4月15日 イベント「カエルのお姫様の世界」
どのくらいそうしていたのか分からない。
凜ちゃんの泣き声は、少しずつ小さくなっていった。
私の服を掴んでいた手からも、ようやく力が抜ける。
「……すみません」
「もういいの?」
「はい」
凜ちゃんは私から離れた。
目も鼻も赤い。
「すごい顔だよ」
「誰のせいですか」
「私かなあ」
「先輩です」
「じゃあ、ごめん」
「そこは否定してください」
凜ちゃんはハンカチを取り出して、目元を拭いた。
少し離れたところでは、ダイナマイトペンギンが壁にもたれている。
何も言わない。
葉巻をくわえたまま、凜ちゃんが落ち着くのを待っていた。
「先輩」
「うん?」
凜ちゃんが私を見る。
「私、決めました」
「何を?」
「この世界を作り直すのはやめます」
私は黙って続きを待った。
「カエルのお姫様も、生き返らせません」
「……うん」
「それから」
一度、息を吸う。
「ループを終わらせます」
ループ。
聞いたことのない言葉だった。
「ループ?」
凜ちゃんが少しだけ困った顔をした。
「はい」
「それが終わると、どうなるの?」
「分かりません」
「凜ちゃんにも?」
「はい」
「そっか」
私はうなずいた。
「じゃあ、終わらせよう」
「……それだけですか」
「何が?」
「もっと聞かないんですか」
「凜ちゃんが終わらせるって決めたんでしょう?」
「はい」
「なら、いいよ」
凜ちゃんは私をじっと見た。
「先輩は、本当に……」
「なに?」
「いえ」
小さく首を振る。
それから。
「でも、最後に一つだけお願いがあります」
「うん」
「一緒に来てほしい場所があります」
「どこ?」
凜ちゃんは答えず、地下の奥へ歩いていった。
大きな扉の前で立ち止まる。
前にも通ったことのある扉。
向こう側に、池の王国がある。
凜ちゃんが扉へ手をかける。
「世界を作り直すのは、やめました」
「うん」
「でも、なくなる前に」
凜ちゃんが私を見る。
「先輩に、もう一度ちゃんと見てほしいんです」
「カエルのお姫様の世界を?」
「はい」
少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「今度は、私が案内します」
「それは楽しそう」
「遊びに行くわけではありませんよ」
「見物でしょ?」
「最後の確認です」
「見物だねえ」
「……もうそれでいいです」
凜ちゃんが扉を押す。
重い音を立てて、ゆっくりと開いた。
向こうに、池の王国が広がっていた。
*
最初に来たときと同じように、王国は静かだった。
浅い水路。
苔に覆われた石畳。
蓮の葉のような形をした足場。
遠くには白い城が見える。
水はほとんどなく、枯れた草が風に揺れていた。
以前ここにいたカエルたちは、もういない。
それでも。
「先輩、こちらです」
凜ちゃんは迷わず歩き出した。
「どこ行くの?」
「まずは北側の水路です」
「北側」
「三巻の地図にありました」
「そこまで覚えてないなあ」
「覚えていてください」
「難しいねえ」
「では、今から覚えてください」
凜ちゃんは少しだけ得意そうだった。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
私とダイナマイトペンギンは、その後についていく。
しばらく歩くと、水路が少し広くなった。
「ここです」
「何が?」
「泥玉投げです」
「あ」
思い出した。
「凜ちゃんが兵士に当てたところ?」
「……それは夢の中の話です」
「当てたんだ」
「当てていません」
「でも今、否定するまでちょっと間があったよ」
「ありません」
凜ちゃんは足元の土を見た。
少し湿った泥が残っている。
「本来は、あそこに浮かべた蓮の葉を狙います」
水路の向こうを指さす。
「中心に当てるほど点が高いんです」
「やってみようよ」
「今ですか?」
「うん」
「的がありません」
「作ればいい」
横からダイナマイトペンギンが口を挟んだ。
「お前は参加しなくていいです」
「俺ほど泥が似合う男はいねえぞ」
「褒めていません」
ダイナマイトペンギンは勝手に泥を丸め始めた。
「ほら」
私にも一つ渡してくる。
「じゃあ、あの石を狙おう」
「先輩まで……」
「凜ちゃんも」
「私はやりません」
「負けるのが怖い?」
「やります」
すぐだった。
三人で少し離れた石を狙う。
「いくよ」
「はい」
「いつでも来い」
「せーの」
三つの泥玉が飛んだ。
私の泥玉は石のかなり手前へ落ちた。
凜ちゃんの泥玉は石の右を通り過ぎた。
ダイナマイトペンギンの泥玉だけが、ものすごい勢いで飛んでいく。
そして。
べちゃり。
「……」
凜ちゃんの後頭部に当たった。
「おかしい」
ダイナマイトペンギンが言う。
