4月13日 選択肢「すず先生を加えた四人で本屋に行く」
放課後、駅前の本屋の前には、私と美羽、綾乃ちゃん、それからすず先生の四人が集まった。
空はまだ明るかったけれど、駅前の建物が長い影を落とし始めている。学校帰りの生徒や買い物客が、私たちの横を何事もなく通り過ぎていった。
目の前にあるのも、ごく普通の本屋だ。
大きなガラス窓。
入り口に積まれた新刊。
風に揺れている、文庫本フェアの旗。
昨日、奥にあんな店員がいたとは思えない。
「凜ちゃんには、やっぱり言わなくていいのかな」
私が尋ねると、美羽は店の看板を見たまま答えた。
「今日は言わない」
「静香ちゃんにも?」
「うん」
「あとで怒られない?」
「そのときは謝るよ」
謝る気がある人の声には聞こえなかった。
すず先生は会話を聞いていたが、教室で確認した以上のことは尋ねなかった。
綾乃ちゃんは小さな鞄を肩にかけ、落ち着かない様子で店内をのぞいている。
「本当に、ここで間違いありませんの?」
「昨日来たから、間違いないよ」
「見たところ、ごく普通の書店ですが」
「私も昨日はそう思った」
「その言い方が、すでに不安ですわ」
綾乃ちゃんは鞄の紐を握り直した。
「帰る?」
美羽が尋ねる。
「帰りません」
綾乃ちゃんはすぐに答えた。
「美羽先輩が来るようおっしゃったのでしょう」
「無理にとは言ってないけど」
「ここまで来て、わたくし一人だけ帰れるわけがありませんわ」
「まだ普通の本屋だよ」
「桜庭先輩がそうおっしゃると、余計に不安になります」
ひどい。
「中へ入りましょう」
すず先生が言った。
「ただし、私のそばを離れないこと。何かあっても、勝手に動かないで」
「はい」
私たちはそろって返事をした。
「返事だけは立派ね」
すず先生は小さく息をつき、先に本屋へ入った。
店内には、紙とインクの匂いが満ちていた。
レジの横には雑誌が並び、奥では店員が棚へ新しい本を差し込んでいる。昨日と変わらない、静かな本屋だった。
しばらく待っていると、棚の間から夜島さんが現れた。
「お待ちしておりました」
昨日と同じ、感情の読めない声だった。
「本は?」
美羽がすぐに尋ねる。
「この先にございます」
「昨日も、似たようなことを言ってたね」
「昨日は、明日もう一度お越しくださいと申し上げました」
「今日はその明日」
「そのとおりです」
夜島さんはそれだけ答えると、レジの奥へ回った。
本棚と壁の隙間に手を入れる。
小さな音がして、それまで壁の一部にしか見えなかった扉が開いた。
扉の向こうには、人が一人通れるほどの狭い通路が続いている。
照明はなく、奥は暗くて見えなかった。
「昨日も、ここへ?」
すず先生が美羽へ尋ねる。
「扉を見せられたところまで。中には入ってない」
「正しい判断ね」
「夜島さんに、明日来いって言われたから帰っただけだけど」
「結果が同じなら、今はそれでいいわ」
すず先生は懐中電灯を取り出した。
白い光が、床と壁を照らす。
壁は古く、ところどころ表面が剥がれていた。書店の裏側というより、長く使われていない地下道のように見える。
「夜島さん」
すず先生が呼び止める。
「昨日、この子たちに縄や非常食を用意させた理由を、先に説明してもらえるかしら」
「進んでいただければ分かります」
「危険があるということ?」
「何も起こらない方もいらっしゃいます」
「では、何か起こる人もいるのね」
「ございます」
夜島さんは否定しなかった。
すず先生の表情が、わずかに険しくなる。
「引き返したくなった場合は?」
「お戻りいただけます。ただし、同じ道が残っているとは限りません」
「分かりにくい説明ね」
すず先生は夜島さんをしばらく見つめた。
それから私たちを振り返る。
「ここから先は、私の指示に従って。少しでも無理だと思ったら戻ります」
「分かりました」
今度は、美羽も綾乃ちゃんも真面目な顔で答えた。
夜島さんを先頭に、私たちは通路へ入った。
そのすぐ後ろをすず先生が歩き、私たち三人が続く。
通路の先には、倉庫のような場所があった。
