4月15日 凜視点「凜VSすず」
放課後。
凜は、三年生の教室へ向かっていた。
鞄を持つ手には、いつもより強く力が入っている。
早く計画を進めなければならない。
カエルのお姫様は、また殺された。
これまでのループと同じように、すず先生の毒によって。
次に何をされるか分からない。
ひよりまで巻き込まれる前に、自分が動かなければならなかった。
「水城さん」
背後から、低く澄んだ声で呼び止められた。
凜は足を止める。
世界史準備室の扉が開き、すず先生が立っていた。
肩まである黒髪を後ろで一つに束ね、白いシャツの上から細身の紺色のジャケットを着ている。片手には、世界史の資料らしい紙の束を抱えていた。
学校の中で見れば、普段と何も変わらない教師の姿だった。
「少し時間をもらえるかしら」
「先輩を待たせています」
「長くはかからないわ」
「私には、先生と話すことはありません」
「カエルのお姫様のことでも?」
凜は、すず先生を睨んだ。
すず先生は準備室の中へ戻り、机の上へ資料を置いた。
「廊下でする話ではないでしょう。入りなさい」
教師として生徒へ指示する、落ち着いた声だった。
凜は迷ったあと、準備室へ入った。
壁際の棚には、世界地図や古い資料集が並んでいる。黒板には、今日の授業で使ったらしい国名と年号が残っていた。
すず先生が扉を閉める。
「お姫様を殺したのは、先生ですね」
「ええ」
すず先生は否定しなかった。
「池の水へ毒を入れたのも?」
「そうよ」
「どうして、あの子たちまで殺したんですか」
「あなたに理解してもらうためよ」
「何をですか」
「このループを終わらせなければ、何度でも同じことをするということを」
凜の手が震えた。
「そんなことはさせません」
「あなたに止められるかしら」
「止めます」
「今回は、カエルのお姫様だった」
すず先生は教卓へ腰を預け、腕を組んだ。
「次は何をするか、自分でも分からないわ」
「脅しているんですか」
「警告しているの」
「同じです」
「そうかもしれないわね」
すず先生は悪びれなかった。
「次は、桜庭さんを傷つけるかもしれない」
凜は机を強く叩いた。
「先輩に手を出さないでください!」
机の上に積まれていた資料が崩れた。
凜は構わず、すず先生へ詰め寄る。
「先輩は関係ありません」
「関係があるわ」
「ありません!」
「あなたが大切にしている」
すず先生は、凜の怒りを正面から受け止めた。
「それだけで十分よ」
「先輩を傷つけたら、絶対に許しません」
「許してもらう必要はないわ」
「どうしてですか」
凜の声が震える。
「どうして、そこまで私を攻撃するんですか」
「理由なら、もう話したでしょう」
「話していません」
「このループを壊してほしいと言ったわ」
「それは、先生の目的です」
凜は一歩も引かなかった。
「私をここまで憎む理由にはなっていません」
すず先生は黙って凜を見た。
教師として教壇に立っているときと同じ、感情の読み取りにくい顔だった。
「私が何をしたんですか」
凜は尋ねた。
「先生から何かを奪いましたか」
「いいえ」
「先生を傷つけましたか」
「いいえ」
「では、なぜですか」
凜は声を強くした。
「なぜ、何度も私の大切なものを壊すんですか!」
短い沈黙があった。
すず先生は、少しだけ首を傾ける。
「ただ、あなたが気に食わないからよ」
凜は息を止めた。
「……それだけですか」
「ええ」
「そんな理由で、お姫様を殺したんですか」
「そうよ」
「先輩まで傷つけようとしているんですか」
「必要なら」
凜は、目の前にいる女が教師の姿をしていることを、改めて意識した。
昼間は教壇に立ち、戦争や国家について説明している。
生徒が危険な場所へ行こうとすれば同行し、足元へ気をつけるよう注意する。
その同じ人間が、今は何の迷いもなく、ひよりを傷つけると言っていた。
「最低です」
「そうね」
「先生と呼ぶ価値もありません」
「それでも、今の私はこの学校の教師よ」
すず先生は冷静だった。
「そしてあなたは、私の生徒」
「それが何ですか」
「少しは教師の忠告を聞きなさい」
「これは忠告ではありません」
凜はすず先生を睨み返した。
「私は、この世界を壊しません」
「桜庭さんが傷ついても?」
「先輩は私が守ります」
「カエルのお姫様も守れなかったのに?」
凜の顔が歪んだ。
腕の中で動かなくなった、小さな身体を思い出す。
けれど、視線はそらさなかった。
「次は守ります」
「何度失敗しても?」
「何度でも」
「あなたにはできないわ」
「できます」
「どうして、そう言い切れるの?」
「先生なんかに負けないからです」
凜は、はっきりと言った。
「何をされても、私は先生の望みどおりにはなりません」
すず先生の表情から、わずかに笑みが消えた。
「そう」