「何がですか」
「俺は前を狙った」
「では、どうして後ろにいる私へ当たったんですか」
「風向きだ」
「今、ほとんど風はありません!」
「世界は不思議で満ちてる」
「先輩」
「私?」
「笑わないでください」
「ごめん」
「笑っています!」
凜ちゃんは頭についた泥を取った。
怒っている。
でも、少し笑ってもいた。
*
次に向かったのは、苔の森だった。
木々のほとんどは枯れてしまっている。
それでも地面や岩には、ところどころ緑色の苔が残っていた。
「ここが苔組合?」
「苔組合が管理していた森です」
「組合の人は?」
「今はいません」
「そっか」
凜ちゃんは足元の苔へ目を落とした。
少しだけ寂しそうな顔をする。
でも、すぐに歩き出した。
「三巻では、ここの苔を泥に混ぜるんです」
「あ、泥団子」
「覚えていたんですね」
「カエル姫が子どもたちと作ってたやつ」
「はい」
「それが堤のひびを見つけるんだよね」
「はい」
凜ちゃんがうれしそうにうなずく。
「ちゃんと読んでいたんですね」
「読んだよ」
「途中で分からないと言って、何度も戻っていましたけど」
「難しかったから」
「丁寧に読めば分かります」
「凜ちゃん、あの漫画の話になると厳しいねえ」
「当然です」
その後ろで、ダイナマイトペンギンが苔を剥がそうとしていた。
「何してるの?」
「持って帰る」
「駄目です!」
凜ちゃんがものすごい速さで振り返った。
「一枚くらいいいだろ」
「よくありません。苔組合の管理物です」
「誰もいねえぞ」
「だからといって盗んでいいことにはなりません!」
「泥棒アメンボは許されてただろ」
「ミズスマシ三世には事情があります!」
「泥棒には甘いな」
「あなたよりは品があります!」
「泥棒に負けた」
ダイナマイトペンギンは苔を戻した。
凜ちゃんは、ちゃんと元の場所についているかまで確認していた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「楽しそうだね」
凜ちゃんが止まる。
「……そうですか?」
「うん」
「先輩が変なことばかりするからです」
「ほとんどダイナマイトペンギンだよ」
「同じようなものです」
「ひどいねえ」
*
森を抜けると、小さな建物が見えてきた。
屋根が低く、入り口も人間には少し小さい。
「ここは?」
「オタマジャクシ学校です」
「学校!」
私は中を覗いた。
小さな机が並んでいる。
黒板のような板には、見たことのない文字が残っていた。
「読める?」
「古代カエル語ではありませんから、少しなら」
「凜ちゃん、読めるの?」
「設定を考えましたから」
言ってから、凜ちゃんが固まった。
私も凜ちゃんを見る。
「今、設定を考えたって言ったね」
「……」
「凜ちゃんが?」
「先へ行きます」
「あ、逃げた」
「逃げていません」
「作者さん」
「違います!」
凜ちゃんが早足で教室を出ていく。
私は笑いながら追いかけた。
その後ろから、ダイナマイトペンギンが黒板を見上げる。
「宿題なし、と書いてある」
凜ちゃんが振り返る。
「嘘を教えないでください!」
「読めるのか?」
「読めます!」
「作者じゃねえか」
「……先へ行きます!」
*
雨乞いの塔は、思っていたより高かった。
上の方は少し崩れている。
「登るの?」
「途中までなら」
「高いねえ」
「三巻では、ここを目指して旅をします」
「石碑を調べるためだよね」
「正確には、石碑に書かれた内容を確かめるためです」
「古代カエル語と」
「新池語」
「あと何だっけ」
「北沼方言です」
「覚えられないよ」
「三つだけです」
「三つもあるんだよ」
塔の階段を上る。
途中から、池の王国がよく見えた。
白い城。
苔の森。
細く続く水路。
その向こうに、乾いた川。
静かな世界だった。
「広いねえ」
「はい」
「三巻しかないのに」
「三巻しかないから、描けなかった場所がたくさんあります」
「例えば?」
凜ちゃんは少し考えた。
「冬眠評議会の中とか」
「そこ見たい?」
「見たいです」
「会議するだけじゃない?」
「重要なんです」
「絶対眠くなるよ」
「冬眠評議会だけに?」
「……」
私が凜ちゃんを見る。
凜ちゃんも私を見る。
「先輩」
「はい」
「今のは、さすがにひどいです」
「自分でもそう思った」
「十点です」
「百点満点?」
「千点満点です」
「厳しいねえ」
横でダイナマイトペンギンが葉巻を揺らした。
「俺は嫌いじゃねえ」
「あなたに褒められると不安になるね」
「光栄に思え」
凜ちゃんが吹き出した。
本当に、小さな笑いだった。
でも私はちゃんと聞いた。
*
塔を降りて、最後に白い城へ向かった。
その途中。
「西側には蓮の迷路があるんです」
