4月14日 イベント「凜の幸せな世界とその崩壊」
その日の夜、私は夢を見ていた。
昨日歩いた池の王国は、すっかり枯れていた。
水路には黒い泥が残り、カエルの兵士たちは動かなくなっていた。白い城の近くには、ダイナマイトペンギンが作った墓が並んでいる。
けれど、今、私の目の前にある王国は生きていた。
池には澄んだ水が満ちている。
水路の両側には色とりどりの旗が飾られ、蓮の葉をつないだ小舟が、ゆっくりと水面を進んでいた。
広場では、丸い太鼓を抱えたカエルたちが楽しそうに音を鳴らしている。
その隣では、小さなオタマジャクシたちが一列に並び、声をそろえて歌っていた。
「先輩、こちらです」
凜ちゃんが私の手を引いた。
いつもより歩くのが速い。
それに、よく笑っていた。
「池の北側では、泥玉投げの大会をしているんです。優勝すると、蓮の実を一年分もらえるそうですよ」
「一年分も食べるの?」
「食べきれなければ、来年の大会で投げます」
「また泥に戻るんだねえ」
「無駄がありません」
本当かな。
凜ちゃんに連れられて広場へ行くと、大勢のカエルが泥玉を投げていた。
水面に浮かんだ葉の的へ当てる競技らしい。
きれいに中心へ当たるたび、周囲から歓声が上がる。
「先輩もやってみますか?」
「凜ちゃんが投げて」
「私ですか?」
「見たい」
凜ちゃんは少し考えてから、泥玉を一つ受け取った。
両手で持ち、狙いを定める。
「行きます」
泥玉は大きく弧を描いた。
的には当たらず、その奥にいた兵士の兜へぶつかった。
べちゃり、と音がする。
広場が静かになった。
「……当たりました」
「的じゃないねえ」
「大きく見れば、同じ方向です」
兜を泥だらけにした兵士は、しばらく凜ちゃんを見つめた。
それから笑い出す。
周りのカエルたちも一緒に笑い、凜ちゃんも恥ずかしそうに笑った。
頬に小さな泥がついていたので、私は指で拭った。
「凜ちゃんにもついてる」
「自分で取れます」
「もう取ったよ」
「先輩は、すぐそうやって……」
「嫌だった?」
凜ちゃんは答えず、眼鏡を押し上げた。
耳が少し赤くなっている。
「次へ行きます」
「はあい」
凜ちゃんは、私の手を離さなかった。
次に案内されたのは、大きな池の中央にある舞台だった。
カエルのお姫様が、ピンク色のドレスを着て待っている。
「凜さん。ひよりさん」
お姫様が手を振った。
少し曲がった王冠が、今にも頭から落ちそうになっている。
「今日は、お二人のために合唱を用意したんです」
「私たちのため?」
「はい。凜さんから、ひよりさんが来ると聞きましたから」
お姫様が指揮棒を振る。
オタマジャクシたちが一斉に歌い始めた。
言葉はよく分からなかったけれど、明るくて、少し間の抜けた歌だった。
太鼓の音が水面を震わせる。
カエルたちは手を叩き、泥玉投げをしていた兵士たちまで歌に加わっていた。
「楽しいねえ」
私が言うと、凜ちゃんはうれしそうにうなずいた。
「はい」
その笑顔は、学校で見るものよりも柔らかかった。
何かを気にする必要もない。
誰かの様子をうかがう必要もない。
凜ちゃんはただ、好きな物語の中で笑っていた。
「次は、お城へ行きましょう」
「まだあるの?」
「たくさんあります。西側には蓮の迷路がありますし、夜になると水路に光る魚が出るんです」
「全部見るには時間がかかりそうだねえ」
「時間ならあります」
凜ちゃんは私の手を握ったまま答えた。
「先輩がいてくれるなら、何日でも」
「毎日お祭りするの?」
「先輩が楽しいなら」
「カエルたちは疲れない?」
「大丈夫です」
凜ちゃんは迷わなかった。
「みんな、楽しいですから」
太鼓が鳴る。
オタマジャクシたちが歌う。
カエルのお姫様が指揮棒を振り回し、勢い余って池へ落ちた。
「また落ちたねえ」
「お約束ですから」
凜ちゃんが笑う。
私は水から上がってきたお姫様へタオルを渡しながら、凜ちゃんの頭を撫でた。
「凜ちゃんが楽しそうでよかった」
「子ども扱いしないでください」
「かわいいから仕方ないねえ」
「仕方なくありません」
怒っている声だった。
けれど、凜ちゃんは私の手を振り払わなかった。
その瞬間だった。
音楽が止まった。