組んでいた腕を解く。
「なら、ここであなたを消したほうが早いかもしれないわね」
すず先生が右手を下ろした。
その指先から、黒い液体が一滴落ちる。
床へ触れた瞬間、黒い染みが音もなく広がった。
染みは床板の隙間を伝い、細い水の流れとなって凜へ向かってくる。
窓際に置かれていた鉢植えへ黒い水が触れた。
緑色だった葉が縮れ、数秒も経たないうちに黒く変色する。
凜は後ろへ下がった。
黒い水は動きを変え、凜の靴を囲むように広がっていく。
「先生」
「動かないほうがいいわ」
すず先生の声は、授業中と変わらないほど穏やかだった。
「苦しむ時間が長くなるだけだから」
黒い水から、細い煙が立ち上る。
凜は口元を袖で覆った。
逃げ道は、すず先生の後ろにある扉だけだった。
「これくらいで、私が――」
硬い音がした。
すず先生の言葉が止まる。
世界地図を収めた大きな棚の下から、黒い筒が伸びていた。
筒の先は、まっすぐにすず先生の胸へ向けられている。
続いて、赤いダイナマイトを腹に巻いた小さな身体が、棚の下から這い出してきた。
ダイナマイトペンギンだった。
身体よりも大きなバズーカを抱え、すず先生へ照準を合わせている。
すず先生の顔から、初めて余裕が消えた。
「あなた、いつからそこにいたの」
ダイナマイトペンギンは答えなかった。
床を這う黒い水が、その足元へ流れ込む。
毒は短い足を包み、そのまま腹まで広がった。
鉢植えの葉を一瞬で枯らした黒い水だった。
けれど、ダイナマイトペンギンの身体には何も起こらない。
羽毛は変色せず、皮膚が焼けることもなかった。苦しむ様子さえなく、黒い水の中に平然と立っている。
ダイナマイトペンギンは一度だけ足元を見た。
「こんなもん、俺には効かねえぞ」
すず先生が、悔しそうに眉を寄せる。
黒い水の量を増やした。
毒が波打ち、ダイナマイトペンギンの小さな身体へ何度も打ちつける。
それでも、何の変化もない。
ダイナマイトペンギンは黒い水を踏み越え、凜をかばう位置まで進んだ。
「無駄だ」
バズーカの筒先を、すず先生へ向けたまま告げる。
「凜を傷つけるなら、容赦しねえぞ」
「毒が効かないから、強気でいられるのね」
「違う」
ダイナマイトペンギンの翼が、引き金へかかる。
「効いたところで、俺はここに立ってる」
すず先生の表情が固まった。
「ここは学校よ」
「だから何だ」
「撃てば、水城さんも無事では済まないわ」
「撃たせるかどうかは、あんたが決めろ」
ダイナマイトペンギンは一歩も引かなかった。
足元では、毒が今も黒く渦巻いている。
それでも、その身体には傷一つついていなかった。
すず先生は、ダイナマイトペンギンを見つめた。
次に、自分と凜との距離を確認する。
毒の通じない相手を残したまま、凜を殺すことはできない。
そう判断したのか、すず先生はゆっくりと右手を上げた。
床を覆っていた黒い水が止まる。
凜の靴を囲んでいた毒も、ダイナマイトペンギンの足元にまとわりついていた毒も、細い筋となってすず先生のもとへ戻っていった。
「今日は、ここまでにしましょう」
「二度と凜に近づくな」
「それは約束できないわ」
すず先生は机の上から資料を拾い上げた。
乱れていた紙の端を、何事もなかったようにそろえていく。
「水城さん」
凜は返事をしなかった。
「次は、彼が近くにいるとは限らない」
「先生の思いどおりにはなりません」
「それなら、急いだほうがいいわ」
すず先生は準備室の扉を開けた。
「桜庭さんに何か起こる前に」
凜は、すず先生の横を通り過ぎた。
廊下へ出てから、足を止める。
背後では、ダイナマイトペンギンがバズーカを下ろしていた。
「助けてなんて、頼んでいません」
ダイナマイトペンギンは何も答えなかった。
「聞こえていますよね」
返事はない。
「今朝のことを、これで許してもらえると思わないでください」
ダイナマイトペンギンは葉巻を取り出した。
けれど、火をつけることも、凜を見ることもしなかった。
「勝手に手紙を書いて」
凜の声が震えた。
「今度は、勝手に助けて」
それでも、ダイナマイトペンギンは黙っていた。
何かを説明することも、自分の行動を正当化することもしなかった。
凜は唇を強く結んだ。
「もういいです」
鞄を持ち直し、三年生の教室へ向かって歩き始める。
早く計画を進めなければならない。
すず先生は、次にひよりを狙うかもしれない。
「早く進めなきゃ」
歩く速度が上がる。
今朝の手紙について考えている余裕はない。
ダイナマイトペンギンが、なぜ自分を追ってきたのかも。
毒の中へ迷わず入ってきた理由も。
考えてはいけない。
「早く、計画を進めなきゃ」
ひよりの教室がある階へ続く階段を上る。
「早く進めなきゃ」
同じ言葉を繰り返しながら、凜はひよりの教室へ向かった。