凜ちゃんが言った。
「前に言ってたね」
「覚えていたんですか?」
「夜には水路に光る魚が出るんでしょ?」
凜ちゃんが私を見る。
「……はい」
「それも覚えてるよ」
凜ちゃんは何も言わなかった。
「どうしたの?」
「いえ」
「うれしい?」
「別に」
「うれしいんだねえ」
「違います」
「顔に出てるよ」
「先輩にだけは言われたくありません」
白い城が近づいてくる。
前に来たときより、小さく見えた。
たぶん、怖くなくなったからだと思う。
城の裏へ回る。
そこには、私たちが作った墓が並んでいた。
一番奥に、小さな墓。
その上には、少し曲がった王冠が置かれている。
凜ちゃんが、その前に立つ。
「お姫様」
返事はない。
「先輩を連れてきました」
「来たよ」
私も墓の前へしゃがんだ。
「今日はいっぱい案内してもらった」
当然、返事はない。
「苔組合の苔をダイナマイトペンギンが盗もうとしてたよ」
「盗んでねえ」
「未遂です」
「返しただろ」
「最初から取らないでください」
私は笑った。
「凜ちゃん、すごく詳しかったよ」
「当然です」
「オタマジャクシ学校の文字も読めたし」
「先輩」
「設定を考えたって言ってたし」
「忘れてください」
「無理かなあ」
「忘れてください!」
ダイナマイトペンギンが鼻で笑う。
「今さら隠してどうすんだ」
「あなたは黙っていてください!」
「俺の漫画より設定細けえぞ」
「比較しないでください!」
「俺の学校には購買しか設定がねえ」
「十円のパンだけでしょう」
「名物だ」
「安すぎます」
三人の声が、静かな庭に響く。
誰もいない。
もう、お姫様が池へ落ちることもない。
オタマジャクシたちが歌うこともない。
それでも。
さっきまでより、この場所が少しだけ明るく見えた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「連れてきてくれてありがとう」
凜ちゃんは墓を見たまま答えた。
「……はい」
「楽しかったよ」
「本当ですか」
「うん」
「こんな状態なのに?」
「うん」
私は周りを見る。
「だって、凜ちゃんが楽しそうに案内してくれたから」
「私は別に」
「楽しかったでしょう?」
「……」
「楽しくなかった?」
凜ちゃんはしばらく黙っていた。
それから、小さく答える。
「楽しかったです」
「よかった」
「もっと見せたい場所がありました」
「うん」
「本当なら、池にも水があって」
「うん」
「蓮の迷路も、もっときれいで」
「うん」
「夜になったら、光る魚も見せたかったです」
「見たかったなあ」
「泥玉投げも、ちゃんとした的でやってほしかったです」
「凜ちゃんに勝てたかな」
「無理です」
「そんなに強いの?」
「私が作った競技ですから」
凜ちゃんが言った。
今度は、言ってから逃げなかった。
「やっぱり凜ちゃんが作ったんだ」
「……はい」
「そっか」
凜ちゃんが王冠を見る。
「私、この世界が好きでした」
「うん」
「ずっと、なくならなければいいと思っていました」
「うん」
「みんながここにいて、何も変わらなくて」
王冠へ、そっと触れる。
「それが幸せだと思っていました」
私は何も言わなかった。
凜ちゃんは少しだけ笑う。
「でも、今日は楽しかったです」
「うん」
「もう終わるのに」
「終わるから楽しくないってことはないよ」
「……そうですね」
凜ちゃんが立ち上がった。
「そろそろ戻りましょうか」
「もういいの?」
「はい」
「本当に?」
凜ちゃんは、もう一度だけ池の王国を見る。
白い城。
枯れた水路。
苔の森。
遠くに見える雨乞いの塔。
「はい」
寂しそうだった。
でも、泣いてはいなかった。
「ちゃんと見てもらえましたから」
「全部は見てないよ」
「え?」
「冬眠評議会も行ってないし、蓮の迷路もまだだよ」
「先輩」
「あと乾いた川も」
「今日中には終わりません」
「じゃあ急ごう」
「ループを終わらせるんですよ?」
「その前に時間はあるんでしょう?」
「少しはありますけど」
「じゃあ行こう」
私は凜ちゃんの手を取った。
「最後まで見せてよ」
凜ちゃんが私を見る。
驚いた顔をして。
それから、笑った。
「……仕方ありませんね」
「俺は冬眠評議会はパスだ」
ダイナマイトペンギンが言う。
「寝る」
「あなたが一番似合う場所じゃないですか」
「会議は嫌いだ」
「では置いていきましょう」
「待て。俺も行く」
「どっちなんですか」
「観光と会議は別だ」
「意味が分かりません」
三人で、また歩き出す。
なくなる世界の中を。
今度は急がずに。
見たいものを一つずつ見ながら。
その日、池の王国を一番最後まで騒がしく歩いていたのは、たぶん私たちだった。