古い本や段ボール箱が、天井近くまで積み上げられている。通れる場所は狭く、肩を少し傾けなければ箱に触れてしまいそうだった。
その奥に、地下へ続く階段がある。
石造りの古い階段だった。
幅は狭く、一段ごとの角が大きく擦れている。下をのぞいても、暗闇の中へ消えていて、終わりは見えなかった。
「長そうだねえ」
「まだ一番下が見えませんわ」
綾乃ちゃんは階段をのぞき込み、すぐに顔を戻した。
「足元をよく見て」
すず先生が言う。
「手すりも古いわ。体重をかけすぎないように」
「先生、こういう場所に慣れてるね」
「初めてよ」
「初めてには見えない」
「生徒を連れている以上、慎重にしているだけです」
すず先生は懐中電灯で足元を照らし、階段を下り始めた。
私たちも一段ずつ、その後へ続く。
靴音が石壁に反響する。
下へ進むほど、駅前の音は遠ざかっていった。代わりに、水が落ちるような音が、どこかから聞こえ始める。
空気も少しずつ冷たくなった。
湿った土と苔の匂いがする。
「まだ?」
私は尋ねた。
「まだよ」
すず先生が答える。
「先生も終わりが分からないでしょう」
「桜庭さんが何度も聞くと思ったから、答えだけ決めておいたの」
「親切だねえ」
「黙って足元を見なさい」
後ろで、美羽が小さく笑った。
けれど、その表情はどこか硬かった。
昨日から何かを考え続けているときと同じ顔だ。
「美羽」
「何?」
「驚いてないね」
「まだ階段を下りてるだけでしょ」
「本屋の地下にしては、深すぎるよ」
「そうだね」
美羽はそれ以上、何も言わなかった。
やがて階段が終わった。
最後の一段を下りた瞬間、目の前の空間が大きく開ける。
地下とは思えないほど、広い場所だった。
懐中電灯の光を上へ向けても、天井には届かない。暗闇の奥から水の流れる音が響き、石造りの床には湿った苔が広がっている。
冷たい風が、どこからか吹き抜けていった。
「広い……」
綾乃ちゃんが小さく呟いた。
「この本屋の地下ではありませんわね」
「本屋そのものより大きそうだねえ」
「駅前一帯の地下まで続いているとしても、不自然な広さね」
すず先生は懐中電灯で壁や床を確かめている。
驚いていないわけではないはずなのに、声も動きも落ち着いていた。
夜島さんは何も説明せず、正面を指した。
私たちの前には、大きな灰色の壁が立っている。
左右の端は暗闇に隠れ、どこまで続いているのか分からない。高さも、光の届く範囲を超えていた。
「行き止まり?」
「先は、この向こうにございます」
夜島さんが答える。
美羽が壁の前まで歩いていった。
「扉は?」
「ございません」
「では、どうやって進むの?」
すず先生が尋ねる。
「壁を壊していただきます」
綾乃ちゃんが目を見開いた。
「誰がですの?」
「私」
美羽が答えた。
「白石さん」
すず先生の声が低くなる。
「何をするつもり?」
「言われたとおり、壁を壊す」
「方法を聞いているの」
「少し下がってて」
美羽は壁の前に立ち、右手を握った。
助走もつけず、そのまま拳を壁へ叩きつける。
鈍い音が、地下空間全体に響いた。
拳が当たった場所から、細い亀裂が伸びる。
一本だった亀裂が何本にも枝分かれし、次の瞬間、壁の一部が大きく崩れ落ちた。
砕けた石が床へ落ち、白い埃が立ち込める。
「美羽」
「何?」
「今の、何?」
「筋トレの成果」
「筋トレって、すごいんだねえ」
「桜庭先輩、信じるのですか?」
綾乃ちゃんが、信じられないものを見る顔で私を見た。
「でも、壊れたよ」
「筋力だけで壊れる壁ではありません!」
「美羽が強いのかも」
「そういうことにして」
美羽は手についた埃を軽く払った。
拳には傷一つない。
すず先生は崩れた壁と、美羽の手を交互に見た。
「その力については、戻ってから説明してもらいます」
「今じゃなくていいの?」
「今ここで問い詰めても、素直に答えるとは思えないもの」
「先生は私のことを分かってるね」
「喜ぶところではありません」
すず先生は壁の向こうへ光を向けた。
「崩れかけている場所には触れないで。足元にも気をつけなさい」
