4月12日 イベント「カエルのお姫様」
机の上に、『カエルのお姫様』全三巻が並んでいる。
どれも淡い緑色の表紙だった。
桃色のドレス。
少し曲がった王冠。
一巻では、カエルのお姫様が睡蓮の宮殿の前に立っている。
二巻では、大きな雨粒の下で傘を差している。
三巻では、蓮の葉の上から遠くに浮かぶ月を見上げていた。
「読むね」
「はい」
凜ちゃんは私の隣に座っている。
椅子を二つ並べ、机の前で肩を寄せていた。
一人では読まないでほしいと言われたので、凜ちゃんに見守られながら読むことになった。
「そんなに緊張しなくても」
「していません」
「背筋がまっすぐだよ」
「いつもです」
「手が膝の上で固まってる」
「行儀がいいだけです」
「瞬きしてる?」
「しています!」
凜ちゃんが顔を赤くした。
少し安心した。
私は一巻の表紙を開いた。
*
一巻では、カエルのお姫様が王冠を受け取るところから物語が始まった。
王様が冬眠に入り、お姫様が代わりに池の王国を守ることになる。
けれど、お姫様には特別な力がなかった。
高く跳べるわけでもない。
歌で雨を降らせることもできない。
大きな声で皆を従わせることもできない。
最初の仕事は、池の岸辺で喧嘩をしている二匹のカエルを仲直りさせることだった。
「最初から地味だねえ」
「王国にとっては重要な問題です」
「二匹とも、同じ石に座りたいだけだよ」
「その石に、それぞれ思い出があるんです」
「凜ちゃん、詳しいね」
「今、読みましたから」
二匹の言い分を聞いているうちに日が暮れ、結局、その日は何も解決しなかった。
お姫様は二匹の間へ座り、三匹で小さな石を分けて使った。
その帰り道、池へ落ちた。
「お姫様なのに泳げないの?」
「泳げます。驚いて落ちただけです」
「説明が早いねえ」
「読めば分かります」
一巻の終わりでは、お姫様が子どもをかばったときに王冠を踏まれてしまった。
王冠は少し曲がった。
けれど、お姫様は直さず、そのままかぶり続けた。
「新しい王冠をもらわないんだ」
「まだ使えますから」
「凜ちゃんみたい」
「どこがですか」
「物を大事にするところ」
「普通です」
*
二巻では、雨が降り続けた。
池の水が増え、低い場所に暮らす生き物たちは家を失った。
高い土地を持つカエルたちは、避難してきた生き物を受け入れたくないと言う。
食べ物にも、眠る場所にも限りがあるからだった。
お姫様は宮殿を開放した。
けれど、全員を入れることはできなかった。
そこで、お姫様は一軒ずつ家を回り、何匹なら受け入れられるかを尋ねていく。
断る者もいた。
怒る者もいた。
自分の家族だけで精いっぱいだと泣く者もいた。
お姫様は、誰も責めなかった。
「もっと命令すればいいのに」
「命令されても、できないことはあります」
「お姫様なのに?」
「お姫様だから、何でもできるわけではありません」
結局、お姫様は雨の中を歩き続け、熱を出して倒れた。
それを見た住民たちが、少しずつ自分たちにできることを始める。
空いている部屋を貸す者。
食べ物を分ける者。
濡れた服を乾かす者。
雨がやんでも、すべてが元どおりにはならなかった。
それでも、最後には皆で壊れた家を建て直していた。
「二巻も、完全には解決しないんだねえ」
「すべてを元どおりにするのは無理ですから」
「漫画なのに?」
「漫画でもです」
凜ちゃんはそう答えたあと、少しだけ俯いた。
*
三巻を開く。
最初のページには、池の王国の地図が描かれていた。
大きな池を中心に、睡蓮の宮殿、苔の森、オタマジャクシ学校、雨乞いの塔、乾いた川、冬眠評議会。
小さな文字で、それぞれの場所の歴史まで書かれている。
