4月15日 凜視点「先輩と私しかいない理想の世界」
凜は部屋を飛び出すと、そのまま階段を下りた。
どこへ行くかは決めていなかった。
ただ、あの部屋にはいられなかった。
ひよりが書いたと思っていた手紙。
何度も読み返した言葉。
苦しくなるたびに取り出し、自分は一人ではないのだと言い聞かせてきた。
それが、ダイナマイトペンギンの言葉だった。
あの小さな身体も、低い声も、葉巻も、腹に巻かれた赤いダイナマイトも、頭に浮かべるだけで胸の奥が気持ち悪くなった。
俺も、お前の一部だ。
「違う」
凜は口に出して否定した。
けれど、声は誰にも届かず、朝の静かな廊下に消えていった。
校舎の裏へ出る。
朝の冷たい空気が、涙の跡が残る頬に触れた。
凜は人のいない渡り廊下を進み、中庭のベンチへ腰を下ろした。
鞄を隣に置き、膝の上で両手を強く握る。
泣くつもりはなかった。
カエルのお姫様が死んだときにも、散々泣いた。
前の世界でも守れなかった。
今回こそは違うと思っていたのに、また同じように、すずに殺された。
何度やり直しても、結局は同じところへ戻ってくる。
「凜ちゃん」
背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、静香が立っていた。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、少し離れた場所から凜を見ている。
「どうして、ここにいるんですか」
「ひよりちゃんの部屋から、あなたが出ていくのが見えたから」
「追いかけてきたんですか」
「ええ」
「放っておいてください」
凜は静香から顔をそらした。
静香は帰らなかった。
凜の隣へ座ろうともせず、少し離れた場所に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
「カエルのお姫様のことを聞いたわ」
凜の指が動いた。
「誰からですか」
「ダイナマイトペンギンから」
「また、あいつですか」
凜はベンチから立ち上がりかけた。
「待って」
「何ですか」
「謝りたかったの」
凜の動きが止まる。
静香は、まっすぐ凜を見た。
「カエルのお姫様を守れなかった。ごめんなさい」
「静香先輩が謝ることではありません」
「私が、すずを止められなかったから」
「悪いのはすず先生です」
「ええ」
静香は否定しなかった。
「すずがしたことは、すずの罪よ」
「なら、静香先輩が謝る必要はありません」
「その罪は、私が償う」
凜は眉を寄せた。
「どうして静香先輩が償うんですか」
「あの子を放っておいたのは私だから」
「すず先生は、自分で考えて、自分でカエルのお姫様を殺しました」
「分かっているわ」
「静香先輩の命令ではありません」
「それでも、私には責任がある」
静香の声は穏やかだった。
すずの罪を軽くしようとしているわけではない。
自分を悲劇の中心に置こうとしているわけでもない。
すずがしたことをすず自身の罪として認めたうえで、その結果を自分も引き受けようとしていた。
凜は静香から視線を外した。
「静香先輩は、やれることをやってくれました」
「いいえ」
「やってくれました」
凜は強く言った。
「私が何を話しても、誰にも信じてもらえなかったとき、静香先輩だけは話を聞いてくれました。すず先生を止めようともしてくれた。だから、静香先輩には感謝しかありません」
「私の貢献なんて、大したことはないわ」
「そんなことはありません」
「ひよりちゃんと、ダイナマイトペンギンにはかなわない」
凜が静香を振り返った。
「どうして、そこであいつが出てくるんですか」
声が、自分でも分かるほど尖っていた。
静香は表情を変えなかった。
「事実だからよ」
「何が事実なんですか」
「彼ほど、あなたのことを考えている存在はいない」
「やめてください」
「凜ちゃん」
「今、その話はしたくありません」
「でも、いつかは彼のことを認めてあげてほしい」
「嫌です」
凜は即座に答えた。
「彼は、あなたに嫌われると分かっていても、ずっとあなたを助けようとしている」
「余計なことをしているだけです」
「それでも、彼がいなければ、ここまで来られなかった」
「私は頼んでいません」
「そうね」
「勝手に漫画を見せて、勝手に先輩を本屋へ連れていって、勝手に私のことを話した。今度は、先輩からだと思っていた手紙まで、自分が書いたと言い出したんです」
「手紙は、最初から彼自身の言葉だったのよ」
「だから何ですか」
「彼は、あなたのことを大切に思っていた」
「気持ちが悪いです」
「あなたに好かれるためにしたことではないわ」
「それなら、もっと悪いです」
凜は拳を握った。
「あいつは、自分が正しいと思っているから、私がどれだけ嫌がってもやめないんです」
「それでも、彼はあなたが苦しんでいれば助けようとする」
「頼んでいません!」
凜の声が中庭に響いた。
静香は黙った。
凜は荒くなった呼吸を整えようとした。
しかし、胸の奥に押し込めていたものが、静香の言葉によって再び開いてしまっていた。
「静香先輩も、あいつの味方なんですか」
「味方という言い方は違うと思う」
「同じです」
「私は、彼のことを認めてあげてほしいと思っている」
「どうしてですか」
「あのペンギンを生み出したあなたを、私は尊敬しているから」
凜の表情が固まった。
「やめて」
「何度負けても立ち上がる。誰からも理解されなくても、自分が大切だと思ったものを守ろうとする。あれほど強い存在を生み出したことは、あなたの――」
「やめてください!」
凜は両手で耳を塞いだ。
「私ではありません」
「凜ちゃん」
「あんなものは私ではない!」
静香の言葉を遮るように叫ぶ。
「あいつは昔からずっと嫌いです。乱暴で、うるさくて、私の考えを無視して、勝手なことばかりする」
