・ギア/フィフス 千年妖狐と魂葬者・参――追憶少年/円環輪廻の五百年、約束を今此処に――
――妖狐と喜逸の出会い。
そして過ごした夢のような一か月。
沢山の物をお互いに贈りあって、お互いの初めてを沢山経験した。
そうして喜逸から物語を贈られ言葉を覚えた少女に、喜逸はもう一つ贈り物をしていた。
「――ヒガナ」
「ひがな?」
「そう。初めてヒガナを見つけた時、倒れるきみの近くに白い彼岸花が一輪だけ咲いていたんだ。だから、ヒガナ。白く燃える情熱の炎、それがきみの名前。ずっと考えてたんだ」
「ぼくの名前……名前? ぼくの名前を、きーつが?」
「うん。だって、いつまでも『きみ』って呼ぶのもなんか味気ないでしょ? だから、今更感は凄いけど、言葉も覚えたし丁度いいかなって思って……もしかして、いや、だったかな?」
喜逸としては自信のある名前だったのだが、相手が気に入ってくれなければ意味がない。
今更そんな当然の事に気が付いて、不安そうに少女の反応を伺う喜逸。
俯く少女の表情は喜逸からは確認できなくて、だから喜逸は下から彼女の顔を覗き込もうとして、
ボロボロと。
少女の瞳から零れた大粒の涙が、苔の地面に吸い込まれて消えていくのを見た。
「うぁ、ひっぐ……ぁ、ぐずっ、……うぅ、ああ、ぐぅ、ああああぁぁああぁああああ……っ」
「あぁ……ごめん! そんな、泣かせるつもりなんて、ぼく――」
しゃくりをあげて泣き出す少女に、喜逸はどうすればいいか分からず狼狽し、オロオロと慌てる事しかできない。
そんな情けない喜逸の謝罪を、少女は慟哭のまま首を振って否定する。
「――ちがうっ、ちがうんだぁ。ぼ、ぼぐ……っうぐ、名前、なんてっ、もらえるって思わながっだがら。だがら、嬉しくて。此処にいていいよって、ひぐっ、認めてもらえだみたいで……だがらあっ、うぅ、あああぁあぁああぁぁああ……っ。きーつ、ありがどぉおおぉおおっっ」
人間に憧れを持ったが故に同じ怪異からは疎まれ続け、怪異の主だと騒がれ百年妖狐などと大層な名前で呼ばれて人からは恐れられ、常に他者からその身を狙われ続けていた彼女にとって、己以外の全ては敵でしかなかった。
ありとあらゆる世界に拒絶され、否定され続けた五百年。
自分という存在を肯定してくれる他者がいるなんて今まで考えた事もなかったのだ。
だから。
自分だけの唯一無二の呼び名を、名前を人から与えられるという事が、そのままこの世界に存在する事を許され、認められたように思えて。
ただそれだけの事が、ずっと孤独だった少女の心を壊れる程に優しく温かく抱きしめてしまったのだ。
「――いいに決まってる。決まってるよ、ヒガナ。きみはこの世界にいてもいいんだッ」
喜逸の胸の中で、少女――ヒガナは泣いた。
この世に産まれ落ちた誰もがあげる権利を持つその産声を、名前を貰った今日この日。五百年ぶりにようやくあげる事が出来たかのような、そんな命の慟哭だった。
「う、ぅう……ひぐっ、ぐす。……すん。きーつっ、は。ぐすっ。あったかい、な……っ」
「そうかな? じゃあヒガナは甘えん坊の泣き虫さんだな」
喜逸の服を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてしまったヒガナをからかうように言うと、ヒガナは隠れるように喜逸の胸に再度顔を埋め、くぐもった声で非難の声をあげる。
「うぅ……きーつ、の。意地悪……ずび」
「ごめんごめん。もう言わないよ。……ねえ、ヒガナ。嫌だったら言わなくてもいいんだけどさ、あの日、どうしてヒガナはあんな所に倒れていたの?」
答えにくい事を聞いている自覚が喜逸にはあった。
ともすれば、妖狐の心の傷をえぐり二人の関係にしこりを与える可能性すらある質問である事を無意識的に察しながら、それでも喜逸は禁忌に触れた。
ヒガナにもう一歩、踏み込みたい。
そんな思いから、彼女がこれまで意図的に避けてきたヒガナの過去に触れようとする。
腕の中のヒガナが少し身じろいで、しばしピアノ線をピンと張るような沈黙が降りた後、ヒガナは喜逸の想いに応えるようにぽつりぽつりと喜逸に出会うまでの自分を語り始めた。
「……そっか、そんな事があったんだ」
百年妖狐と呼ばれ恐れられていた事。
人にも怪異にも嫌われ疎まれ恐れられ、どこにも居場所がなかった事。
ずっと独りぼっちだった事。
喜逸に失望されたり嫌われるのが怖くて言えなかった己の過去を、ヒガナは包み隠さず全て話してくれた。