「すごいねえ」
「何がですか」
「地図が細かい」
「そうですね」
「最終巻から読む人には優しくない」
「一巻から読んだでしょう」
「そうだった」
三巻では、池の水位が急に下がる。
カエルのお姫様は、池の底に現れた古い石碑を調べるため、オタマジャクシの王子と泥棒アメンボのミズスマシ三世を連れて旅へ出る。
ところが石碑には、古代カエル語と新池語と、現在は使われていない北沼方言が混ざっていた。
さらに、王国では百年前に暦が一度変更されている。
石碑に書かれた「三度目の満月」が、今の暦でいつを示すのかを巡って、登場人物たちが十ページ近く議論していた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「よく分からない」
「まだ最初です」
「古代カエル語が読めない」
「私たちにも読めません」
「作者は読めるのかな」
「読めるように設定したのでしょう」
ページをめくる。
カエルのお姫様たちは石碑の謎を解くため、雨乞いの塔を目指す。
しかし途中で、苔の森を管理する苔組合と、川の使用権を持つヤゴ騎士団の争いに巻き込まれた。
苔組合は、池の水が減ったのはヤゴ騎士団が上流に堤を作ったからだと主張する。
一方のヤゴ騎士団は、堤を壊せばオタマジャクシ学校が水没すると反論した。
そこへ冬眠評議会の使者が現れ、百年前の条約を持ち出す。
「登場人物が多いねえ」
「多いですね」
「みんな似た顔だ」
「カエルですから」
「この人、さっきの人?」
「その方は評議会の書記です。先ほどの方は苔組合の会計係です」
「凜ちゃんは分かるの?」
「三巻ですから」
「答えになってないよ」
十ページほど戻る。
もう一度読む。
それでも分からないので、さらに最初まで戻った。
石碑。
暦。
水位。
堤。
条約。
冬眠評議会。
話はとても丁寧に作られていた。
適当に出てくるものが一つもない。
最初のページの地図も、登場人物が何気なく口にした昔話も、後の場面で意味を持つ。
けれど、何しろ分かりにくい。
大きな必殺技もない。
悪者らしい悪者もいない。
次のページをすぐにめくりたくなるような、派手な事件も少ない。
ダイナマイトペンギンが一ページに一度爆発しようとする漫画のほうが、流行りそうではあった。
「綾乃ちゃんが言ってたこと、少し分かるねえ」
凜ちゃんの肩がわずかに揺れた。
「……そうですか」
「一回読んだだけだと、何が起きてるか分からない」
「はい」
「子どもは途中で飽きそう」
「そうかもしれません」
「カエル姫も、あんまり格好いいことを言わないね」
「そうですね」
凜ちゃんの声が、だんだん小さくなっていく。
私は少し前のページへ戻った。
苔組合とヤゴ騎士団の話し合いが決裂し、双方が怒って帰ってしまう場面。
カエルのお姫様は、泥の中へ座り込んでいる。
その隣で、オタマジャクシの王子が尋ねる。
『お姫様なのに、何も解決できなかったね』
カエルのお姫様は、曲がった王冠を直しながら答えた。
『うん。でも、みんなが困っている理由は、少し分かったよ』
次のページでは、姫が森の子どもたちに泥団子の作り方を教えていた。
水が少なくても崩れないように、苔を細かく混ぜる。
子どもたちは喜び、大人たちが争っている間も、泥団子を転がして遊ぶ。
その泥団子が、後になって堤の小さなひびを見つけるきっかけになる。
「……あ」
「どうしました?」
「この泥団子、ここにつながるんだ」
「はい」
「遊んでただけじゃなかった」
「はい」
もう一度、最初から読み直した。
今度は、少しずつ分かった。
カエルのお姫様は、最初から石碑の謎を解こうとしていたわけではない。