「ええ」
「私の一部だなんて言わないでください」
「分かったわ」
「分かっていません!」
凜は耳から手を離した。
「皆、あいつのことばかり褒めるんです」
声が震えていた。
「格好いい。面白い。何度でも立ち上がってすごい。あんなものを作れるなんてすごいって」
「……凜ちゃん」
「いつもそうです」
凜の口元が、笑っているように歪んだ。
「世間は、私なんか見ていない」
「そんなことは」
「あいつばかりかわいがる」
凜は静香を見ていた。
けれど、その目の焦点は少しずれていた。
「私が本当に作りたかったものは、誰も見ようとしない。カエルのお姫様の世界がどれだけきれいで、優しくて、大切なものだったのかなんて、誰も気にしない」
握り締めた手が震えている。
「皆、すぐに壊すんです」
凜の目から涙が落ちた。
「暗いところや、汚いところや、私が見たくないものを持ってきて、それもお前だと言う。そっちのほうが本当だと言う」
静香は何も言わなかった。
「どうして、私が大切にしている世界を、そのまま認めてくれないんですか」
凜は涙を拭おうともせず、静香を見つめた。
「私は、ひより先輩がいればいいんです」
静香の目が、わずかに揺れた。
「ダイナマイトペンギンなんていりません。世間に褒めてもらう必要もありません。あんなものを私の一部だと認めるくらいなら、誰にも分かってもらえなくていい」
「凜ちゃんがそう思うなら、私は否定しない」
凜は目を見開いた。
「否定しないんですか」
「ええ」
「あいつは私の一部ではないと?」
「あなたがそう思うことを、私は否定しない」
「さっきまで、認めてあげてほしいと言っていたのに」
「それは私の考えよ」
静香は静かに続けた。
「彼を認めてほしいと思っている。でも、私の考えをあなたに押しつけるつもりはない」
「……」
「あなたの世界は、あなたのものよ。思うようにやりなさい」
「思うように?」
「誰かの期待に合わせる必要はない。私にも、ひよりちゃんにも、ダイナマイトペンギンにも」
凜の表情から、怒りが少しずつ抜けていった。
けれど、落ち着いたわけではなかった。
目を大きく開き、何もない中庭の一点を見つめている。
泣きそうな顔のまま、口元だけがかすかに笑った。
「なら」
凜が小さく呟いた。
「もう一度、作ればいいんですね」
「何を?」
「カエルのお姫様の世界です」
静香の表情が固くなった。
凜はそれに気づかず、何かを思いついた子どものように言葉を続ける。
「今度は、壊されないようにします。すず先生が来なければいい。余計なものを入れなければ、今度こそ、きれいなままでいられる」
「凜ちゃん」
「最初から作り直します」
凜は涙を拭った。
「カエルのお姫様も、皆も、もう一度きちんと作るんです。誰にも壊されない、私の本当の世界を」
そこで、凜は何か大切なことを思い出したように目を見開いた。
「先輩にも、そこへ来てもらいます」
「ひよりちゃんを?」
「はい」
凜の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「先輩には、ずっとそこにいてもらいます」
静香は凜の顔を見つめた。
「それは、ひよりちゃんが望まなくても?」
「先輩は、私を一人にしません」
「質問に答えて」
凜の笑みがわずかに歪んだ。
「先輩は、優しいから分かってくれます」
「分かってくれなかったら?」
「分かってもらいます」
凜は、何でもないことのように答えた。
「外には、先輩を傷つけるものが多すぎます。すず先生もいる。ダイナマイトペンギンも、先輩に余計なものを見せようとする」
「だから、閉じ込めるの?」
「閉じ込めるのではありません」
凜はすぐに否定した。
「守るんです」
「外へ出られなくして?」
「出る必要がないようにします」
凜の目は静香を見ていた。
けれど、その視線は静香を通り越し、まだ存在しない世界を見つめているようだった。
「先輩が欲しいものは、全部私が用意します。毎日楽しくして、寂しい思いもさせません。私がずっとそばにいます」
「ひよりちゃんが、あなた以外の人に会いたいと言ったら?」
凜の笑みが消えた。
「言いません」
「言ったら?」
「言わせません」
その答えが自分でも強すぎたと思ったのか、凜は少し首を傾げた。
そして、取り繕うように笑う。
「先輩は、私がいれば幸せですから」
静香は困ったように眉を寄せた。
止める言葉を探しているようだった。
それでも、最後には小さく息を吐いた。
「凜ちゃんがそうしたいなら、そうしなさい」
凜が静香を見る。
「止めないんですか」
「あなたが自分の世界を作り直したいと思うなら、私は止めない」
「先輩を連れていくことも?」
静香はすぐには答えなかった。
「ひよりちゃんが自分で決められるようにはしてあげて」
「先輩は、私を選びます」
「そう」
「必ずです」
凜は、自分へ言い聞かせるように繰り返した。
「また失敗するかもしれません」
「そのときは、また考えればいい」
「すず先生が、また来るかもしれません」
「次は来させない」
静香は、はっきりと言った。
「私がずっと見張っている」
「ずっと?」
「ええ。すずがあなたの世界へ近づかないように、私が見張るわ」
凜は静香を見つめた。
疑っているようにも、安心しているようにも見えた。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「ありがとうございます、静香先輩」
「お礼は、まだ早いわ」
「いいえ」
凜は鞄を持ち上げた。
「今度は、きっと大丈夫です」
その声は明るかった。
明るすぎるほどだった。
「先輩も、もうどこにも行きません」
凜はそう言って歩き出した。
静香は何も答えず、その後ろ姿を見つめていた。




