4月8日 選択肢「美羽の様子がいつもと違うように感じた」
一時間目の古典が始まる三十秒前、私は三年二組の教室へ滑り込んだ。
「間に合ったあ」
「席に着くまでが登校だよ」
窓際の席から、美羽の声が返ってきた。
「厳しいねえ」
「ひよりに甘くしたら、一生遅刻するでしょ」
ふんわりと巻かれた栗色の髪に、長いまつ毛。制服のリボンは、校則に違反しないぎりぎりの緩さで結ばれている。
いつもどおり、かわいい。
ただ、机の上には何もなかった。
いつもなら開いている英単語帳も、問題集も、ノートもない。淡い桃色の水筒だけが置かれている。
「美羽、今日勉強しないの?」
「しないよ」
「美羽が?」
「私だって休むことくらいある」
「世界の終わりかな」
「大げさ」
美羽は笑ったが、すぐに窓の外へ視線を戻した。
「何か考え事?」
「少しね」
「何を?」
「いろいろ」
「便利な答えだねえ」
「人生はいろいろあるから」
「急に深くなった」
美羽は水筒を手に取り、一口飲んだ。
「それ、お酒?」
「あはは。ぶどうジュースだよ」
「ちょっと間があった」
「ないよ」
「怪しい」
「朝から教室で飲むわけないでしょ」
笑い方は、いつもの美羽だった。
けれど、笑い終わる前から、もう別のことを考えている顔に戻っていた。
先生が教室へ入り、私は急いで自分の席へ移った。
授業が始まっても、美羽は教科書を出さなかった。
頬杖をつき、窓の外を眺めている。
「白石さん」
先生に呼ばれても反応しない。
「美羽」
私が小声で呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「何?」
「先生が呼んでる」
「ああ、はい」
先生が教科書の一節を示した。
「この人物が、相手を責めるような言葉を口にしたのはなぜでしょう」
「本当に責めたいわけではないと思います」
美羽は教科書も見ずに答えた。
「残ってほしいと素直に言えないから、相手を悪者にして引き止めようとしているんです。自分から頼んで断られるのが怖いんでしょうね」
先生が少し驚いた顔をした。
「よく読めていますね」
「どうも」
美羽はそれだけ答え、また窓の外を向いた。
授業を聞いていなかったように見えたのに、答えだけは迷いがない。
登場人物の話ではなく、美羽自身のことを話しているようにも聞こえた。
◇
休み時間になると、私は美羽の前の席へ座った。
「美羽」
「何?」
「今日、ずっと上の空だよ」
「そう?」
「うん。魂が半分くらい窓の外にいる」
「残り半分は?」
「水筒の中」
「狭そうだね」
美羽は少し笑った。
それから、何でもないことのように尋ねる。
「ひよりって、親と仲いい?」
「仲いいよ」
「即答なんだ」
「うん」
「愛されてると思う?」
「思うよ」
美羽は頬杖をついたまま、私を見た。
「どうして分かるの?」
「二人とも優しいから」
「優しければ愛してるの?」
「うちは、そうだと思う」
「何か理由ある?」
私は少し考えた。
「お父さんは外交官で、今はお母さんと一緒に海外にいるんだけど、毎週電話してくれるよ」
「電話くらい、義務でもできるでしょ」
「今日の美羽、厳しいねえ」
「例えばの話だよ」
「お母さんが日本に帰ってくると、カレーを作ってくれる」
「カレー?」
「私が好きだから」
「それで愛されてるって思うの?」
「それだけじゃないけど、私が好きなものを覚えてくれてるのは嬉しいよ」
美羽は黙って、水筒へ目を落とした。
「美羽は?」
「何が?」
「お母さんの料理で、好きなもの」
「ないよ」
「一つも?」
「親の料理なんて嫌い」
「でも、何か一つくらい覚えてるでしょう」
美羽は少し黙った。
「……ハンバーグ」
「お母さんの?」
「よく作ってた。玉ねぎが多くて、少し固いの」
「おいしかった?」
「普通」
「好きだったんだ」
「別に。何度も食べたから覚えてるだけ」
美羽は顔を背けた。
「弟さんも食べてた?」
「食べてたよ」
「相変わらず、音楽ばかりやってるの?」
「うん。出来の悪い弟だからね」
「出来が悪いって、勉強?」
「勉強も運動も普通。何をさせても、あまり続かない」
「美羽が出来すぎるんじゃない?」
「私は出来て当然だから」
「弟さんは期待されてないの?」
「されてないね」
美羽の声は淡々としていた。
「私には医者になれとか、もっと上を目指せとか言うのに、あの子には好きなことをすればいいって」
「でも、音楽は続いてるんでしょう?」
「ギターだけはね。上手ではないけど」
「楽しそう?」
「楽しそうだよ」
美羽の口元が、ほんの少し緩んだ。
「家でずっと弾いてる。間違えても気にしないし、同じ曲ばかり何度も弾くし、うるさい」
「かわいいんだね」
「どうしてそうなるの」
「今、かわいい弟の話をする顔だったよ」
「違う」
「好きなんだ」
「好きじゃないよ」
「出来が悪くて、期待もされてなくて、音楽が好きで、かわいい弟」
「最後はひよりが足したでしょ」
「でも、違わないんだ」
美羽は立ち上がった。
「ひより、後ろ向いて」
「どうして?」
「肩を揉んであげる」
「急だねえ」
「肩が凝ってる顔をしてるから」
「どんな顔?」
「質問が多い患者の顔」
私は言われたとおり、美羽へ背中を向けた。
両肩に手が置かれる。
右を二回。
左を一回。
今度は肩甲骨の辺りを押された。
「美羽」
「何?」
「そこ、肩じゃないよ」
「身体は全部つながってるから」
「便利な医学だねえ」
今度は首の付け根を押される。
「そこは首」
「細かい患者だなあ」
「弟さん、最近も同じ曲ばかり弾いてるの?」
美羽の指に力が入った。
「痛い」
「凝ってるね」
「話をごまかしてる?」
「何の話?」
「ハンバーグと、かわいい弟」
「もっと凝ってるね」
「強く押せば黙ると思ってる?」
「黙ってくれると助かる」
「やっぱりごまかしてる」
美羽は私の肩から手を離した。
「はい、終わり」
「早いねえ」
「患者が言うことを聞かないから」
私が振り返ると、美羽はもう窓の外を見ていた。
「美羽」
「何?」
「お母さんのハンバーグ、本当は好きでしょう」
「嫌い」
「弟さんは?」
「嫌い」
「二人とも?」
「うん」
「そっか」
私はそれ以上聞かなかった。
美羽は少し意外そうに私を見る。
「何?」
「いや。ひよりなら、もっとしつこく聞くと思った」
「嫌いだって言ってる人に、好きだって認めさせても仕方ないでしょう」
「……そう」
「でも、ハンバーグがおいしかったことと、弟さんがかわいいことは、嫌いでも変わらないよね」
「聞いてた?」
「聞いてたよ」
「全然理解してないじゃん」
美羽は呆れたように笑った。
その笑顔は、いつもの美羽だった。
けれど、机の上には最後まで教科書も問題集も出されなかった。
美羽は桃色の水筒を両手で持ち、窓の外を眺めている。
お母さんのハンバーグ。
期待されていない弟。
誰かを好きか嫌いか。
美羽が何を迷っているのか、私には分からなかった。
ただ、嫌いだと言い切るたびに、美羽の声は少しだけ寂しそうに聞こえた。




