4月13日 選択肢「世界史のすず先生にどこか懐かしさを感じた」
静香ちゃんのピアノを聞いたあと、私は教室へ戻った。
午後の授業が始まっても、あの激しい音が耳の奥に残っていた。
静香ちゃんは、凜ちゃんの書いた二つの物語を、まったく違うものとして見ていた。
カエルのお姫様は、凜ちゃんがきれいに整えた物語。
ダイナマイトペンギンは、凜ちゃんが隠しているものを、そのまま外へ出した物語。
どちらが本当の凜ちゃんなのだろう。
そんなことを考えながら、私は開いたままのノートを眺めていた。
「桜庭さん」
低く澄んだ声が聞こえた。
私は顔を上げる。
「はい?」
「何か書けた?」
教壇の前に、小日向すず先生が立っていた。
私はノートを見る。
日付の横に、丸が一つ描かれているだけだった。
「目玉焼きです」
「世界史の授業中に?」
「これから国旗になる予定でした」
「その国は、今日の授業には出てこないわね」
教室のあちこちから、小さな笑いが起きた。
「すみません」
「あとで、黒板を写しておきなさい」
「はい」
すず先生はそれ以上怒らず、教壇へ戻った。
肩まである黒髪を一つに束ね、白いシャツの上から細身の紺色のジャケットを着ている。女性としてはかなり背が高く、背筋を伸ばして立つ姿は、少し怖いくらい格好よかった。
「第一次世界大戦が終わると、戦勝国を中心に、新しい国際秩序が作られました」
白いチョークが、黒板の上を滑っていく。
すず先生の板書は少ない。
年号と国名、それからいくつかの矢印だけを書き、出来事のつながりは言葉で説明する。
どうしてその国が動いたのか。
何を恐れ、何を守ろうとしたのか。
すず先生の授業を聞いていると、教科書の中の国々にも、それぞれ事情があるように感じられた。
「戦争が終わったからといって、すべてが以前の状態へ戻るわけではありません」
すず先生が教室を見渡した。
「国境も、政治制度も、人々の生活も変わっています。戦争が終わることと、戦争が始まる前へ戻ることは、別の問題です」
私は、ダイナマイトペンギンの設定を思い出した。
戦争が終わり、家族のもとへ帰った。
けれど、戦場で生きることに慣れた自分だけが、元の暮らしへ戻れなかった。
静香ちゃんは、その設定を聞いただけで、カエルのお姫様より面白いと言った。
私はまだ、どちらが好きなのか決められずにいる。
「桜庭さん」
「はい」
「今度は何を考えているの?」
「授業のことです」
「本当に?」
「戦争が終わっても、元には戻らないんだなあって」
すず先生は少しだけ目を細めた。
「珍しく、きちんと聞いていたのね」
「珍しくは余計です」
「では、その調子で続きを聞いて」
「はい」
隣の席で、美羽が小さく笑った。
*
終業の鐘が鳴る。
すず先生が教材を閉じると、教室の空気が一気に緩んだ。
「今日はここまで。次回は国際連盟について扱います」
生徒たちが席を立ち、教室から出ていく。
私はノートを美羽のほうへ押した。
「あとで黒板を見せて」
「目玉焼きしか書いてないね」
「国旗になる予定だったんだよ」
「どこの国?」
「まだ建国されてない」
「じゃあ、世界史には出てこないね」
美羽は呆れた顔をしながら、自分のノートを私の机へ置いた。
すず先生は教卓の上で、プリントの端をそろえている。
「先生」
美羽が席を立った。
「少し相談してもいい?」
すず先生が顔を上げる。
「構わないけれど、長くなる?」
「たぶん」
「では、ほかの生徒が出てからにしましょう」
最後の生徒が教室を出るのを待って、すず先生は扉を閉めた。
午後の光が、誰もいなくなった机の上へ長く差し込んでいる。
廊下からは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえた。
「それで、何があったの?」
すず先生は教壇を下り、私たちの机の近くまで来た。
「昨日、ひよりと本屋へ行ったの」
美羽が話し始める。
「探している漫画があって、古い本を扱っている店を回ってた」
「漫画を探すだけなら、教師に相談する必要はなさそうね」
「普通の本屋ならね」
美羽は、昨日の出来事を順番に説明した。
店の奥にいた、夜島という店員のこと。
ダイナマイトペンギンについて尋ねたこと。
