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4月9日 選択肢「美羽は昨日と変わらない様子だった」

 一時間目と二時間目の間の休み時間。


 三年二組の教室では、次の授業までの短い時間を、それぞれが好きに過ごしていた。


 宿題を忘れたことに今さら気づいた子。


 友達の机に集まり、お菓子を交換している子。


 窓際で眠っている子。


 私は自分の席に座り、美羽の横顔を眺めていた。


 美羽は今日も勉強をしていない。


 机の上には教科書もノートもなく、淡い桃色の水筒だけが置かれている。


 頬杖をつき、窓の外を見ていた。


「美羽」


「何?」


「今、何を考えてるの?」


「いろいろ」


「便利な答えだねえ」


「便利だから使ってるの」


 返事はする。


 けれど、こちらを見ない。


「また肩揉んで」


「今は嫌」


「昨日は揉んでくれたのに」


「気が変わった」


「適当だ」


「そうかもね」


 美羽は小さく笑い、水筒を手に取った。


「それ、お酒?」


「ぶどうジュース」


「もう驚かなくなったね」


「同じ冗談を何度も聞けばね」


 そう言いながらも、蓋にかけた指が一瞬止まる。


 まだ少しだけ気にしているらしい。


 そのとき、廊下から低い声が響いた。


「どけどけ。働く男のお通りだ」


 教室の扉が開き、綾乃ちゃんが入ってきた。


 長い黒髪も制服も、今日もきれいに整っている。


 その後ろを、ダイナマイトペンギンがよたよたと歩いていた。


 腹には赤いダイナマイト。


 嘴には葉巻。


 背中には綾乃ちゃんのスクールバッグ。


 両翼には紙袋と水筒を抱え、頭の上には薄い詩集まで載せている。


「ダイナマイトペンギン」


 私は立ち上がった。


「何してるの?」


「見りゃ分かるだろ。労働だ」


「ずいぶん働いてるねえ」


「世の中、何をするにも金がいる」


「何に使うの?」


「勝負だ」


「勝負?」


「競馬、競艇、賽子、丁半。その他諸々」


「ギャンブルだ」


「男は一発当ててこそだ」


「未来から来て、最初にすることが賭け事なの?」


「未来じゃ賭場の連中に顔が割れてる」


「勝ちすぎたの?」


「そういうことだ」


「負けすぎたんじゃない?」


「黙れ」


 当然、クラスメイトたちは驚くと思った。


 ダイナマイトを巻き、葉巻をくわえたペンギンが、人間の言葉を話しながら教室へ入ってきたのだ。


 けれど、誰も騒がない。


「おはよう、ペンギン君」


「今日も大変そうだね」


「紙袋、破れかけてるよ」


「忠告、感謝する」


 ダイナマイトペンギンも普通に返事をしている。


「みんな、驚かないんだねえ」


 私が呟くと、前の席の子が振り返った。


「何に?」


「あの子。ダイナマイト巻いてるよ」


「そういう種類なんじゃない?」


「品種なんだ」


「かわいいよね」


 その子は納得して前を向いた。


 私は美羽を見る。


 美羽だけは、笑っていなかった。


 水筒を机に置き、ダイナマイトペンギンをじっと見ている。


「美羽、驚いてる?」


「驚くでしょ、普通」


「よかった。美羽は普通だ」


「ひよりにだけは言われたくない」


 綾乃ちゃんはダイナマイトペンギンの背中から鞄を下ろした。


「頭の上のものもお願いいたします」


「自分で取れ」


「あなたの頭の上ですわ」


「最初から自分で持てばいいだろ」


「報酬を受け取る以上、最後まで責任を持ってください」


 綾乃ちゃんはペンギンの頭から薄い本を取り上げ、私へ差し出した。


「桜庭先輩。先日はありがとうございました」


「あ、私の詩集」


 淡い水色の表紙に、白い花の絵。


 先週、綾乃ちゃんに貸したものだ。


「どうだった?」


「前半は好みでしたが、後半は少々感傷的すぎましたわ」


「厳しい」


「ただ、湖について書かれた一篇は美しかったです」


「私もそこが好き」


「でしたら、桜庭先輩にも最低限の文学的感性はおありなのですね」


「褒められてる?」


「最低限は」


 私は詩集を受け取った。


