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4月13日 選択肢「静香ちゃんとカエルのお姫様の話をする」

 カチ。


 カチカチ。


 カチ。


「……朝だねえ」


 目を開ける前から、誰が何をしているのか分かった。


 ベッドの下をのぞく。


 予想どおり、ダイナマイトペンギンが銀色のライターを握っていた。


 腹に巻かれた赤い筒から伸びる導火線へ、何度も火をつけようとしている。


 カチ。


 やはり火はつかない。


「また安全装置に負けてる」


「今日はつく」


「昨日も言ってたよ」


「昨日の俺と今日の俺は違う」


「翼は同じだねえ」


「男は一晩で成長する」


「一晩中、どこにいたの?」


 昨日、凜ちゃんと『カエルのお姫様』を読んでいる途中から、ダイナマイトペンギンは姿を消していた。


「野暮用だ」


「ギャンブル?」


「違う」


「煙草を買いに?」


「違う」


「本屋で仕事?」


「質問が多い女だな」


 ダイナマイトペンギンは、またライターを鳴らした。


 カチ。


「朝からうるさいです!」


 向かいのベッドから、凜ちゃんが身体を起こした。


 一晩中漫画を読んでいたので、ほとんど眠っていない。黒い髪は乱れ、目の下にはうっすらと隈ができていた。


「先輩も、なぜ普通に会話しているんですか」


「目が覚めたから」


「無視して寝てください」


「もう朝だよ」


「まだ六時です!」


 凜ちゃんはベッドを下り、ダイナマイトペンギンの前へ立った。


「あなた、どうして戻ってきたんですか」


「俺がいたら悪いか」


「昨日、途中でいなくなったでしょう」


「用事が終わったから帰ってきた」


「もう役目を終えたのではなかったんですか」


「何を勝手に終わらせてる」


 ダイナマイトペンギンはライターを腹巻きへしまった。


「まだ夢は叶ってねえ」


 凜ちゃんの動きが止まった。


「……何の話ですか」


「言葉どおりだ」


「昨日、先輩は漫画を読んだでしょう」


「ああ」


「好きだと言ってくれました」


「ああ」


「なら、もう十分でしょう」


「夢は一つじゃねえ」


 凜ちゃんは何も言わなかった。


「ほかにも夢があるの?」


 私が尋ねる。


「知りません」


「凜ちゃんの夢なのに?」


「自分でも気づいていないことくらいあります」


「難しいねえ」


「朝から考えることではありません」


 凜ちゃんはカーテンを開けた。


 朝の光が部屋へ差し込む。


 机の上には、昨夜読んだ『カエルのお姫様』全三巻が並んでいた。


 曲がった王冠をかぶったカエルのお姫様が、朝日を受けて笑っている。


 ダイナマイトペンギンは三冊を一度だけ見てから、ベッドの下へ戻っていった。


「寝るの?」


「夜に備える」


「何があるの?」


「勝負だ」


「やっぱりギャンブルじゃないですか!」


 凜ちゃんの声が部屋に響いた。


     *


 昼休み。


 私は、久しぶりに静香ちゃんとゆっくり話したくなった。


 同じ学年でも、生徒会長の静香ちゃんはいつも忙しい。


 生徒会室へ向かったが、扉には鍵がかかっていた。


 それなら、いる場所は一つだった。


 音楽室へ近づくにつれて、ピアノの音が聞こえてくる。


 速く、強く、それでいて澄んだ音。


 扉を少し開ける。


 静香ちゃんが、グランドピアノの前に座っていた。


 背筋をまっすぐ伸ばし、白い指を鍵盤の上で走らせている。


 相変わらず、静香ちゃんの演奏は怖いくらいきれいだった。


 曲が終わる。


 最後の音が消えてから、静香ちゃんがこちらを振り返った。


「入ってくればよかったのに」


「演奏中だったから」


「最初から聞いていたでしょう?」


「途中からだよ」


「ひよりは昔から嘘が下手ね」


「凜ちゃんにもよく言われる」


 私は音楽室へ入り、ピアノの横へ立った。


「静香ちゃん、久しぶり」


「昨日も廊下ですれ違ったでしょう」


「ゆっくり話すのが久しぶり」


「そういう意味ね」


「抱きついていい?」


「駄目よ」


「まだ何もしてないのに」


「する前に止めているの」


 静香ちゃんは小さく笑い、鍵盤の蓋を閉じた。


「それで、今日はどうしたの?」


「昨日、凜ちゃんと『カエルのお姫様』を読んだの」


「そう」


 静香ちゃんは驚かなかった。


「静香ちゃんも知ってる?」


「もちろん」


「ダイナマイトペンギンも?」


「ええ。両方とも読んだわ」


「やっぱり、本当にある漫画なんだねえ」


「凜が見せてくれたのでしょう?」


「うん。三巻全部」


 静香ちゃんは少しだけ目を細めた。


「まだ大切に持っていたのね」


「凜ちゃんが持ってるって知ってたの?」


「いいえ。でも、あの子なら捨てられないと思っていたわ」


