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4月8日 選択肢「静香ちゃんを探さずに寮に戻る」

 最後の授業が終わった。


 先生が教室を出ると、部活動へ急ぐ生徒たちが一斉に立ち上がる。


 私は鞄へ教科書を入れながら、窓際の美羽を見た。


「美羽、帰る?」


「うん」


「予備校は?」


「今日は行かない」


「勉強しない日、継続中だねえ」


「たまにはいいでしょ」


 美羽は水筒を鞄へ入れた。


 結局、今日は一度も問題集を開かなかった。


「家族のこと、まだ考えてる?」


「別に」


「ハンバーグ?」


「違う」


「かわいい弟さん?」


「もっと違う」


 美羽は私の額を指で押した。


「ひよりは、凜ちゃんと帰るんでしょ」


「たぶん、待ってると思う」


「愛されてるね」


「美羽も綾乃ちゃんに待ってもらえばいいのに」


「綾乃は委員会」


「寂しい?」


「一人で帰れるよ」


 美羽はいつものように笑った。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 教室を出ると、廊下の壁際に凜ちゃんが立っていた。


 スクールバッグを胸の前に抱え、落ち着きなく周囲を見ている。


「凜ちゃん」


「先輩」


「待っててくれたの?」


「偶然です」


「二年生の教室は下の階だよ?」


「こちらに用事がありました」


 凜ちゃんは早口で答えた。


 その腕の中で、鞄がごそりと動いた。


「今、動いたよ」


「動いていません」


「鞄が?」


「見間違いです」


 もう一度、ごそごそと音がする。


 今度は、鞄の側面が内側から丸く膨らんだ。


「猫?」


「違います」


「犬?」


「違います」


「何が入ってるの?」


「何も入っていません!」


 凜ちゃんは鞄を両腕で締めつけた。


 中から、低い声が漏れる。


「ぐえっ」


 私は凜ちゃんを見た。


「今の、凜ちゃん?」


「私がそんな声を出すと思いますか!」


「じゃあ、やっぱり鞄だ」


「最近の鞄は、よく鳴るんです」


「便利だねえ」


「帰りますよ!」


 凜ちゃんは鞄を抱えたまま、早足で歩き始めた。


 階段を下りるときも、一段ずつ慎重に足を運んでいる。


 ときどき鞄の中から物音がすると、凜ちゃんは小声で「静かにしてください」と注意していた。


「誰と話してるの?」


「独り言です」


「鞄に向かって?」


「先輩より、よく話を聞いてくれます」


「少し負けた気分だ」


 凜ちゃんは私の相手をする余裕もないらしい。


 猫を見かけても、私の腕を引かなかった。


     ◇


 三〇八号室へ戻ると、凜ちゃんは鞄を自分の机の下へ押し込んだ。


 その前に椅子を置き、さらに毛布をかける。


「何も入っていない鞄に、厳重だねえ」


「先輩が信用できないからです」


「傷ついた」


「今までの行動を振り返ってください」


 凜ちゃんはタオルを手に取った。


「私は洗面所へ行ってきます」


「はあい」


「鞄には絶対に触らないでください」


「触らないよ」


「毛布もめくらないでください」


「うん」


「開けるのも禁止です」


「分かった」


 凜ちゃんは何度も振り返りながら、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私は自分の机に座り、古典の教科書を開いた。


