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4月14日 選択肢「本屋の地下は昨日とは様子が違うように感じた」

 次の日。


 私たちは再び、駅前の本屋へ来ていた。


 昨日と同じ時間。

 昨日と同じ入口。

 店内には同じ静かな音楽が流れ、レジの奥には、同じように無表情な夜島さんが立っている。


「お待ちしておりました」


「今日は、本を見つけられるんだよね?」


 私が尋ねると、夜島さんは小さく頭を下げた。


「奥までたどり着くことができれば」


「昨日も、同じようなことを聞いた気がする」


「昨日は、途中でお戻りになりましたので」


 綾乃ちゃんの眉が、ぴくりと動いた。


「まるで、わたくしのせいだとおっしゃっているように聞こえますわね」


「そのようなことは申しておりません」


「顔が申しております」


「顔に感情を出さないよう努めております」


「それが余計に腹立たしいのです!」


「綾乃、店員さんに絡まないで」


 美羽が言った。


「美羽先輩は、昨日わたくしを散々責めたではありませんか」


「今日はまだ責めてないよ」


「まだ、ですわね」


「よく分かってるじゃん」


 すず先生が、二人へ冷たい視線を向けた。


「ここで喧嘩を続けるなら、地下へは行きません」


「喧嘩ではありませんわ」


「確認してるだけだよ」


「呼び方はどちらでもいいわ。静かにしなさい」


 私たちは夜島さんに案内され、昨日と同じ扉を抜けた。


 古い本や段ボール箱が積み上がった倉庫を通り、地下へ続く石の階段を下りていく。


 昨日、一度通った道だ。


 どこまで続いているのか知っているだけでも、少しは楽になると思っていた。


 けれど、階段は相変わらず長かった。


「まだかなあ」


「昨日と同じ長さよ」


 後ろを歩くすず先生が答える。


「一晩で短くなってない?」


「普通の階段は、一晩では縮みません」


「ここ、普通の場所じゃないよ」


「縮んでいたら、喜ぶ前に警戒しなさい」


 先生の前を綾乃ちゃんが歩き、そのさらに前を美羽が進んでいる。


 私は二人の間で、昨日の出来事を思い返していた。


 カエルの兵士たち。

 空間から現れた、綾乃ちゃんの剣。

 水源で、すず先生が水に流した何か。


 先生は、次に来るための準備だと言っていた。


 何をしたのか尋ねても、詳しくは教えてくれなかった。


 やがて階段が終わり、広い地下空間へ出た。


 正面には、美羽が拳で壊した灰色の壁が、そのまま残っている。


 ただ、その向こうに広がる景色は、昨日とはまるで違っていた。


「……え」


 私は足を止めた。


 昨日まで水をたたえていた水路から、ほとんどの水が失われている。


 底には黒い泥がこびりつき、その表面には細いひびが走っていた。蓮の葉は茶色く縮れ、石畳を覆っていた苔も白く乾いている。


 そして、水路の脇や石柱の根元、崩れた橋の上には、カエルの兵士たちが倒れていた。


 昨日、槍を手に私たちを追いかけてきた兵士たちだ。


 身体は動かない。

 大きく膨らんでいた喉も、今は力なくしぼんでいる。


 兜が外れ、乾いた泥の上へ転がっていた。


「死んでるのかな」


 私の声が、広い空間へ小さく響いた。


 誰もすぐには答えなかった。


 美羽が崩れた壁を越え、最も近くに倒れている兵士の前へ立つ。


 身体には触れず、少し離れた場所から皮膚や口元を観察していた。


 兵士の緑色の皮膚には、ところどころ黒い染みが浮かんでいる。開いた口の端には、乾いた泡のようなものが残っていた。


 美羽の顔から、いつもの軽い笑みが消えた。


「毒だよ」


「毒?」


「たぶん、水に入れられた」


 美羽は枯れた水路へ視線を移した。


「同じ水を飲んだ生き物が、まとめて死んでる。病気で、こんなふうに一度に倒れるとは考えにくい」


「何の毒か分かるの?」


「分からない」


 美羽はすぐに答えた。


「分からないから、近づかないほうがいい」


 その声は冷静だった。


 けれど、倒れた兵士たちを見る目には、はっきりとした嫌悪が浮かんでいた。


「最低」


「誰がしたんだろう」


「知らない」


 美羽は壁の外側へ戻った。


「でも、私はここから先には行かない」


「怖くなったの?」


 すず先生が尋ねる。


 わざと少し冷たくしたような言い方だった。


 美羽は先生を見る。


「挑発してる?」


「あなたなら、そのくらいで前へ進むかと思ったのだけれど」


「残念」


 美羽は鼻で笑った。


「私、毒は大嫌いなんだよね」


 すず先生の表情は変わらなかった。


「毒だから嫌なの?」


「それだけじゃない」


 美羽は、乾いた水路と倒れた兵士たちを顎で示した。


「姿を隠したまま水に混ぜて、誰が飲むかも気にせず、逃げ場のないところでまとめて殺す。こんなやり方を選ぶやつは信用できない」


