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4月12日 選択肢「凜ちゃんに教科書を借りに行く」

  三時間目が始まる五分前。


 私は机の中を三回確認した。


 ノート。筆箱。昨日のプリント。関係のない詩集。飴の包み紙。


「ないねえ」


 次の授業で使う世界史の教科書だけが見当たらない。


「美羽」


「何?」


「世界史の教科書、貸して」


「次、私も世界史だよ」


「じゃあ、二人で一冊」


「先生に怒られるでしょ」


「美羽が全部答えれば大丈夫」


「大丈夫なのは私だけだよ」


 美羽は頬杖をついたまま、冷たく断った。


「凜ちゃんに借りてくる」


「二年生とは範囲が違うんじゃない?」


「表紙は同じだった気がする」


「中身で判断して」


「行ってきます」


「聞いてないね」


 私は教室を出た。


 二年一組の前まで来ると、教室の中央に人だかりができていた。


 その奥から、低く渋い声が聞こえる。


「――あのころの俺には、帰る場所があった」


 聞き覚えのある声だった。


 人垣の隙間をのぞく。


 教卓の上に、ダイナマイトペンギンが立っていた。


 腹には赤いダイナマイト。嘴には、火のついていない葉巻。


 片方の翼を背中へ回し、遠くを見るように窓の外を眺めている。


 教卓の前には、話を聞く二年生たちが集まっていた。


 その中に、凜ちゃんと綾乃ちゃんもいる。


 綾乃ちゃんは腕を組み、真剣な顔で聞いていた。


 一方の凜ちゃんは、机に伏せるようにして顔を隠している。頬だけでなく、耳まで真っ赤だった。


「何の話?」


 近くにいた生徒へ小声で尋ねる。


「ダイナマイトペンギン君の昔話。奥さんと息子さんがいるんだって」


「結婚してるんだ」


「静かに。今、いいところだから」


 教卓の上で、ダイナマイトペンギンが葉巻を外した。


「妻は、よく笑う女だった。息子はまだ小さくて、俺の腹に乗って遊ぶのが好きだった」


「かわいい……」


 誰かが呟いた。


 凜ちゃんは両手で顔を覆った。


「もう、やめてください……」


「凜ちゃん?」


「先輩は聞かないでください」


「どうして?」


「お願いですから……」


 声がひどく弱い。


 けれど、ダイナマイトペンギンは構わず続けた。


「戦争が始まるまでは、平凡な暮らしだった。朝には妻が魚を焼き、俺が寝坊した息子を起こす。夜には三人で食卓を囲んだ」


「ペンギンも魚を焼くんだねえ」


「先輩」


 凜ちゃんが顔を上げた。


 怒っているのではない。


 泣きそうなくらい恥ずかしそうな顔で、私を見ている。


「今は何も言わないでください」


「でも、気になって」


「自分で考えた設定を、本人の口からこんなふうに聞かされるなんて思わなかったんです!」


「凜ちゃんが考えたの?」


 凜ちゃんの動きが止まった。


「……違います」


「今、自分で考えたって」


「言っていません」


「言ったよ」


「聞き間違いです!」


 凜ちゃんは再び机へ顔を伏せた。


「忘れてください……」


 ダイナマイトペンギンは何事もなかったように話を続ける。


「だが、召集令状が来た。家族を守るため、俺は戦場へ向かった」


 教室が静かになった。


「怖くなかったの?」


 一人の生徒が尋ねた。


「怖かったさ」


 ダイナマイトペンギンは即答した。


「仲間を失った。昨日まで隣で飯を食っていた奴が、翌朝にはいなくなる。最初は、そのたびに泣いた。だが、いつからか何も感じなくなった」


 小さな翼が、腹に巻かれた赤い筒へ触れる。


「砲弾の音。導火線が燃える匂い。死の恐怖だけが、俺を生きている気分にさせた」


 私は、今朝の出来事を思い出した。


 ダイナマイトへ火をつけようとして、安全装置に阻まれていた姿。