「静香ちゃん、凜ちゃんのこと詳しいねえ」


「そうかしら」


「ずっと隠してたよ。見せるときも、すごく恥ずかしそうだった」


「自分の好きなものを人に見せるのが、怖かったのでしょうね」


「恥ずかしいんじゃなくて?」


「それだけなら、あんなに長く隠さないわ」


 静香ちゃんの答えには、妙な確信があった。


「静香ちゃんは、どっちが好き?」


「ダイナマイトペンギンね」


 迷いのない答えだった。


「はっきり言うねえ」


「比べるなら、そうなるわ」


「カエル姫も面白かったよ」


「ええ。丁寧に作られているもの」


「じゃあ、どうして?」


「ダイナマイトペンギンのほうが、凜をそのまま表しているからよ」


「凜ちゃんを?」


「怒っていることも、寂しいことも、誰かに気づいてほしいことも、全部むき出しでしょう?」


「ダイナマイトを巻いてるもんねえ」


「ええ。乱暴で格好悪いけれど、凜が何を感じているのかは伝わるわ」


 静香ちゃんは少し考えてから続けた。


「でも、『カエルのお姫様』では、凜は自分をきれいに描きすぎているの」


「桃色のドレスと王冠?」


「それだけではないわ。凜は自分の気持ちを、優しくて、物分かりがよくて、誰も傷つけないお姫様に置き換えている」


「いい子だねえ」


「ええ。でも、それでは凜が本当に苦しんでいることが見えない」


 静香ちゃんの表情が、少しだけ寂しそうになった。


「自分の気持ちをきれいな物語の中へ隠してしまったから、読んだ人の心まで届かなかったのよ」


「ダイナマイトペンギンは届いた?」


「格好悪くても、本当の凜に近かったから」


 静香ちゃんは静かにうなずいた。


「だから、あちらのほうが人の心に残ったのだと思うわ」


「静香ちゃんは、凜ちゃんのことをよく分かってるねえ」


「分かっていたつもりだっただけよ」


「違うの?」


「もっと話をしてあげればよかったと思っているわ」


「凜ちゃんと?」


「あの子は、聞かれなければ何も言わないでしょう?」


「聞いても言わないよ」


「なら、何度でも聞けばよかったのよ」


「静香ちゃんが?」


「ええ」


「静香ちゃんがそこまで人に干渉するのって珍しいね」


 静香ちゃんは、ほんの少し黙った。


「私も反省するのよ」


 落ち着いた答えだった。


 けれど、長い時間を過ごしてきたような言い方にも聞こえた。


「それに、ひよりは凜を甘やかしすぎよ」


「私?」


「困っていれば抱きしめて、話したくないと言われれば、それ以上は聞かないでしょう?」


「嫌がることを無理に聞くのは、よくないよ」


「ええ。でも、凜はそれに甘えて、何も言わないままでいられるわ」


「凜ちゃんは甘えてるの?」


「ひよりにだけはね」


「それなら、うれしいけど」


 静香ちゃんは小さく息を吐いた。


「やっぱり、ひよりはひよりね」


「どういう意味?」


「そのままの意味よ」


 静香ちゃんは窓の外へ目を向けた。


 校庭では、生徒たちが昼休みを楽しんでいる。


 走る子。


 芝生に座る子。


 笑いながら食堂へ向かう子。


 どこにでもある、平和な昼休みだった。


「『カエルのお姫様』では、最後まで誰も池の王国を出なかったでしょう?」


「うん。みんな一緒に暮らすことにしたねえ」


「凜が好きなのは、そういう結末なのよ。誰も傷つかず、誰とも別れなくていい」


「優しい終わり方だと思うよ」


「ええ。とても優しい願いだわ」


 静香ちゃんは、窓の外で笑う生徒たちを見つめた。


「同じ場所に残り続ければ、前へ進まなくても済むのだから」


「前に進まないと駄目なの?」


「それを決めるのは、私ではないわ」


「じゃあ、静香ちゃんはどうするの?」


「凜が選んだ結末を、私から壊すつもりはない」


 静香ちゃんは穏やかに微笑んだ。


 漫画について話しているはずなのに、なぜか私たち自身のことを言われているような気がした。


 静香ちゃんは再びピアノの蓋を開けた。


「そろそろ練習へ戻るわ」


「まだ昼休みは残ってるよ」


「聞いていても構わないわよ」


「じゃあ、聞く」


 私は壁際の椅子へ座った。


 静香ちゃんが鍵盤へ手を置く。


「静香ちゃん」


「今度は何?」


「凜ちゃんが選んだ結末があるなら、静香ちゃんならどんな結末にする?」


 指が、鍵盤の上で止まった。


 ほんの一瞬。


「私の物語ではないもの。私が決めることではないわ」


「静香ちゃんの物語は?」


 静香ちゃんはしばらく答えなかった。


「私の物語なんて、ここにはないわ」


 そう言って、演奏を始める。


 力強く、正確で、何も迷っていない音だった。


 けれど、最初の一音だけが、少し震えていたような気がした。


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