水面を叩いていた太鼓も。
合唱も。
カエルたちの笑い声も。
全部が、一度に消えた。
「……どうしたのかな」
凜ちゃんが顔を上げる。
池の向こう。
白い城へ続く石橋の上に、誰かが立っていた。
背が高い。
黒い髪を一つに束ねている。
細身のジャケット。
すず先生だった。
「先生?」
私が呼ぶ。
先生は答えない。
いつものように冷たく、落ち着いた顔で、こちらを見ている。
けれど、その視線は私ではなく、凜ちゃんへ向けられていた。
凜ちゃんの頭へ置かれた、私の手。
つながれたままの、私たちの手。
それを順番に見ていた。
石橋の隙間から、黒い水が流れ出した。
「先生、何してるの?」
黒い水は石橋を伝い、池へ落ちる。
最初は細い筋だった。
けれど、すぐに池の色が変わり始めた。
透明だった水が濁る。
蓮の葉が縮れる。
水面に浮かんでいた花が、次々に色を失う。
「やめて」
凜ちゃんが立ち上がった。
「先生、やめてください!」
カエルの兵士が一人、胸を押さえて倒れた。
喉が大きく膨らむ。
息を吸おうとしている。
けれど、吸えない。
別の兵士が水路から這い上がろうとする。
指が石畳にかかる。
そのまま力が抜け、泥の中へ落ちた。
「苦しい……」
誰かが言った。
子どもの声だった。
オタマジャクシたちが、水面で激しく身体を振る。
カエルのお姫様が椅子から飛び降りた。
「みんな、陸へ!」
声を張り上げる。
けれど、足がもつれた。
ピンク色のドレスが泥に汚れる。
「先生!」
私も立ち上がった。
「止めて!」
すず先生は動かない。
手に何かを持っているわけでもない。
表情も変わらない。
ただ、黒い水だけが広がっていく。
「どうして?」
私が尋ねる。
先生はようやく口を開いた。
「気に入らないからよ」
凜ちゃんが息を呑んだ。
「何を……言っているんですか」
「あなたが、あまりにも楽しそうだから」
すず先生の声は静かだった。
「誰にも拒まれず、誰にも傷つけられず、好きな世界の中で守られている」
先生の視線が、私たちのつないだ手へ落ちる。
「ひよりに手を引いてもらって、頭を撫でてもらって、かわいいと言ってもらう。それを当然のように受け取っている」
「先輩が何をするかは、先輩が決めることです」
「分かっているわ」
「なら、どうしてこの子たちまで苦しめるんですか!」
「あなたが大切にしているからよ」
すず先生は迷わず答えた。
「あなたが笑うために必要なものなら、全部なくしてあげる」
「そんな理由で……」
「そんな理由で十分よ」
黒い水が、水路の奥まで流れていく。
倒れたカエルの数が増えていく。
「先生は、私が先輩にかわいがられているのが、そんなに許せないんですか」
凜ちゃんが尋ねた。
すず先生は、私たちのつないだ手を見ていた。
私に用があるのではない。
私の手を握っている凜ちゃんが、気に入らないのだ。
「ええ。許せないわ」
先生は迷わず答えた。
「ひよりは、あなたが少し困った顔をしただけで手を伸ばす。頬が汚れれば拭いて、頭を撫でて、かわいいと言う」
「それは、先輩が自分でしていることです」
「分かっているわ」
「私が頼んだわけではありません」
「それも分かっている」
すず先生の声が、わずかに強くなる。
「でも、あなたが受け取っていることは変わらないでしょう?」
黒い水が、水路の奥へ広がっていく。
また一人、カエルの兵士が倒れた。
「静香お姉さまもそうよ」
すず先生が突然、その名前を口にした。
凜ちゃんは静香ちゃんの話などしていない。
それでも先生は、ずっと胸の中にあったものがあふれ出したように続けた。
「あなたが作ったこの世界を守っている」
すず先生は、凜ちゃんを睨んでいた。
「あなたがここで傷つかないように。好きな物語の中で、ひよりと静かに暮らしていられるように」
「あなたの世界が壊れないように、外からずっと守っている。あなたがここでひよりと笑っていられるように、何も言わずに支えている」
すず先生の唇が歪んだ。
「どうして、あなたのためにはそこまでするの?」
「先生……」
「私にはしてくれなかった」
先生の声は凜ちゃんに向けられていた。
けれど、その言葉は、ここにはいない静香ちゃんへぶつけているように聞こえた。