それが信頼の証であると分からぬ程、喜逸は愚かではなかったから。
「じゃあさ、ヒガナがもう泣かなくて済むようにぼくが強くなるよ。ヒガナを虐める奴らを全部まとめてやっつけられる絵本の王子様みたいに強くなって、ぼくがヒガナを守るよ」
ニッ、と。妖狐を安心させるように歯を見せて笑う喜逸に。
聞いたことのない単語だったのだろう、目を赤く泣き腫らした妖狐は首を傾げる。
「ひーろー?」
「うん。絵本の中の王子様みたいに、泣いてる人を助けられるのがヒーローなんだって、父さんが言ってたんだ」
驚いたようにまん丸く目を見開いたヒガナは、その後、蕾が花開くように破顔して、
「じゃあ、きーつはぼくのヒーローだ。独りでずっと泣いてたぼくをきーつは助けてくれた。血塗れのぼくを抱えて家に走ってくれたあの時からずっと、きーつはぼくのヒーローだよ」
「そっか……ぼくもう、ヒーローだったんだ」
ヒガナにそう言われると、なんだか恥ずかしいような照れ臭いような嬉しいような身体中に力が漲るような、不思議な気持ちになる。
そうして喜逸は、満ち足りた心で、ヒガナの綺麗な黄金の目を見つめ、こう言葉を紡ぐのだった。
「――じゃあ、ぼくはヒガナのヒーローになるよ。ヒガナが泣いていたらぼくが守ってあげるんだ! その為にも、ヒガナを虐めたヤツにも負けないくらい……ううん、誰にも負けないくらい強くならなくちゃ……!」
☆ ☆ ☆ ☆
封印の彼方にあった混濁の記憶。
その全てが喜逸の体内を巡るヒガナの血によって強烈に喚起され、ヒガナの記憶と混ざり合い一つの物語となって完全に蘇る。
すなわちそれが全ての起源で、少年の始まり。
斑輝喜逸の胸の内で燃ゆる衝動の炎。
……ああ、そうだ。この身はただ一人の大切な少女の為にあった。
この拳を振るう理由など、彼女の涙一つで充分だ。
この胸に初めに掲げた信念は空の信念などではなかった。斑輝喜逸は幼い頃、永久人になるその前に確固たる理由と共にソレを獲得していたのだ。
黒炎に抱かれながら喜逸は強く思う。
自分にはまだやるべき事がある。
ならば、こんな所で立ち止まって納得などする訳がないだろう。
斑輝喜逸はヒガナを守り、助け、救う――彼女の、ヒガナのヒーローなのだから。
――嗚呼、まだ終わらない。終われない。
ヒガナは言っていた。斑輝喜逸には世界を終わらせる可能性があると。
終わらない終わりを終わらせるのが斑輝喜逸の役割だと言うのなら――世界を終わらせる権利が斑輝喜逸にあると言うのなら――
――終焉を告げる鐘の音よ。世界の終わりを告げるその音色を奏でるべきはお前じゃない。
それを決定づける事が出来るのは、唯一、この世界で〝俺〟だけであると強く想う。
ドクん。ドクん。砕けた五体が脈動する。
千切れ飛んだ右腕が熱を持つのが分かる。
世界は個で個とは世界。ならば一つの世界の終焉を決定付けるのもまた、他の誰でもない斑輝喜逸であるとするならば。
斑輝喜逸に終幕を下ろすのは、今、この時では断じてない――
「――《偽典:霊刻起因》――」
荒ぶる漆黒の業火の中、伽羅俱利腕に刻まれし『霊刻』を起動する起句が高らかに響く。
「……霊刻起因、だと……!? ……なんで、どうして? ……こんなのあんまりだ。なあ、ひどいじゃないか……きーつ……」
それを耳にした妖狐が異変に勘付き、仮面の奥でその美しい顔をぐしゃぐしゃに歪める。
――唱えるべきは己の悟り、この心の在り方にして、強く信ずる自分自身。
――告げるべき言葉は、誰に教わるでもなく衝動となって自然と胸に湧きあがる。
「――《世界は円環の渦、輪廻の輪。回転する二重螺旋》《廻り、廻り、廻りうねって、終わり始まりを繰り返す》《廻る螺旋のその終端、我が真我領域を顕現す》――」
「今まで一度も……きーつは一度だってぼくを……それなのに、どうして……っ」
身体の両脇で握った拳が、プルプルと怒りに震えている。激しい動揺から感情をうまく制御できず、妖狐の声が変に上ずった。
――さあ、世界を塗り替えろ。獲得したその真理でもって、三千世界に牙を剥け。
世界を滅ぼさんとする少女を救い、このふざけた悲劇にありきたりな死の幕を。
そうして掴み取るんだ、この手に新たなる物語の始まりを、彼女と歩む望む未来を。
「――崩界――」
「……どうして、よりにもよって今っ、ぼくの名前を呼ぶんだよッ! きーつぅうううッ!!」
響く声、愛おしき人が自分の名を呼んだ事が少女は許せない。