壁の向こうには、奇妙な景色が広がっていた。
浅い水路。
苔に覆われた石畳。
蓮の葉のような形をした足場。
遠くには、半分崩れた塔と、白い石碑が見える。
私は、その景色を知っていた。
「『カエルのお姫様』だ」
第三巻に描かれていた、池の王国。
ただし、本の中よりも暗く、古びていた。
水路を流れる水は濁り、石畳の隙間から伸びた草も枯れかけている。絵本の中にあった明るさはなく、国全体が長いあいだ放置されていたように見えた。
「巻末に描かれていた、北側の水路に似ていますわ」
綾乃ちゃんが呟いた。
「綾乃ちゃん、やっぱり読んだんだ」
「資料として確認しただけです」
「三巻まで?」
「必要な部分だけですわ」
「どこが必要だったの?」
「今は関係ありません!」
美羽が小さく笑った。
「相変わらず、隠すのが下手だね」
「美羽先輩には言われたくありませんわ」
「私は隠すときは上手だよ」
「自分でおっしゃらないでください」
私たちは、崩れた壁を慎重に越えた。
夜島さんは壁の手前に残り、それ以上ついてこなかった。
水路に沿った細い石畳を進む。
苔が濡れていて、足を置くたびに少し滑った。
「桜庭さん、ゆっくり」
すず先生が後ろから言う。
「転ばないよ」
「そう言う人ほど転ぶの」
「先生、私を信用してないねえ」
「信用しているから、転ぶ前に注意しているのよ」
前を歩いていた美羽が、突然足を止めた。
「何かいる」
水面が、ゆっくりと揺れた。
石柱の陰から、緑色の影が飛び出してくる。
人の背丈ほどもあるカエルだった。
丸い兜をかぶり、両手で短い槍を構えている。
「兵士だ」
私は思わず声を上げた。
『カエルのお姫様』に登場する、池の王国の兵士そのものだった。
一体だけではない。
水路の向こうから、さらに二体、三体と姿を現す。
カエルの兵士たちは喉を大きく膨らませ、低い声を発した。何を言っているのかは分からない。
槍先だけが、まっすぐこちらへ向けられていた。
「下がって」
美羽が言った。
肩にかけていた細長い袋を下ろし、中から刀を取り出す。
「そんなものまで持ってきたの?」
「準備をして来いって言われたから」
「普通は懐中電灯とか非常食だと思う」
「それも持ってるよ」
美羽は刀を鞘に入れたまま、綾乃ちゃんへ差し出した。
「綾乃」
「え?」
「お願い」
綾乃ちゃんは反射的に刀を受け取った。
けれど、両手で抱えたまま動かなかった。
「抜いて」
「美羽先輩」
「使えるでしょ?」
綾乃ちゃんは答えない。
目の前のカエルの兵士を見つめたまま、指が震え始めた。
やがて肩も、足も震えだす。
「綾乃ちゃん?」
「……動けませんわ」
一体の兵士が、石畳へ足を乗せた。
槍が近づいてくる。
「綾乃」
美羽が呼ぶ。
「無理です」
「構えるだけでいいから」
「無理ですわ……!」
綾乃ちゃんの声が裏返った。
美羽が短く息を吐く。
「分かった。もういい」
刀を受け取ると、綾乃ちゃんの腰へ片腕を回した。
そのまま、軽々と抱え上げる。
「きゃっ!」
「戻るよ」
「下ろしてください!」
「歩ける?」
「それは……」
「じゃあ、このまま」
「せめて、もう少し別の抱き方を――」
「今は気にしてる場合じゃないでしょ」
美羽は綾乃ちゃんを抱えたまま、来た道を走り始めた。
「桜庭さんも戻って!」
すず先生が言う。
「先生は?」
「私が最後に行くから、前だけ見て走りなさい」
私は美羽の後を追った。
背後で、大きな水音が続けて響く。
カエルの兵士たちが、石畳を跳びながら追ってきている。
崩れた壁までは、まだ距離があった。
私は一度だけ振り返った。
すず先生は足を止め、兵士たちの前に立っていた。
手には何も持っていない。
「振り返らないで!」
いつもより強い声だった。
私は前へ向き直る。
背後から、水が大きく跳ねる音がした。
何か重いものが石畳へ倒れる。
短い音が、もう一度。
それから、もう一度。
やがて、追ってくる足音は聞こえなくなった。
私たちは崩れた壁を越え、元の地下空間へ戻った。
美羽が綾乃ちゃんを床へ下ろす。