 あれは単なる遊びではなかったらしい。


 凜ちゃんは机へ突っ伏したまま、小さく呻いた。


「そこまで全部言わなくても……」


「凜ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫ではありません」


「悲しいの?」


「恥ずかしいんです!」


 凜ちゃんは顔を伏せたまま答えた。


「昔考えた重い設定を、大勢の前で本人が真剣に語っているんですよ。耐えられるわけがないでしょう!」


「やっぱり凜ちゃんが考えたんだ」


 凜ちゃんがゆっくり顔を上げた。


「先輩」


「なあに?」


「今の話は、全部忘れてください」


「難しいかなあ」


「努力してください!」


「戦争が終わり、俺は家族のもとへ戻った」


 ダイナマイトペンギンの声が少し低くなった。


「妻は泣いて喜び、息子は俺の顔を忘れかけていた。暮らしは元に戻った。だが、俺だけが戻れなかった」


 教室の誰も話さない。


「静かな夜ほど戦場の音が聞こえた。平和な朝ほど、次に何かが起きる気がした」


 ダイナマイトペンギンは、腹の赤い筒を翼で叩いた。


「それでも、俺は家族のそばで生きることを選んだ。だから、戦場へ戻る代わりに、こいつを巻いた」


「家族の近くで巻いたら危なくない?」


 私が尋ねる。


 凜ちゃんが勢いよく顔を上げた。


「先輩!」


「でも、本当に危ないよ?」


「分かっています!」


「じゃあ、どうしてそんな設定にしたの?」


「当時は格好いいと思ったんです!」


 言った直後、凜ちゃんは口を押さえた。


「やっぱり凜ちゃんが考えたんだ」


「今のも忘れてください……」


「お前ら、いいところで現実的な話をするな!」


 ダイナマイトペンギンが教卓の上から怒鳴った。


 張り詰めていた教室の空気が、少しだけ緩む。


 綾乃ちゃんは真剣な顔のまま、ダイナマイトペンギンを見つめていた。


「つまり、そのダイナマイトは、単なる奇抜な意匠ではなかったのですね」


「そういうことだ」


「戦争によって傷ついた精神と、家族への愛情。その二つの間で生きるための装置だった」


「理解が早いな」


「それほど重要な設定が、なぜ原作では明らかにされなかったのでしょう」


 教室が静かになった。


「原作?」


 私が聞き返す。


 綾乃ちゃんの表情が止まった。


 凜ちゃんは、机へ額をつけた。


「神楽坂さん……」


「何ですの?」


「どうして原作と言ってしまうんですか……」


「別に、もう隠す必要もないのではなくて?」


「あります!」


 凜ちゃんが顔を上げる。


 頬も耳も真っ赤だった。


「本人が勝手に裏設定を語っているだけでも恥ずかしいのに、作品の話まで始めないでください!」


「裏設定なんだ」


 私が言うと、凜ちゃんは固まった。


「……違います」


「今、裏設定って言ったよ」


「言葉の綾です」


「綾乃ちゃんと同じ言い訳だねえ」


「お願いですから、これ以上拾わないでください……」


 凜ちゃんは両手で顔を覆った。


「どうして本人がいるんですか……。どうして勝手に設定を話すんですか……。昔のノートを教室で朗読されるよりひどいです……」


「俺の人生を昔のノート扱いするな」


「あなたが勝手にしゃべるからでしょう!」


 強い声を出したあと、凜ちゃんはすぐにまた顔を伏せた。


 怒っているのではなく、これ以上誰にも見られたくないらしい。


「それで、原作はあるの?」


 私が尋ねる。


「ありません」


 凜ちゃんは顔を隠したまま答えた。


「でも、綾乃ちゃんは、あるみたいに話してたよ」


「言葉の綾ですわ」


 綾乃ちゃんが平静を装って答える。


「どうして作者が出さなかったかまで気にしてたけど」


「仮に作品が存在した場合の考察です」