「あなたは頼まなくても守ってもらえる」
黒い水が、さらに池をのみ込んでいく。
「ひよりにはかわいがられる。静香お姉さまには世界ごと守ってもらえる」
「私が、先生から何かを奪ったわけではありません」
「分かっているわ」
「なら、私を憎む理由にはなりません」
「理由になるかどうかなんて、どうでもいいのよ」
先生は冷たく言い切った。
「私は得られなかったものを、あなたは失わずに持っている。それが許せないの」
凜ちゃんは、すず先生をまっすぐ見返した。
「だから、この世界を壊すんですか」
「そうよ。静香お姉さまが大切に守っているものを、壊してみたかった」
その言葉は、凜ちゃんを傷つけるためだけのものではなかった。
すず先生は、この世界を守っている静香ちゃんにも、同じように傷をつけようとしているのだ。
「私を苦しめるためだけに?」
「あなたも、静香お姉さまもよ」
先生は静かに答えた。
「あなたが泣けば、静香お姉さまも困るでしょう?」
「この子たちは、先生に何もしていません!」
凜ちゃんが、苦しんでいるカエルたちをかばうように前へ出た。
すず先生は、その姿を冷たく見つめた。
「あなたが作った世界でしょう?」
「黙ってください」
「何度壊れても、また作ればいい」
「黙って!」
「池も、城も、カエルたちも」
すず先生の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「ひよりがあなたの隣で笑ってくれる限り、何度でも作り直せばいいでしょう?」
その声に正しさを主張する響きはなかった。
ただ、凜ちゃんを傷つけるためだけに言葉を選んでいた。
「好きにすればいいわ。私は何度でもあなたの世界を壊す。」
凜ちゃんが私を見る。
その目には涙がたまっていた。
「先輩は、ここが好きですよね?」
「凜ちゃん」
「カエルのお姫様も好きだと言ってくれました」
「うん」
「私もいます」
「うん」
凜ちゃんは笑った。
必死に、私が好きな凜ちゃんの顔を作ろうとしているような笑顔だった。
「ここなら、先輩の好きなものが全部あります」
「全部?」
「足りないものがあれば、作ります」
「私が嫌いなものは?」
「なくします」
凜ちゃんは、ためらわずに答えた。
「先輩が悲しまないように」
黒い水が、私たちの足元まで来ていた。
靴の先へ触れる。
冷たくない。
むしろ、ぬるかった。
「だから」
凜ちゃんが私の手を強く握る。
「ここにいてください」
背後で、カエルの兵士が倒れる音がした。
一人。
また一人。
カエルのお姫様の王冠が床へ落ちる。
曲がったまま、黒い水の上へ浮かんだ。
すず先生は、私を見ていなかった。
私が残るのか、帰るのかにも興味はないらしい。
ただ、凜ちゃんと、凜ちゃんが大切にしている世界だけを見ている。
「ひよりが残るなら、好きにすればいいわ」
すず先生が言った。
「それでも、私は壊すだけだから」
「どうして、そこまで」
凜ちゃんの声が震える。
「あなたが幸せそうだからよ」
先生は静かに答えた。
「ただの嫉妬じゃないですか」
「そうよ」
先生は少しも恥じなかった。
「最初から、そう言っているでしょう?」
私は凜ちゃんに握られた手を見た。
すず先生は、私の答えを待っていない。
私がここに残るのか。
凜ちゃんの手を離すのか。
そんなことは、先生にとって重要ではなかった。
私が凜ちゃんを選んでも、選ばなくても、先生はこの世界を壊す。
凜ちゃんが大切にされているという事実そのものが、許せないのだ。
そして、この世界を守っている静香ちゃんにも、その破壊を見せつけようとしている。
「私……」
言葉を出そうとした瞬間。
カエルのお姫様が、凜ちゃんの足元まで這ってきた。
もう立てないらしい。
緑色の手で、凜ちゃんの靴をつかむ。
「凜さん。子どもたちが……」
凜ちゃんはお姫様を抱き上げた。
「しっかりしてください。大丈夫です。私が何とかします。」
「凜さん」
小さな声だった。
「明日は……今日より……」
そこまで言って、動かなくなった。
凜ちゃんの腕の中で。
夢の中だと分かっているのに、凜ちゃんの悲鳴だけは、ひどく本物だった。