綾乃ちゃんは膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
顔から血の気が引いている。
「使えないね」
美羽が言った。
「刀を渡しただけで、動けなくなるなんて」
「……申し訳ありません」
「練習ではできてたでしょ」
「相手は動きませんでしたもの」
「だから、動く相手にも慣れないと」
「突然、本物を相手にさせないでください!」
「すぐに逃げる判断もできなかった」
「美羽先輩が、いきなり刀を渡すからでしょう!」
綾乃ちゃんは涙目になりながら、美羽を睨んだ。
そのとき、壁の向こうから、すず先生が戻ってきた。
歩く速さも、表情も、普段と変わらない。
呼吸さえ乱れていなかった。
紺色のジャケットの袖に、小さな水滴が一つついている。
「先生」
私は壁の向こうを見る。
カエルの兵士たちの姿はなかった。
「何をしたの?」
「もう大丈夫よ」
「全部倒したの?」
「今は、それだけ分かれば十分です」
すず先生の手には、やはり何もなかった。
服が汚れているわけでも、傷があるわけでもない。
何が起きたのか、まったく分からなかった。
美羽もしばらくすず先生を見つめていた。
やがて、口元を少し歪める。
「やば」
「何が?」
すず先生が尋ねる。
「何でもない。先生、やっぱりやばいね」
「褒めているのかしら」
「かなり」
「そう」
すず先生は照れも怒りもせず、壁の向こうを一度確認した。
「今日は、ここまでにします」
「先へ行かないの?」
私が尋ねる。
「行きません」
「でも、兵士はいなくなったんでしょう?」
「目の前の危険がなくなっただけです。その先まで安全だとは限りません」
すず先生は綾乃ちゃんのそばへしゃがんだ。
「神楽坂さん、立てる?」
「……はい」
綾乃ちゃんは答えたが、膝はまだ震えていた。
「無理をしなくていいわ」
「申し訳ありません。わたくしが足手まといになって」
「謝る必要はありません」
すず先生は、冷たい声のまま言った。
「自分が何を怖いと感じるのか、実際に直面しなければ分からないこともあります。今日分かったのなら、次にどうするかを考えればいいわ」
「ですが」
「今日は、ここまでです」
すず先生は立ち上がり、美羽を見る。
「白石さんも、それ以上責めないこと」
「事実を言っただけだよ」
「事実でも、今言う必要のないことはあります」
「はいはい」
「返事は一度」
「はい」
美羽は肩をすくめた。
「夜島さん」
すず先生が呼ぶ。
夜島さんは、少し離れた場所に立っていた。
私たちが逃げ戻ってきても、驚いた様子はない。
「今日は帰ります」
「本は、まだ先にございます」
「分かっています。それでも、今日はここまでです」
「次に来られた際にも、同じ道があるとは限りません」
「それでもよ」
すず先生は迷わなかった。
「この子たちを、無理に先へ進ませるつもりはありません」
夜島さんはしばらく先生を見つめた。
それから、小さく頭を下げる。
「承知いたしました」
「戻る道を案内してもらえる?」
「こちらです」
私たちは、長い階段へ戻ることになった。
美羽は刀を鞘へ収め、細長い袋の中へ戻す。
「美羽先輩」
綾乃ちゃんが呼んだ。
「何?」
「先ほどは……」
「謝らなくていいよ」
「でも、役に立てませんでした」
「役に立たなかったのは本当」
「やはり、謝らせたいのでしょう!」
「次は動いてね」
「次も来る前提ですの?」
「来ないの?」
綾乃ちゃんは口を閉じた。
来ないとは言えないらしい。
「ひより」
美羽が私を見る。
「何?」
「今日は残念だったね」
「本、見つからなかったねえ」
「壁はあったけど」
「美羽が壊した」
「筋トレの成果」
「まだ言うんだ」
「ひよりが信じてくれるかぎりはね」
美羽が笑った。
すず先生は、その会話を聞いても何も言わなかった。
地下に広がっていた『カエルのお姫様』の世界。
カエルの兵士。
美羽が壊した壁。
すず先生が、壁の向こうで何をしたのか。
分からないことは、来たときよりも増えていた。
それでも、今日は帰る。
そう決めたのは、冷たい声で、誰より親切な先生だった。