「正面から戦うより、効率的ではあるわ」


「そういう考え方をする人間が嫌いなの」


 美羽の声が低くなる。


「何人死ぬかだけ数えて、どう死ぬかはどうでもいいと思ってる。自分は手を汚したつもりにもならない。そういうの、一番嫌い」


 すず先生は、それ以上何も言わなかった。


 綾乃ちゃんが、不安そうに二人を見る。


「美羽先輩、本当に行かないのですか?」


「行かない」


「ですが、本はこの先にあるのでしょう?」


「だから、別の人に取ってきてもらう」


「わたくしは?」


「綾乃も残る」


「昨日の失敗が理由なら、今日は――」


「それもある」


「やはり!」


「でも、今は毒のほうが問題」


 美羽は綾乃ちゃんへ向き直った。


「何の毒かも、どこまで残っているかも分からない。昨日、実戦で動けなかった綾乃を、そんな場所へ連れていく気はないよ」


「今日は剣を使えるかもしれませんわ」


「かもしれない状態で、毒の中には入れない」


 綾乃ちゃんは何も言い返せなかった。


 美羽は再び壁の向こうを見た。


「水には触らないほうがいい。乾いた泥も踏まないで。空気中に残る種類かどうかも分からないから、本当はひよりも行かせたくない」


「でも、私は行くよ」


「そう言うと思った」


 美羽は深く息を吐いた。


「だから、もう一人呼んでる」


「呼んでる?」


 そのとき、背後の長い階段から、小さな足音が聞こえてきた。


 ぺた。

 ぺた。

 ぺた。


 暗闇の中から、黒い身体が現れる。


 白い腹には赤いダイナマイト。

 嘴には、火のついていない太い葉巻。


 ダイナマイトペンギンだった。


「長い階段だな」


「どうしているの?」


 私が尋ねると、ダイナマイトペンギンは葉巻を嘴の端へ動かした。


「白石に呼ばれた」


「いつの間に?」


「昨日、寮へ戻る途中で頼んだの」


 美羽が制服のポケットから十円玉を一枚取り出し、親指で弾いた。


 硬貨は地下の薄暗い光を反射しながら飛び、ダイナマイトペンギンの翼へ収まる。


「十円」


「確かに」


 ダイナマイトペンギンは表と裏を確認し、腹巻きへしまった。


「仕事の内容は?」


「ひよりと先生を、この先まで護衛して。本も探してきて」


「案内は?」


「できる範囲で」


「危険手当は?」


「込み」


「毒があるぞ」


「だから頼んでる」


「十五円」


「十円」


「十二円」


「十円」


「……受けた」


 綾乃ちゃんが、呆れた顔で二人を見る。


「命に関わるかもしれない仕事を、十円で受けるのですか?」


「十円を笑うやつに、大金は扱えねえ」


「昨日、三百円をすべて失った方がおっしゃっても説得力がありませんわ」


「あれは失敗じゃねえ。未来への投資だ」


「景品は取れていませんでしたけれど」


「今日また稼ぐ!」


 ダイナマイトペンギンは、綾乃ちゃんから顔をそらした。


 美羽が私へ近づく。


「ひより」


「何?」


「水には絶対に触らないで」


「うん」


「泥も踏まない。身体が苦しくなったら、すぐに戻る」


「吸入器も持ってるよ」


「吸入器を使って進むんじゃなくて、戻るの」


「はい」


「咳が一度でも出たら?」


「戻ります」


 美羽はまだ何か言いたそうだった。


 けれど、結局は口を閉じ、すず先生へ視線を向けた。


「これ以上、余計な事しないでよね」


「あなたに言われなくても大丈夫よ」


 それでも美羽は、少しだけ安心したように見えた。


 すず先生は私とダイナマイトペンギンを見た。


「倒れている兵士や水路には近づかないこと。少しでも体調に変化があれば、すぐに引き返します」


「はい」


「俺は毒くらいで倒れねえ」


「あなたも勝手に動かないで」


「俺が護衛だぞ」


「十円で雇われた護衛でしょう」


「金額で仕事の質を判断するな」


 すず先生は、崩れた壁の向こうへ踏み出した。


     *


 私とすず先生とダイナマイトペンギンは、昨日まで水路だった場所の脇を進んだ。


 乾いた泥を避け、残っている石畳の上だけを歩く。


 足元では、枯れた苔が小さな音を立てた。


 倒れた兵士たちの間を通るたびに、胸の奥が重くなる。


「苦しかったのかな」


 私が呟く。


「毒の種類による」


 ダイナマイトペンギンが答えた。


「すぐ死ぬ毒もあれば、長く苦しむ毒もある」


「詳しいね」


「戦場じゃ、毒は珍しくねえ」


 すず先生は、倒れている兵士たちへ目を向けた。


 けれど、足を止めることはなかった。


「美羽には、何の毒か分かるかな」


「分からねえから残ったんだろ」


「美羽なら何でも分かると思ってた」


「分かるやつほど、分からねえものには近づかねえ」


 少し先を歩いていたすず先生が言った。


 枯れた水路の中央には、細い石の道が続いている。


 その先に、白い城が見えた。