「それで、全部この子に運んでもらったの?」


「ええ。今朝、廊下で仕事を探していましたので」


「仕事は選ばねえ主義だ」


 ダイナマイトペンギンが翼を差し出した。


「報酬」


「分かっています」


 綾乃ちゃんは財布から十円玉を一枚取り出し、その翼へ載せた。


「確かに十円ですわ」


「十円で全部運んだの?」


「当初は百円でした」


 綾乃ちゃんが淡々と答える。


「荷物を落とすたびに、十円ずつ減額する契約でしたので」


「九回落としたんだ」


「悪徳雇用主!」


「落とさなければよかったのです」


「この翼で、どうやって全部持つんだ!」


「引き受けたのはあなたでしょう」


「百円あれば大勝負ができると思ったんだ!」


 ダイナマイトペンギンは翼の上の十円玉を見つめた。


「十円を笑う者は、十円に泣く」


「もう泣いてる?」


「まだ泣いてねえ」


「何に賭けるの?」


「まずは購買の前で、次に売れるパンを当てる賭場を開く」


「勝手に賭場を開かないでくださいませ」


 綾乃ちゃんが冷たく言った。


 ダイナマイトペンギンは十円玉を両翼で包み、慎重に腹巻きの中へしまった。


 ダイナマイトより丁寧に扱っている。


「大事そうだねえ」


「種銭だ」


「アニメになったら人気が出そう」


「またその話か」


「十円から億万長者を目指す、ダイナマイトペンギン」


「悪くねえ」


「毎回、最後に全部負けるの」


「ふざけるな!」


 教室の何人かが笑った。


 美羽だけは、ずっとダイナマイトペンギンを見ていた。


 その視線に気づき、ペンギンが美羽を見上げる。


「何だ、医者の女」


 美羽がゆっくり立ち上がった。


「昨日の話」


 声が低い。


「本当なの?」


 教室の騒がしさは変わらない。


 それでも、私たちの周りだけ空気が重くなったように感じた。


「どの話だ」


「分かってるでしょ」


「全部本当だ」


 ダイナマイトペンギンは迷わず答えた。


「証拠は?」


「まだ信じてねえのか」


「未来から来たという、ダイナマイトを巻いたペンギンを、簡単に信じる方がおかしいよ」


「周りの連中は信じてるぞ」


「疑問を持ってないだけ」


 美羽はペンギンの前まで歩いた。


「昨日言っていたもの、本当に持ってるの?」


「ああ」


「見せて」


「約束は?」


「先に見せて」


「疑り深い女だ」


 ダイナマイトペンギンは鼻を鳴らし、腹巻きの中へ翼を差し入れた。


 赤い筒の間を、ごそごそと探る。


「十円を落とさないでね」


 やがて、ペンギンは薄いアルバムを取り出した。


 手のひらより少し大きい。


 色褪せたクリーム色の表紙には、子どもが描いたような花の絵がある。


 特別なものには見えない。


 どこにでもありそうな、古い家庭用のアルバムだった。


「本当にあったんだ」


 美羽が小さく呟いた。


「美羽、知ってるの?」


 美羽は答えない。


 アルバムだけを見ている。


 さっきまで上の空だったのが嘘のように、意識のすべてをその一冊へ向けていた。


「誰から手に入れたの?」


「それは教えられねえ」


「盗んだの?」


「人聞きの悪いことを言うな。俺にもいろいろある」


「見た?」


「少しな」


「何が写ってたの?」


「子どものころの写真だ」


 美羽の顔が固まった。


「誰の?」


「自分で確かめろ」


 美羽がアルバムへ手を伸ばす。


 けれど、触れる直前で止まった。


「本物なの?」


「中を見れば分かる」


「私も見ていい?」


 私が尋ねると、美羽が即座に答えた。


「駄目」


「まだ受け取ってないよ?」


「それでも駄目」


「私の写真?」


「分からない」


「じゃあ、一緒に見ようよ」


「まだ駄目」


 美羽の声は強かった。


 自分でも気づいたのか、すぐに表情をやわらげる。


「ごめん。先に確認したいことがあるの」


「何を?」


「それも、まだ言えない」


 美羽はダイナマイトペンギンへ視線を戻した。


「これを渡す条件は?」


「昨日の約束を守ることだ」