誰が正しいのかを決めようとしていたのでもない。
水が減って不安になっている子どもたちを、少しでも安心させようとしていた。
苔組合にも事情がある。
ヤゴ騎士団にも事情がある。
昔の条約を守ろうとする評議会も、ただ意地悪なのではない。
誰か一人を悪者にすれば、話はもっと分かりやすかったはずだ。
お姫様が悪者を倒し、水を取り戻せば、きっとすっきりした。
でも、この漫画はそうしなかった。
お姫様は何度も間違える。
池へ落ちる。
泥だらけになる。
交渉にも失敗する。
それでも、怒っている相手の話を最後まで聞く。
泣いている子どもの隣へ座る。
失敗した人にも、やり直す場所を残す。
最後には、堤をすべて壊すのでも、そのまま残すのでもなく、皆で新しい水路を作ることになる。
大人たちが水路を掘る横で、子どもたちは泥団子を転がしていた。
一番最後のページ。
オタマジャクシの王子が、姫に尋ねる。
『池は、元どおりになるかな』
姫は答える。
『元どおりにはならないよ。でも、明日は今日より少しだけ泳ぎやすいかもしれないね』
そこで物語は終わっていた。
「終わった」
「はい」
「続きは?」
「ありません」
「四巻は?」
「出ていません」
「本当に三巻で終わりなんだ」
「……はい」
私は最後のページを、もう一度見た。
派手ではない。
続きが気になる終わり方でもない。
池の問題も、完全には解決していない。
それでも、子どもたちは笑っていた。
皆がすべてを我慢したわけでもない。
少しずつ譲って、少しずつ明日をよくした。
「好きだなあ」
私が言うと、凜ちゃんが顔を上げた。
「……何がですか」
「この漫画」
凜ちゃんは何も言わなかった。
「すごく分かりにくいけど」
「はい」
「一回だと全部は分からないし、登場人物も多いし、説明も長いし、たぶん子どもは途中で寝ちゃうけど」
「そこまで言わなくても」
「でも、子どもにも楽しんでほしかったんだと思う」
私は泥団子の場面を開いた。
「難しい話ばかりなのに、ちゃんと遊ぶところがあるでしょう?」
「……はい」
「カエル姫が池に落ちるところも、毎回ちょっと面白いし」
「二話に一回です」
「三巻では三回落ちてたよ」
「最終巻ですから」
「泣いてる子に、大人の事情を我慢しなさいって言わないのも好き」
凜ちゃんの唇が、かすかに震えた。
「悪い人を作らないのも、きっと優しいからだね」
「優しい……」
「うん」
私は表紙を撫でた。
「描いた人は、子どものことを馬鹿にしてないんだと思う。すぐには分からなくても、何度か読めば伝わるって信じてる」
凜ちゃんが俯く。
「売れなかったかもしれないけど、私はすごく好き」
机の上に、小さな雫が落ちた。
「凜ちゃん?」
返事はない。
もう一滴。
凜ちゃんの膝の上へ、涙が落ちる。
「どうしたの?」
「……何でもありません」
「泣いてるよ」
「泣いていません」
「それは無理があるねえ」
私が顔をのぞき込もうとした瞬間、凜ちゃんが椅子から立ち上がった。
そのまま、私へ抱きつく。
「わっ」
凜ちゃんの腕が、私の背中へ強く回った。
普段は私が抱きつくと、すぐに離れろと言う。
その凜ちゃんが、自分から私の肩へ顔を押しつけている。
「凜ちゃん」
「……はい」
「カエル姫が好きって言ったから?」
答えない。
「作者のお知り合い?」
答えない。
「実は凜ちゃんが描いた?」
「違います」
「そこは答えるんだ」
凜ちゃんの腕に、さらに力が入る。
「苦しい?」
「平気です」
「私じゃなくて、凜ちゃん」
「分かりません」
「悲しいの?」
「分かりません」
「うれしい?」
凜ちゃんはしばらく黙っていた。