その名前を聞いた店員の態度が変わったこと。
そして、今日もう一度来るように言われたこと。
「持ってくるように言われたのは、身分証と懐中電灯と非常食。それから縄」
すず先生の表情が、話が進むにつれて険しくなっていった。
「そこで、どうして警察か学校へ相談しなかったの?」
「今、学校へ相談してるよ」
「昨日の時点で、という意味です」
「店からはちゃんと帰ったよ」
「帰ったのは当然でしょう」
すず先生は額へ手を当てた。
「それで、今日また行くつもりなの?」
「うん」
私が答える。
「ダイナマイトペンギンを見つけたいから」
「そのために危険な場所へ入るの?」
「まだ危険だと決まったわけじゃないよ」
「安全な本屋は、客に縄や非常食を用意させません」
それはもっともだった。
「探していた漫画は一冊だけ?」
すず先生が尋ねる。
「最初は二冊です」
美羽が答えた。
「『ダイナマイトペンギン』と『カエルのお姫様』。ただ、『カエルのお姫様』のほうは、凜ちゃんが持ってた」
「そう」
「先生も知ってるの?」
私が尋ねると、すず先生はうなずいた。
「読んだことはあるわ」
「好き?」
「ええ。優しい物語だと思う」
「静香ちゃんは、優しすぎるって言ってた」
「九条さんがどう感じたかは、九条さんに聞きなさい」
すず先生は静かに答えた。
それ以上、静香ちゃんや凜ちゃんのことを説明しようとはしなかった。
「今日、本屋へ行くのは二人だけ?」
「綾乃ちゃんも来るよ」
「神楽坂さんも?」
「美羽が誘った」
すず先生は美羽を見る。
「九条さんと水城さんには話していないの?」
「話してない」
「理由を聞いても?」
「今は、二人には知られないほうがいいと思ってる」
美羽は、すず先生の目を見て答えた。
「詳しい理由は、まだ言えない」
すず先生はしばらく黙っていた。
美羽が言いたくないことを、無理に聞き出すつもりはないらしい。
「分かりました」
すず先生は教卓へ戻り、置いてあった予定表を開いた。
「私も同行します」
「いいの?」
「よくはありません」
すず先生は予定表から目を上げた。
「ですが、事情を聞いた以上、生徒だけで行かせることはできません。放課後の仕事を片づけて、校門へ行きます」
「先生、親切だねえ」
「教師として当然のことです」
「行くのを禁止しないの?」
「禁止したら、あなたたちは黙って行くでしょう」
私と美羽は顔を見合わせた。
「行かないよね?」
「ひよりは行くでしょ」
「美羽も来るでしょう?」
「だから先生に相談したの」
すず先生が深いため息をついた。
「白石さんが相談してくれたことだけは評価します」
「だけ?」
「自分で危険な場所へ行こうとしている点は評価できません」
「厳しいね」
「当然です」
すず先生は予定表を閉じた。
「十七時に校門前へ集合。それまでは店へ近づかないこと。神楽坂さんにも伝えてください」
「分かりました」
美羽が答える。
「桜庭さんも」
「分かりました」
「今度は、きちんと聞いていたようね」
「私は先生の授業を真面目に聞く生徒です」
「ノートに目玉焼きを描く生徒でしょう」
「両立します」
「しません」
すず先生は教材を抱え、教室の扉へ向かった。
「私は職員室で必要なものを用意します。あなたたちも、制服のまま動き回らず、一度寮へ戻って準備をしてきなさい」
「はい」
すず先生が教室を出ていく。
扉が閉まると、美羽は窓のほうへ歩いた。
校庭を横切り、職員棟へ向かうすず先生の背中が見える。
「一緒に来てくれるって」
「そうだね」
「安心した?」
「少しだけ」
美羽は窓の外を見たまま答えた。
「でも、変だな」
「何が?」
「すずが先生になってること」
「先生なんだから、普通じゃない?」
「そうだね」
美羽は、いつものように笑った。
「今回のすずは、先生なんだね」
「今回?」
私が聞き返す。
「何でもない」
美羽は窓から離れ、自分の鞄を持ち上げた。
「寮に戻ろう。綾乃にも時間を伝えないと」
私は机の上に置かれた、美羽の世界史のノートを手に取った。
「これ、借りてもいい?」
「目玉焼きの続きを描かないならね」
「国旗だってば」
「まだ建国されてないんでしょ」
誰もいなくなった教室を出て、私たちは並んで廊下を歩いた。




