IFエンド【美羽監禁エンド】 イベント「凜と静香」
保健室の扉の向こうから、先輩の声が聞こえた。
「私は大丈夫だよ。だから、先に帰ってて」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
けれど、凜には分かった。
大丈夫なはずがない。
美羽が何をしようとしているのかは、扉の外からでは見えなかった。それでも、先輩を寮へ帰すつもりがないことだけは分かった。
「本当に、大丈夫なんですね」
「うん。美羽が一緒にいてくれるから」
その言葉を聞いた瞬間、凜の胸の奥が冷たくなった。
先輩は、美羽を信じている。
自分が怖くても、美羽には事情があるのだろうと考えている。
そうして、いつものように自分の気持ちを後回しにした。
「……分かりました」
凜は、それ以上何も言えなかった。
助けてほしいと言われていない。
無理やり扉を開けていいのか分からない。
それに、先輩の記憶が戻り始めているのなら、美羽のしていることが完全に間違いだとも言い切れなかった。
先輩が全部を思い出せば、この世界は終わる。
また、先へ進んでしまう。
凜は扉から離れた。
保健室の中から、鍵の触れ合う小さな音が聞こえた。
廊下を歩き始めても、足元が頼りなかった。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま、気づけば音楽室の前まで来ていた。
中から、ピアノの音が聞こえる。
静かで、迷いのない旋律だった。
凜は扉を開けた。
「静香先輩」
音が止まった。
ピアノの前に座っていた静香が振り返る。
「凜」
静香は一目見ただけで、何かがあったと分かったらしい。
何も尋ねずに立ち上がり、凜の前まで歩いてきた。
「どうしたの?」
「先輩が……」
そこまで言ったところで、声が詰まった。
静香は凜の肩へ手を置いた。
「ひよりに何かあったのね」
「美羽先輩が、保健室から帰さないって」
「ひよりは?」
「大丈夫だから帰ってって、言いました」
「そう」
静香の声は変わらなかった。
責めることも、驚くこともなかった。
「それで、凜はどうしたいの?」
「……分かりません」
凜の目から涙が落ちた。
「美羽先輩が、先輩にあんなことをするのはおかしいと思います。先輩が嫌だって言えなくても、閉じ込めていいはずがないです」
「そうよね」
「でも……」
凜は制服の裾を握った。
「先輩の記憶が戻るのも困るんです」
静香は黙って聞いていた。
「全部思い出したら、先輩はまた先へ進んでしまいます。この世界を出て、私たちを置いていってしまう」
「そうよね」
否定されなかった。
そんなことを望んではいけないとも、先輩の自由を奪うなとも言われなかった。
静香は、どちらの気持ちにも同じようにうなずいた。
「美羽先輩のすることは止めたいです。でも、先輩には思い出してほしくない。私は……どうしたらいいんですか」
「今すぐ決めなくてもいいわ」
静香が凜を抱きしめた。
凜の小さな身体を、腕の中へすっぽりと包み込む。
「静香先輩……」
「怖かったわね」
その一言で、凜は静香の制服を強くつかんだ。
「私は、間違っていますか」
「いいえ」
「でも、先輩を閉じ込めておきたいと思ってるんです」
「そうね」
「そんなの、ひどいでしょう」
「ひどいかもしれないわ」
静香は、それでも凜を離さなかった。
「でも、それが今のあなたの気持ちなのなら、まずは自分で否定しないことね」
「否定しない?」
「ひよりを助けたい。けれど、失いたくない。美羽を止めたい。けれど、記憶は戻ってほしくない。全部、本当なのでしょう?」
凜は静かにうなずいた。
「なら、どれか一つを無理に嘘にする必要はないわ」
静香は凜の髪をゆっくり撫でた。
「時間をかけて考えなさい。美羽がどうしたいかでも、ひよりがどうしたいかでもない。凜自身が、本当はどうしたいのかを」
「私が……」
「ええ」
静香は少し身体を離し、凜の顔を見た。
「あなたの望みが決まったら、私に言いなさい」
「でも……」
「大丈夫よ」
「美羽先輩や、綾乃さんが何かするかもしれません」
静香の表情から、笑みが消えた。
声は穏やかなままだった。
けれど、音楽室の空気が一瞬で張り詰めた。
「大丈夫よ」
静香は、もう一度凜を抱き寄せた。
「私が守るから」
優しい言葉だった。
それなのに、凜は少しだけ息を呑んだ。
それは、凜が何を望んでも、それを実現できると信じている声だった。
「決めたら、言いなさい」
静香の腕に力がこもる。
「私が何とかしてあげる」
凜は静香の胸元に顔を埋めた。
何を望めばいいのかは、まだ分からなかった。
それでも今だけは、泣いてもいいのだと思えた。




