4月8日 選択肢「部屋の中にペンギンがいる気がする」
朝六時四十分。
寄宿舎三階のいちばん端、三〇八号室で、目覚まし時計が鳴り響いていた。
ただし、時計は枕元ではなく、ベッドの下にある。
「むう……あと五分……」
私は布団から腕を伸ばし、床を探った。
指先が時計に触れるより先に、ベッドの奥から、ごそごそと何かが動く音がした。
「ん?」
音が止まる。
私は薄く目を開けた。
向かいにある凜ちゃんのベッドは、きれいに整えられている。
けれど、部屋の中は妙に荒れていた。
椅子が倒れ、教科書が床に散らばっている。クッションは部屋の隅まで飛び、机の下には凜ちゃんの毛布が丸まっていた。
いつもなら、本一冊の傾きさえ許さない凜ちゃんの部屋とは思えない。
「凜ちゃん?」
「先輩、起きたんですか!」
机の向こうから、凜ちゃんが勢いよく顔を出した。
黒髪のツインテールに、幼い顔立ち。制服は着ているが、片方のリボンが少し緩み、息もわずかに乱れている。
「おはよう」
「はい。おはようございます」
怒られると思っていたのに、凜ちゃんはそれだけ言うと、床の教科書を急いで拾い始めた。
「あれ。散歩の約束は?」
凜ちゃんの手が止まった。
「……覚えているんですか」
「今、思い出した。約束した場面は思い出せないけど」
「そうですか」
「寝坊してごめんねえ」
「今日はもういいです」
あっさりしている。
約束の時間を三十分も過ぎているのだから、いつもの凜ちゃんなら、もう少し怒るはずだった。
そのとき、ベッドの下から再び音がした。
ごそごそ。
凜ちゃんが咳払いをする。
「ごほん!」
「今、何か動かなかった?」
「動いていません」
「でも、部屋もすごく荒れてるよ」
「少し物を落としただけです」
「少し?」
倒れた椅子。
散らばった本。
めくれた絨毯。
壁際には、なぜか枕まで転がっている。
「猫でも紛れ込んだの?」
「いいえ」
即答だった。
また、ベッドの下で何かが動く。
凜ちゃんのツインテールがぴくりと揺れた。
「でも、何かいるよね」
「……あっ、はい。紛れ込みました」
「猫が?」
「はい」
「どこ?」
「いえ、紛れ込んでいません」
「どっち?」
「どちらでもありません!」
凜ちゃんは拾った教科書をまとめて机に置いた。
今度はベッドの下から、こつん、と何かがぶつかる音がする。
私は布団から身を乗り出した。
「ちょっと見てみようかな」
「見なくて結構です!」
凜ちゃんが私の前に立ち、両手を広げた。
小柄な身体で、必死にベッドの下を隠している。
「凜ちゃん、何か隠してる?」
「隠していません」
「じゃあ、どいて」
「嫌です」
「隠してるねえ」
「いいから、早く支度をしてください!」
凜ちゃんは洗面台を指さした。
そこには、私のタオルと歯ブラシ、朝の薬が並べられている。
「散歩に寝坊したのに、怒らないんだね」
「怒っています」
「そうは見えないけど」
「今は、先輩を早く部屋から出すことの方が大事なんです」
「どうして?」
「食堂が混むからです!」
少し不自然だった。
けれど凜ちゃんが急かすので、私は顔を洗い、薬を飲んだ。
着替えている間も、ベッドの下から小さな音がする。
そのたびに凜ちゃんは咳をしたり、引き出しを大きな音で閉めたりして、ごまかしていた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「やっぱり何かいるよね」
「いません」
「ペンギンとか?」
凜ちゃんの動きが止まった。
「どうしてペンギンなんですか」
「何となく」
「いません!」
今までで一番強い否定だった。
「行きますよ、先輩」
「まだ髪が」
「そのままで大丈夫です」
「鞄が」
「私が持ちます」
「凜ちゃん、今日はずいぶん強引だねえ」
「先輩が遅いからです!」
凜ちゃんは私の鞄を持ち、背中を押して部屋の外へ出した。
扉を閉める直前、部屋の中から、またごそごそと音がした。
「やっぱり何か――」
「行きましょう!」
凜ちゃんは扉に鍵をかけ、そのまま私の袖をつかんで歩き出した。
◇
私たちが校舎へ着いたころには、始業まで二十分を切っていた。
凜ちゃんは寄宿舎を出てからずっと、私の制服の袖を握っている。
「凜ちゃん、今日は積極的だねえ」
「先輩が寄り道しないようにです」
「学校まで一本道だよ」
「それでもです」
「離れたら?」
「嫌です」
答えたあと、凜ちゃんは顔を赤くした。
「先輩が迷子になると困るという意味です!」
「私は迷子にならないよ」
「昨日も温室へ寄り道したでしょう」
「あれは花を見てただけ」
「今日は何があっても寄り道禁止です」
「猫がいても?」
「駄目です」
「ペンギンがいても?」
凜ちゃんの足が止まった。
「……いません」
「何が?」
「ペンギンです!」
「私は学校にいるかどうかを聞いたんだけど」
「とにかく、いません!」
分かりやすい。
けれど、これ以上聞くと本気で困りそうなので、私は黙って歩くことにした。
昇降口で靴を履き替えたところで、別のことに気づく。
「凜ちゃん」
「今度は何ですか」
「英語の教科書、部屋に忘れた」
凜ちゃんは鞄から予備の教科書を取り出した。
「どうぞ」
「用意がいいねえ」
「先輩が忘れると思ったので」
「このやり取り、前にもした気がする」
「先輩が何度も忘れているからでしょう」
「そうかなあ」
「そうです」
凜ちゃんはきっぱり答えた。
けれど、私が今日教科書を忘れることを、最初から知っていたようにも見えた。
「凜ちゃん」
「何ですか」
「好き」
「……っ!」
凜ちゃんは真っ赤になり、教科書を私の胸へ押しつけた。
「大声で言わないでください!」
予鈴が鳴った。
二年生の教室へ向かう廊下と、三年生の教室へ向かう階段。
その分かれ道で、凜ちゃんはようやく私の袖を離した。
「先輩」
「なあに?」
「放課後、必ずここへ戻ってきてください」
「生徒会に捕まらなければ」
「必ずです」
「分かった。約束」
「今朝の約束みたいに、忘れないでくださいね」
「今度は大丈夫」
凜ちゃんはまだ不安そうだった。
「凜ちゃんも、私がいなくて寂しくても泣かないように」
「泣きません!」
ようやく、いつもの返事が返ってきた。
私は手を振り、階段を上る。
今日もきっと、いつもと同じ一日になる。
ただ、三〇八号室に何が紛れ込んだのかだけは、少し気になった。