「それだけ?」


「今のところはな」


 美羽は黙った。


 アルバムを受け取れば、何かを確かめられる。


 けれど、その答えを知ることを恐れている。


 そんな顔だった。


「約束は守る」


 やがて、美羽が言った。


「本当に?」


「うん」


「途中で我慢できなくなって暴れ出したりしねえか?」


 美羽の眉がわずかに動いた。


「私を誰だと思ってるの?」


「目的を達成するためなら平気で人を監禁する女だ」


「腹立つ」


「約束は?」


 美羽は一度目を閉じ、短く息を吐いた。


「守るよ」


 今度は、はっきりと言った。


 ダイナマイトペンギンがアルバムを差し出す。


 美羽は両手で受け取った。


 薄くて軽いはずなのに、とても重いものを渡されたように、慎重に胸元へ抱く。


「美羽」


「何?」


「そんなに大事なもの?」


「分からない」


「でも、大事そうに持ってる」


「落としたくないだけ」


「中、見るの?」


「うん」


「今?」


「今は見ない」


「怖い?」


 美羽は私を見た。


 一瞬だけ、ひどく疲れたような顔をする。


「……少しね」


 美羽が怖いと認めるのは珍しい。


「写真なのに?」


「写真だから」


 美羽はアルバムを鞄へしまった。


 その前に一度だけ、表紙を指で撫でる。


 懐かしんでいるようにも、触れることを嫌がっているようにも見えた。


「美羽の子どものころの写真なら、かわいいだろうねえ」


「私じゃないかもしれないよ」


「私?」


「さあ」


「綾乃ちゃん?」


 綾乃ちゃんが目を丸くする。


「なぜわたくしが?」


「美羽が気にする子どもの写真だから」


「白石先輩は、わたくしの幼少期の写真など何度も見ていますわ」


「そうなの?」


「部屋に飾ってあるからね」


 美羽がいつもの調子で笑う。


「七歳の綾乃、すごくかわいいよ。白いドレスを着て、ものすごく不機嫌そうな顔をしてる」


「勝手に説明しないでください!」


「今度見せて」


「見せませんわ!」


 綾乃ちゃんの顔が赤くなる。


 美羽は楽しそうに笑った。


 けれど、片手は鞄の上に置いたままだった。


 中のアルバムを、誰にも触らせないように。


「約束って何?」


 私が尋ねると、美羽の笑顔がわずかに止まった。


「ひよりに何にもしないこと」


「私に何かしたの?」


「何もしてないよ」


「本当に?」


「忘れて」


「簡単に言うねえ」


「忘れた方がいいこともあるよ」


 二時間目の予鈴が鳴った。


 教室に散らばっていた生徒たちが、それぞれの席へ戻り始める。


「俺も行くか」


 ダイナマイトペンギンが腹巻きを押さえた。


「購買?」


「賭場の下見だ」


「賭場はありませんわ」


「なら作る」


「学校で賭博を始めないでください」


「十円を百円にするだけだ」


「十円を零円にする未来しか見えませんわ」


「俺の勝負運を舐めるな」


「百円から十円になった方が、何をおっしゃっているのですか」


「それは労働だ!」


 ダイナマイトペンギンは胸を張り、教室を出ていった。


 腹巻きの中で、十円玉が小さく鳴る。


「次に購買で売れるパンを当てる賭け、一口十円だ!」


 廊下から声が響いた。


「賭場を開くのが早いねえ」


 私は笑った。


 美羽だけは笑わなかった。


 机の横に置かれた鞄。


 その中にある、薄いアルバム。


 美羽が昨日から考えていたことは、あの一冊に関係していたらしい。


「美羽」


「何?」


「中を見たら、教えてね」


 美羽は少し黙った。


「話せることならね」


 先生が教室へ入ってきた。


 美羽は教科書もノートも出さなかった。


 けれど、今度は窓の外も見ない。


 鞄の中のアルバムを意識するように、じっと机の一点を見つめていた。


 美羽は、あのアルバムを見つけたかったのだろうか。


 それとも、本当は存在してほしくなかったのだろうか。


 私には、まだ分からなかった。


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