 机の下から、ごそりと音がする。


 教科書を閉じた。


「苦しいのかなあ」


 これは凜ちゃんとの約束を破るためではない。


 中にいる何かを助けるためだ。


 私は毛布をめくり、椅子をどかした。


「こんにちは」


 返事はない。


 鞄の中で何かが動く。


「少しだけ開けるね」


 ファスナーを引くと、暗い隙間から丸い目が二つ現れた。


 私はそのまま鞄を開いた。


 中にいたのは、小さなペンギンだった。


 黒い背中に白い腹。


 ただし、その腹には赤い筒を何本も巻きつけている。嘴には太い葉巻までくわえていた。


「……凜ちゃんの趣味、変わったねえ」


「俺をぬいぐるみと一緒にするな」


 ペンギンが低い声で答えた。


「しゃべった」


「見りゃ分かるだろうが」


「見ただけでは分からないよ」


 ペンギンは鞄から這い出すと、偉そうに胸を張った。


「俺はダイナマイトペンギンだ」


「見たままだねえ」


「分かりやすさは大事だ」


 私は赤い筒へ手を伸ばした。


「それ、本物?」


「触るな!」


「危ないの?」


「俺の誇りだ」


「誇りをお腹に巻いてるんだ」


「細かいことを気にする女だな」


 ダイナマイトペンギンは葉巻を嘴の端へ移した。


「どうして凜ちゃんの鞄にいたの?」


「あの小娘に捕まった」


「凜ちゃんは小娘じゃないよ」


「朝から俺を追い回して、最後は毛布を投げてきたぞ」


 今朝、部屋が荒れていた理由が分かった。


「やっぱり猫じゃなかったんだ」


「俺のどこが猫に見える」


「凜ちゃんが、猫が紛れ込んだって」


「直後に否定してただろ」


「聞いてたの?」


「ベッドの下にいたからな」


 目覚まし時計が落ちていたのも、このペンギンのせいらしい。


「あなた、どこから来たの?」


「未来だ」


「未来」


「そうだ」


「何年後?」


「それは教えられねえ」


「未来の私は元気?」


「それも教えられねえ」


「凜ちゃんは?」


「質問が多いな」


「未来人に会ったら、普通だと思う」


 ダイナマイトペンギンは部屋を見回した。


 二つのベッド。


 凜ちゃんの整った机と、私の散らかった机。


 洗面台に並べられた薬。


 その目が、わずかに細くなる。


「今朝、美羽に会った?」


 私が尋ねると、ペンギンは私を見上げた。


「栗色の髪の女か」


「うん」


「少し話をした」


「どんな話?」


「家族に愛されているか、確かめたくはないかとな」


 今朝の美羽の様子を思い出した。


 親に愛されていると思うか。


 どうしてそう思うのか。


 母親のハンバーグと、音楽が好きな弟。


「美羽に何をしたの?」


「何もしてねえ。確かめる方法があると教えただけだ」


「どうしてそんなことを?」


「あの女が知りたがっていたからだ」


「美羽は、そんなこと言わないよ」


「口に出さなくても、顔を見れば分かる」


 ダイナマイトペンギンは葉巻をくわえ直した。


「俺は、知りたい奴に選択肢を渡しているだけだ。選ぶのは本人だ」


「怪しいねえ」


「よく言われる」


「凜ちゃんが隠したくなるのも分かる」


「俺の邪魔ばかりしやがる」


 廊下から足音が聞こえた。


「凜ちゃんが戻ってきた」


「まずい」


「鞄に戻る?」


「もう間に合わねえ。隠せ」


 私はダイナマイトペンギンを持ち上げた。


「冷たい」


「ペンギンだからな!」


「重い」


「ダイナマイトの分だ!」


 扉の取っ手が動く。


 私は慌ててペンギンをベッドの下へ押し込んだ。


 葉巻だけが外へ出ていたので、足先で中へ入れる。


「先輩」


 凜ちゃんが部屋へ入ってきた。


 開いた鞄。


 めくれた毛布。


 横へ動かされた椅子。


 凜ちゃんは順番に見たあと、私を見た。


「触りましたね」


「鞄には触ってないよ」


「開いています」


「中から開いたのかも」


「中にいるものを知っているじゃないですか!」


 凜ちゃんは慌てて鞄を確認した。


「いない……」


「何が?」


「何でもありません」


「ダイナマイトペンギン?」


 凜ちゃんの動きが止まった。


「どうして名前まで知っているんですか!」


「本人が名乗ったから」


「話したんですね!」


 ベッドの下から、低い声がした。


「隠し事が下手だな、小娘」


 凜ちゃんの顔が引きつる。


 ダイナマイトペンギンは、のしのしとベッドの下から姿を現した。


「先輩に近づかないでください」


 凜ちゃんは私の前へ立った。


「その人の話を信じてはいけません」


「未来から来たっていうのも嘘?」


「それは……」


 凜ちゃんは答えに詰まった。


「本当です」


「凜ちゃんも知ってたんだ」


「だから隠していたんです!」


 凜ちゃんはペンギンを睨んだ。


「美羽先輩にも余計なことを言いましたね」


「選択肢を渡しただけだ」


「あなたの選択肢は、人を傷つけます」


「知らないままなら傷つかねえとでも思ってるのか?」


「少なくとも、今は必要ありません」


 いつもの凜ちゃんとは違う、強い声だった。


 ダイナマイトペンギンも笑わなかった。


 二人は、私の知らないことを知っている。


 そして、同じものを見ながら、まったく違うことを望んでいるようだった。


「凜ちゃん」


「何ですか」


「この子、ここに住むの?」


「住ませません」


「俺も小娘の許可はいらねえ」


「では出ていってください」


「それも断る」


「仲がいいねえ」


「よくありません!」


 二人の声が重なった。


「とりあえず、寝る場所を決めようか」


「先輩は呑気すぎます!」


「生活は大事だよ」


「未来からペンギンが来たんですよ!」


「だから、明日の朝ご飯も必要でしょう?」


 ダイナマイトペンギンが葉巻を揺らした。


「お前は俺に驚かねえんだな」


「驚いてるよ」


「そうは見えねえ」


「でも、今ここにいるなら、お腹は空くでしょう?」


 ペンギンはしばらく私を見つめたあと、鼻を鳴らした。


「なるほどな。小娘はこういうところに惹かれたのか」


「余計なことを言わないでください!」


 凜ちゃんがペンギンの嘴を両手で塞いだ。


「むぐっ」


「先輩も相手にしないでください!」


「凜ちゃん」


「何ですか」


「放課後に戻ってきたよ」


 凜ちゃんの動きが止まった。


「朝、約束したでしょう?」


「……はい」


「だから大丈夫」


「何が大丈夫なんですか」


「凜ちゃんが一番心配してること」


 凜ちゃんは何も答えなかった。


 代わりに、私の制服の袖をそっとつかむ。


 ダイナマイトペンギンは嘴を解放すると、私たちを見上げた。


「今は、それでいい」


「何が?」


「こっちの話だ」


 ペンギンは窓の外へ目を向けた。


 夕暮れの空を、遠いものを見るように眺めている。


「俺は、止まった時間を動かしに来た」


 凜ちゃんの手に力が入った。


「余計なことをしないでください」


「もう始まってる」


 何が始まったのか、私は尋ねなかった。


 未来から来た、ダイナマイトを巻いたペンギン。


 朝から様子のおかしい凜ちゃん。


 家族のことばかり気にしていた美羽。


 分からないことは増えた。


 それでも、今夜から三〇八号室が少し狭くなることだけは確かだった。


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