凜ちゃんが少し赤くなる。
「でも、楽しかった?」
私が尋ねる。
凜ちゃんは少しだけ黙った。
「はい」
静かな答えだった。
「すごく楽しかったです」
病室。
泣いていた凜ちゃん。
お酒を持ってきた美羽。
ベッドの上で、無責任な案を出す私。
覚えていないのに、何となく目に浮かぶようだった。
「翌日、酔いがさめてから描き直しました」
「ちゃんと仕事に出したんだ」
「はい。自棄になっていたのだと思います」
「採用された?」
「一発で」
「すごい」
「意味が分かりませんでした」
凜ちゃんは眉を寄せる。
「それまで真面目に考えたキャラクターは全部没だったのに、病室で悪ふざけをして描いたものだけが採用されたんです」
「世の中、不思議だねえ」
「宣伝漫画も好評でした。商品より、ダイナマイトペンギンのほうが話題になりました」
「商品は?」
「覚えていません」
「宣伝失敗じゃない?」
「会社は喜んでいました」
それから、ダイナマイトペンギンの漫画が始まった。
最初は商品の宣伝のために描いた短い漫画だった。
それが評判になり、正式な連載が始まった。
やがて凜ちゃんは会社を辞め、漫画家になった。
「大ヒットでした」
「二十七巻」
「よく覚えていますね」
「凜ちゃんと綾乃ちゃんが、すごく詳しく話してたから」
「あれは忘れてください」
「夕方のアニメは三年」
「本当に忘れてください」
ダイナマイトペンギンが胸を張った。
「俺は国民的スターだった」
「あなた自身ではありません」
「肖像権料を請求すべきだった」
「作者は私です」
「モデルは俺だ」
「描く前には存在していません」
「時系列は些細な問題だ」
「最大の問題です」
私は笑った。
本当に、漫画の中で読んだ二人のやり取りみたいだった。
「凜ちゃんは、ダイナマイトペンギンが嫌いだったの?」
「何が面白いのか、ずっと分かりませんでした」
凜ちゃんは、目の前のペンギンを見る。
「でも、嫌いではありませんでした」
「素直じゃねえな」
「あなたが言わないでください」
「好きだった?」
私が聞く。
「……たぶん」
「俺に惚れてたか」
「爆発させますよ」
「それは俺の持ち味だ」
凜ちゃんはため息をついた。
「ただ、連載が続くほど、本当に面白いものが分からなくなりました」
その声から、笑いが消えた。
「先輩の病気が重くなったころです」
私は黙って続きを待った。
「病室へ行っても、会えない日が増えました。感染症の危険があるとか、検査があるとか、体力が落ちているとか」
「うん」
「電話も短くなって。メッセージの返事も、少しずつ来なくなって」
凜ちゃんの手が、また強く組まれる。
「漫画を描いても、先輩に見せられなくなりました」
「ごめん」
「まだ謝らないでください」
「でも」
「最後まで聞いてください」
「うん」
「読者は笑ってくれていました。編集者も面白いと言っていました。売上も伸びていました」
それなのに、凜ちゃんには何が面白いのか分からなくなっていった。
ダイナマイトペンギンが爆発する。
ツインテールの少女が失敗する。
憧れの先輩が笑う。
読者が楽しみにしている場面を描くほど、凜ちゃん自身は笑えなくなっていった。
「綾乃さんが心配して、会おうと言ってきました」
「綾乃ちゃんが?」
「何度も」
「会わなかったの?」
「無視しました」
「どうして?」
「話したくなかったからです」
「心配してくれたのに」
「分かっています」
凜ちゃんは目を伏せた。
「分かっていたから、余計に会いたくありませんでした。大丈夫ではないと認めることになるので」
「凜ちゃんらしいねえ」
「褒めていませんよね」
「うん」
「少しは否定してください」
「これからは何度でも聞くって決めたから」
「過去の私には聞けません」
「じゃあ、今から怒っておく。綾乃ちゃんを無視したら駄目だよ」
「はい」
素直だった。
それだけで、過去の凜ちゃんが少しだけ救われたような気がした。
「ある夜、急に『カエルのお姫様』を思いつきました」
「どうしてカエルだったの?」
「分かりません」
「夢?」
「そうかもしれません。ただ、ダイナマイトペンギンとは反対のものを描きたいと思いました」
派手ではない。
一目で面白さが伝わらない。
悪者を一人決めない。
問題が完全には解決しない。
大人の都合だけで話を終わらせない。
子どもをただ笑わせるのではなく、子どもならきっと分かってくれると信じて描く物語。