 『カエルのお姫様』第三巻に描かれていた、池の王国の宮殿。


 本の中では柔らかく丸い塔だったけれど、実際に見るとずっと大きい。白い壁には枯れた蔦が絡まり、並んだ窓は暗く閉ざされている。


「あそこまで歩くの?」


「そうらしいな」


 ダイナマイトペンギンが答えた。


「遠いねえ」


「嫌なら戻れ」


「戻らないよ」


「そう言うと思った」


 私たちは城へ向かって歩き始めた。


 しばらく進んだところで、ダイナマイトペンギンがすず先生の背中を見上げた。


 先生は私たちより少し前を歩き、何度も足元や周囲を確認している。


「先生」


「何?」


「あんた、誰かを好きになったことはあるか」


 すず先生の足が、ほんの少しだけ遅くなった。


「突然、何を聞いているの?」


「恋をしている顔をしてるから、聞いただけだ」


「ただ、生徒を守る責任感のある教師の顔です。そんな質問に答える必要はありません」


「いるのか、いねえのか」


「相手が話したくないと言っているのに続けるのは、失礼よ」


「潔癖だな」


「常識的と言いなさい」


 すず先生は、それ以上答えなかった。


 背中はいつもどおり、まっすぐに伸びている。


 ただ、さっきより歩くのが少し速い。


「先生、怒った?」


 私が尋ねる。


「怒っていません」


「怒ってる声だねえ」


「桜庭さんまで、その話に加わらないで」


「先生は恋をしてるの?」


「今すぐ引き返したい?」


「進みます」


 すず先生は小さくため息をついた。


 隣で、ダイナマイトペンギンが満足そうにうなずいている。


「何か分かったの?」


「女は怒ると歩くのが速くなる」


「十円分の仕事をして」


「護衛してるだろ」


「敵、いないね」


「俺がいるから出てこねえんだ」


「そうなんだ」


「もう少し疑え」


 白い城は見えているのに、なかなか近づかなかった。


 かなり長い距離を歩いている。


 昨日は、長い階段を下りただけでも胸が少し重くなった。


 普段なら、これだけ歩けば息が切れる。


 喉の奥が狭くなり、胸が苦しくなる。途中で立ち止まり、何度か呼吸を整えなければならないはずだった。


 けれど、今日は違った。


 足は重くない。

 息も乱れていない。


 私は制服のポケットへ手を入れた。


 吸入器は、きちんと入っている。


 それでも、今日はまだ一度も使っていなかった。


「桜庭さん?」


 すず先生が振り返る。


「どうしたの?」


「苦しくない」


「それなら、いいことではないの?」


「うん。でも、変なの」


 私は自分の胸へ手を当てた。


 心臓は静かに動いている。


 試しに、ゆっくりと深く息を吸った。


 冷たい地下の空気が、肺の奥まで入ってくる。


 痛くない。

 咳も出ない。


 まるで、最初から病気ではなかったようだった。


「先生」


「何?」


「私、こんなに歩けたかな」


 すず先生の表情は変わらなかった。


 けれど、答えるまでに、ほんの少し間があった。


「この場所の影響かもしれません」


「この世界にいると、病気が治るの?」


「治ったと決めつけるのは早いわ。今は体調が安定しているだけかもしれない」


「でも、全然苦しくないよ」


「だからといって、無理はしないで」


「はあい」


 私はもう一度、深く息を吸った。


 やはり苦しくない。


 いいことのはずなのに、胸の奥が少し落ち着かなかった。


「ダイナマイトペンギン」


「何だ」


「未来では、私の病気は治る?」


 ダイナマイトペンギンは、すぐには答えなかった。


 葉巻を嘴にくわえたまま、前だけを見ている。


「聞こえなかった?」


「聞こえた」


「じゃあ、どうなの?」


「俺は医者じゃねえ」


「美羽なら分かるかな」


「分かっても、言わねえだろうな」


「どうして?」


「人間は、言いたくないことほど詳しい」


「それ、誰の話?」


「聞くな」


「今日はそればかりだねえ」


 ダイナマイトペンギンは答えなかった。


 白い城が、ようやく近づいてきた。


 大きな門は開いたままになっている。


 その奥には光がなく、中がどうなっているのかは見えない。


 すず先生が、私の前へ出た。


「ここからは、私より前へ出ないで」


「はい」


「ペンギンもよ」


「だから、俺が護衛だ」


「なら、私の指示に従いなさい」


「十円でそこまで要求するか」


「命に値段はつけられません」


「立派な言葉だな」


 すず先生は、暗い門の奥を見つめた。


 その横顔は冷たく、落ち着いている。


 枯れた池の向こうに立つ白い城は、私たちを待っているように静かだった。


 私は胸へ当てていた手を下ろした。


 苦しくないことが、少しだけ怖かった。


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