「ずいぶん詳しいねえ」


 綾乃ちゃんは少しだけ目をそらした。


「これほど重い過去を本編へ入れれば、夕方のアニメには不釣り合いだったのかもしれませんわね」


「夕方のアニメだったの?」


「神楽坂さん……!」


 凜ちゃんが机へ額を押しつけたまま呻く。


「余計な情報を増やさないでください……」


「ですが、三年間も放送された作品なら――」


「三年間だったことまで言わないでください!」


 言い終えたあと、凜ちゃんの動きが止まった。


 教室中の視線が集まる。


「凜ちゃんも知ってるんだ」


「知りません」


「三年間って」


「神楽坂さんが言ったからです」


「言う前に止めてたよ?」


「……偶然です」


「ダイナマイトペンギンの単行本は二十七巻?」


「仮定です」


「カエルのお姫様は三巻で打ち切り?」


「非常に現実的な予測ですわ」


 二人とも知らないと言う。


 けれど、知らない人の答え方には見えなかった。


 教卓の上で、ダイナマイトペンギンが葉巻を揺らした。


「本屋へ行けば分かるだろ」


 凜ちゃんと綾乃ちゃんが同時に振り返る。


「黙っていてください!」


「余計なことを言わないでくださいませ!」


「俺は親切で言ってるだけだ」


「本屋にあるの?」


 私が尋ねる。


「さあな」


「先輩、行く必要はありません」


 凜ちゃんがすぐに言った。


「どうして?」


「存在しない作品を探しても、時間の無駄です」


「なければ、ないって分かるよ」


「分からなくていいんです!」


 凜ちゃんは顔を伏せたまま、小さく付け加えた。


「もし本当にあったら、もっと恥ずかしいので……」


「どうして?」


「聞かないでください」


 そこまで言われると、余計に気になる。


 予鈴が鳴った。


 生徒たちが慌てて、自分の席へ戻り始める。


 ダイナマイトペンギンも教卓から飛び下りた。


 着地に失敗し、腹から床へ落ちる。


「ぐえっ」


「大丈夫?」


「戦場では日常茶飯事だ」


「ここは教室だよ」


 私はダイナマイトペンギンを起こした。


「先輩」


 凜ちゃんが立ち上がり、自分の机から世界史の教科書を取り出した。


「これを借りに来たのでしょう」


「そうだった」


「早く戻ってください。授業に遅れます」


「ありがとう」


 私は教科書を受け取った。


 表紙は私のものと同じだった。


「放課後、返しに来るね」


「寮で構いません」


「その前に本屋へ行こうかな」


 凜ちゃんの顔が引きつった。


「どうしてですか」


「ダイナマイトペンギンの原作を探す」


「ありません!」


「カエルのお姫様も」


「そちらもありません!」


「全部で三十冊なら、持って帰るの大変だねえ」


「巻数を信じないでください!」


 私は教室の扉へ向かった。


「先輩、本当に行かなくていいですからね!」


「はあい」


「その返事は信用できません!」


 廊下へ出る直前、綾乃ちゃんの声が聞こえた。


「ちなみに、戦場での階級は?」


「神楽坂さん、これ以上掘り下げないでください……!」


 凜ちゃんの力のない悲鳴が響いた。


 私は借りた教科書を胸に抱え、階段を上った。


 ダイナマイトペンギン。


 カエルのお姫様。


 同じ作者。


 二十七巻と三巻。


 三年間の夕方アニメ。


 存在しない作品についての想像にしては、二人とも詳しすぎる。


 放課後は、本屋へ行ってみよう。


 本当に原作があるなら、表紙を見れば分かるはずだ。


 なぜだろう。


 まだ見たこともないはずのその表紙を、私は以前にもどこかで見たことがあるような気がしていた。


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