私が前に読んだ『カエルのお姫様』そのものだった。
「編集部には反対されました」
「ダイナマイトペンギンが人気だったもんね」
「はい。ダイナマイトペンギンを終わらせる必要はない。並行して描けばいい。せめて休載にしろ、と」
「どうしたの?」
「終わらせました」
「押し切ったんだ」
「はい」
「凜ちゃん、強いねえ」
「投げやりだっただけかもしれません」
ダイナマイトペンギンの連載終了は突然だった。
憧れの先輩の死。
笑わなくなる少女。
ダイナマイトペンギンの自爆。
世界が変わって、死んだ先輩が戻ってくる。
そして、最後にはみんなで楽しく暮らす。
さっき私が読んだ、説明のないハッピーエンド。
「やっぱり、あの最後は」
「先輩を死なせたくありませんでした」
凜ちゃんが答えた。
「でも、もう漫画の中でしか、どうにもできなかった」
私は胸が苦しくなった。
病気のせいではない。
「そのあと、一年間、『カエルのお姫様』の構想を練りました」
「一年も?」
「はい。言葉や歴史や、水路の制度まで全部考えました」
「だから三巻、あんなに細かかったんだ」
「誰にも急かされたくなかったんです。売れるかどうかも考えたくなかった」
「三巻まで全部?」
「全部書き上げてから、出版社へ持っていきました」
「あれ?」
「何ですか」
「じゃあ、綾乃ちゃんが言ってた『三巻で打ち切り』は違うの?」
凜ちゃんの眉がぴくりと動いた。
「違います」
少し強い声だった。
「最初から三巻で終わる話として書きました」
「そうだったんだ」
「神楽坂さん……いえ、綾乃さんは、私をからかっていただけです」
「すごく本気で打ち切りって言ってたよ」
「だから腹が立ったんです!」
「なるほどねえ」
三巻で終わったこと自体は同じだった。
でも、売れなくて終わったのではない。
凜ちゃんが最初から、その三冊で一つの物語として作ったものだった。
「それでも、すぐには出してもらえませんでした」
「やっぱり?」
「売れない。子どもには難しすぎる。ダイナマイトペンギンの続編を描いたほうがいい。何度も言われました」
「それでも出したんだ」
「はい」
「強いねえ」
「そこだけは譲りたくなかったんです」
そして、ようやく三冊の本になった。
「本ができて、先輩のところへ持っていきました」
凜ちゃんの声が震えた。
「会えたんだ」
「はい」
「私、喜んだ?」
「すごく」
凜ちゃんが笑った。
涙をこらえるような笑顔だった。
「『凜ちゃんが本を出した』って。自分のことみたいに喜んでくれました」
「読みたいって言った?」
「はい」
「読んだ?」
「最初の数ページだけ」
私は息を止めた。
「先輩は、具合が悪いから、今日は最後まで読めないと言いました」
ベッドの上で本を開く私。
桃色のドレス。
曲がった王冠。
まだ一巻の最初で、王様の代わりに池の王国を守ることになったカエルのお姫様。
「少し眠るね、と言って」
凜ちゃんの声が小さくなる。
「そのまま、目を閉じました」
広間のどこかで、乾いた石が落ちる音がした。
「私は、隣でずっと待っていました」
続きを読んでもらえると思って。
起きたら、感想を聞けると思って。
「それが、先輩と話した最後でした」
凜ちゃんは俯いた。
「最後まで、読んでもらえませんでした」
私は何も言えなかった。
前に凜ちゃんと三冊を読んだ夜を思い出す。
一人では読まないでほしい、と言われた。
三冊とも最後まで読んでほしい、と言われた。
私が「好きだなあ」と言ったら、凜ちゃんは泣いた。
あのとき、どうしてあんなに泣いたのか。
ようやく分かった。
「覚えているのは、これくらいです」
しばらくして、凜ちゃんが言った。
「全部ではありません。記憶はまだ、ところどころ抜けています」
「思い出したのは、さっき地下で?」
「はい。ダイナマイトペンギンと話しているうちに」
「何を話したの?」
「それは、今度話します」
「逃げない?」
「逃げません」
「約束?」
「約束です」
私は凜ちゃんを抱きしめた。
勢いよく。
「わっ」
凜ちゃんの小さな身体が、私の腕の中で固まる。
「先輩」
「ごめん」
「何がですか」
「最後まで読めなくて」
「病気だったんですから」
「凜ちゃん、一年間もかけたのに」
「大丈夫です」
「でも」
「今、読んでくれました」
凜ちゃんの腕が、ゆっくり私の背中へ回る。
「好きだと言ってくれました」