「……分かりません」
声が涙で震えていた。
「理由、教えてくれないの?」
「今は、聞かないでください」
「うん」
私は凜ちゃんの背中へ腕を回した。
いつもとは反対だった。
朝は私が充電すると言って抱きつく。
今夜は、凜ちゃんが私から何かを受け取ろうとしている。
何を渡せばいいか分からなかったので、ただ、ゆっくり背中を撫でた。
「先輩」
「なあに?」
「もう少し、このままでいてください」
「いくらでも」
「それは困ります」
「じゃあ三十分」
「長いです」
「十分」
「……それくらいなら」
十分を過ぎても、凜ちゃんは離れなかった。
私も何も言わなかった。
しばらくして、ふとベッドの下を見る。
「ダイナマイトペンギンは?」
読み始めたときには、ベッドの下で競馬新聞を広げていた。
けれど、今は葉巻の先も見えない。
床にも、十円玉も競馬新聞も残っていなかった。
「さっきまでいたよね」
「はい」
「どこへ行ったんだろう」
「分かりません」
「気を遣ったのかな」
「あり得ません」
「ギャンブル?」
「その可能性のほうが高いです」
凜ちゃんはようやく身体を離した。
目が赤くなっている。
ハンカチを取り出し、涙を拭いた。
「目、冷やす?」
「大丈夫です」
「カエル姫みたいだね」
「どこがですか」
「泣いて、目の周りが少し赤い」
「カエルは泣いても赤くなりません」
「詳しい」
「一般常識です」
「池に落ちたとき、ドレスはどうやって乾かすの?」
「睡蓮の葉の上で日干しします」
「やっぱり詳しい」
凜ちゃんは、しまったという顔をした。
それから、小さく笑った。
*
私たちはベッドへ移動した。
すぐに眠るつもりだった。
けれど、凜ちゃんが王冠の曲がった理由を話し始めた。
「一巻で、子どもをかばったときに踏まれたんだよね」
「覚えていたんですか」
「さっき読んだから」
「先輩はすぐに忘れると思っていました」
「ひどいねえ」
「事実です」
そこから、話はどんどん関係のない方向へ進んだ。
カエル姫が人間の学校へ転校したら、体育は得意か。
オタマジャクシの王子に足が生えたら、靴は何足必要か。
池の国に梅雨休みはあるか。
ダイナマイトペンギンが出演したら、一話で追放されるか。
「池へダイナマイトを投げれば、魚が取れる」
「最低です」
「本人なら言いそう」
「カエル姫が本気で怒ります」
「凜ちゃんより?」
「私よりです」
「怖いねえ」
「カエル姫は怒ると、黙って相手を見ます」
「凜ちゃんと同じだ」
「違います」
消灯時間を過ぎた。
十二時を過ぎた。
一時になっても、話は終わらなかった。
「寝なくて平気?」
「先輩こそ」
「私は授業中に寝るから」
「駄目です」
「美羽が答えてくれる」
「自分で答えてください」
窓の外が、少しずつ明るくなる。
いつの間にか、鳥の声が聞こえていた。
「朝だねえ」
「……朝ですね」
「夜を明かしちゃった」
「先輩がくだらない話を続けるからです」
「凜ちゃんも答えてたよ」
「途中で止めると、先輩が気にするでしょう」
「優しいね」
凜ちゃんは返事をしなかった。
でも、もう泣いてはいなかった。
机の上には、『カエルのお姫様』全三巻が並んでいる。
三冊の表紙に描かれた姫たちは、曲がった王冠をかぶり、朝の光の中で笑っていた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「読ませてくれてありがとう」
凜ちゃんは目を伏せた。
「……読んでくれて、ありがとうございます」
その言い方が少し不思議だった。
まるで本を貸した人ではなく、ずっと誰かに読んでもらうのを待っていた人のようだった。