「うん」
「作者が子どもを信じているって」
「うん」
「優しいって」
「うん」
「最後まで読んでくれました」
「うん」
「それで十分です」
私は、もっと強く抱きしめた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「一人にしてごめん」
凜ちゃんは少し黙った。
「それは、まだ許していません」
「そっか」
「でも」
私の肩に、凜ちゃんの顔が触れる。
「大丈夫です」
「どうして?」
凜ちゃんは少しだけ迷ってから答えた。
「私には、ダイナマイトペンギンがいますから」
「俺か」
少し離れたところから、嬉しそうな声がした。
凜ちゃんは抱きしめられたまま、顔だけをそちらへ向ける。
「すぐ調子に乗らないでください」
「お前が俺を頼りにしてるって話だろ」
「そうは言っていません」
「今言ったじゃねえか」
「そういうところが嫌なんです」
「俺は人気者だからな」
「昔から、読者には『困ったら最後は爆発すれば何とかなる漫画』みたいに言われていましたけど」
「最高の褒め言葉じゃねえか」
「作者としては不本意です!」
「最後はみんな笑ってただろ」
「説明を放棄しただけです!」
「笑って終わりゃ勝ちだ」
「その考え方が嫌なんです!」
凜ちゃんが私の腕から離れ、ダイナマイトペンギンを睨む。
「でも、嫌いじゃないんでしょう?」
私が聞く。
「それは……」
「俺がいるから立ち直れたんだな」
ダイナマイトペンギンが胸を張る。
「全部、俺のおかげだ」
「調子に乗らないでください!」
「事実だろ」
「あなたが勝手に手紙を書くから、朝から恥をかきました!」
「喜んでたじゃねえか」
「先輩からだと思ったからです!」
「俺からじゃ不満か」
「大いに不満です!」
「差別だ!」
「人間とペンギンの区別です!」
「俺は男だ!」
「その前にペンギンです!」
二人の声が、壊れた広間へ響く。
凜ちゃんは怒っている。
ダイナマイトペンギンは楽しそうにしている。
でも。
漫画の中で、先輩が死んだあと。
ツインテールの少女は、何をされても笑わなかった。
葉巻へ火がつかなくても。
競馬に負けても。
時計台を爆破しても。
ダイナマイトペンギンが必死に話しかけても。
何も返さなかった。
それが今は、こんなに大きな声で怒っている。
「先輩も、何か言ってください!」
「ありがとう、ダイナマイトペンギン」
「先輩!?」
「分かってるじゃねえか」
「勘違いしないでね。全部じゃないよ」
「九割か」
「一割くらい」
「値切るな」
凜ちゃんは納得できない顔をしている。
でも、やがて小さく笑った。
「……先輩」
「うん?」
「改めて、ありがとうございます」
「漫画を読んだこと?」
「それもです」
凜ちゃんは、まっすぐ私を見る。
「来てくれたこと」
「うん」
「好きだと言ってくれたこと」
「うん」
「今度は、最後までいてくれたこと」
私はうなずいた。
「こちらこそ、見せてくれてありがとう」
凜ちゃんが笑う。
静かな、でも本当に嬉しそうな笑顔だった。
「これで夢は叶った?」
私がダイナマイトペンギンへ尋ねる。
彼は葉巻を嘴の端へ寄せ、少し考えるふりをした。
「まだだ」
「まだなの?」
「夢は一つじゃねえ」
「便利な言葉だねえ」
「長期連載だからな」
「勝手に引き延ばさないでください!」
凜ちゃんの声が飛ぶ。
ダイナマイトペンギンは大きく笑った。
壊れた世界は、壊れたままだった。
池の水は戻らない。
カエルのお姫様も生き返らない。
過去の私が最後まで本を読むことも、もうできない。
それでも。
凜ちゃんは、自分の物語を私へ話した。
泣いて。
怒って。
ダイナマイトペンギンとくだらない口喧嘩をして。
最後には笑った。
ダイナマイトペンギンが凜ちゃんを救ったのかは、私には分からない。
昔は漫画の中にいただけのペンギンだ。
凜ちゃん自身が描いて、しゃべらせて、何度も無茶をさせた。
でも今は、本当に凜ちゃんの隣に立っている。
凜ちゃんが泣いていても。
怒っていても。
嫌いだと言っても。
勝手に話しかけてくる。
たぶん、この子はこれからもそうなのだと思う。
「何を見てるんですか、先輩」
「二人、仲良しだなあって」
「違います!」
「照れるな」
「あなたは黙ってください!」
二人の声を聞きながら、私は笑った。
漫画で読んだ光景より、ずっと面白かった。