何故今なのだと世界の理不尽に激情を露わにする妖狐は、膨張し続ける陰気の塊である己の千尾を黒炎の中心へと一気呵成に叩き付けた。
その一振りで大地を砕く死の剣が、一息に一〇〇振るわれて、偽りの覚者を今度こそ木端微塵に打ち砕き――
「――『終焉の観測者』」
少女が下す終幕を、終わらない終わりを終わらせるその少年は、今ではないと切り捨てた。
漆黒の太陽を消し飛ばし、降り注ぐ死の剣の悉くを右の拳で粉砕して、黒炎地獄より機械仕掛けの魂葬者が現れる。
右腕は怪腕。左手には陰気を打ち払う剣を握り、独り永久人を屠る眼光はさながら狼の如し。しかして狼と呼ぶには小さなその背丈、まるで狐のようだと人は言う。
砕けた五体と共に炎の中から甦りし仏陀。
その容姿に大きな変化は見当たらない。
ただ、装着していたゴーグル型ディスプレイがその形状を変え、斑輝喜逸の口から上顔半分を覆う赤と白銀を基調とした獣型の頭部装甲と化していた。
混濁の記憶を取り戻し、己の心の根源を明らかにした少年は、崩界を果たして最愛の少女へと改めて向き直る。
「――ヒガナ、遅くなった。ごめん」
先の攻防で一〇〇の尻尾を砕かれたヒガナは、地面に膝を突いて、泣き笑うような声色で力なく何度もかぶりを振った。
「……ずるい。ずるいよ、きーつ。きみってヤツは、本当にずるい……」
その姿からは、既に戦意が喪失しているようにも見える。
だが、違う。
ヒガナの霊力は未だ膨張を続け、彼女がその身から発する陰気は今なお徐々に世界を侵食している。
世界を滅ぼし喜逸を殺す。仮面の奥、ヒガナの黄金の瞳に宿る狂熱は未だ消えず其処に在る。
それでも喜逸は、大切な少女に手を差し伸べ己の想いを告げる。
「ヒガナ。ごっこ遊びは終わりなんだろ? 行こう。俺達の旅は、まだ終わらない」
「……ダメだ。ダメなんだよ、きーつ。だって、今を続けたらきみはいつかいなくなってしまう。ぼくという怪異は永遠だ。その永遠に、きーつは永久人になっても追いつけなかった。だったら世界を変えるしかないじゃないか……もう、滅びた世界で二人永遠に滅び続けるくらいしかッ、ぼくらが共に未来を歩める道なんて残されていないんだァぁあああああああああッ!」
――ヒガナ本体から伸びる霊力尾、残り四〇〇。
うち一〇〇が本体から分離。
一塊になった尻尾が喰らい合いを始め、一点へ圧縮。
極度の霊力磁場がヒガナの真後ろに形成され、横殴りの疑似重力となって喜逸に襲い掛かる。
――減速、減速、減速。喜逸の加速を阻むが如き重力場に、思わず膝を屈しかける。
刹那、横殴りの重力を追い風に、ヒガナが喜逸へ瞬時に肉薄。頭部装甲をその尻尾で鷲掴みにすると、勢いそのまま背中から地面へ叩きつけ、喜逸を引き摺ったまま五〇〇の距離を走破する。
「――大好きだ! 大好きなんだよ嗚呼、ちくしょう! どうして、よりにもよって何で今、ぼくをヒガナって呼ぶんだ! 酷いよ、こんなのあんまりだっ。どうしてぼくがきーつを殺さなくちゃならない! こんなに好きなのにッ、きみの為ならぼくは命だって賭けられるッ なのに、どうして! ぼくがきみを殺さなくちゃならないんだァあああああああああああああ!!」
削り、削られ、削がれ往く。
だがそれは喜逸の身体の話ではない。
ボロボロに擦り切れ、真っ赤な血の涙を流しているのはヒガナだ。ヒガナの心だ。
助けてと泣き叫ぶ事すら出来ない程に追い詰められた大切な少女の苦悶の声を、どうして喜逸が無視できるッ!
「――や、しねえよ。殺させやしねえ! ヒガナに俺を殺させなんかしねえ! 俺の終わりは、今じゃねえええええええええ!」
――伽羅俱利腕、全力全開の噴流噴射。
鼓膜を圧壊させるような爆発音。
取り込んだ空気を己の霊力と僅かなガソリンで爆発的に燃焼させ、タービンを回す。
廻れ、廻れ、廻れッ! 肘部の排気口から超高速で噴射される高熱の噴流が空気を焼き、超重力に殴られる喜逸に前方への推進力を与える。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああッ!!」
喉が擦り切れる程に叫ぶ。
まず、地面を引き摺られるだけだった身体、その二本の足が大地を捉えた。
踏みしめる。脚の裏が掴んだこの感触を死んでも離すものか。擦過に生じる摩擦熱が靴裏を燃やす。
だがそれ以上に心を燃やしてエンジンを燃え上がらせて莫大なヒガナの力に対抗する。腹筋にあらん限りの力を籠め、身体を起こす、起こす、起こして耐えて――拮抗。
強大な轍を残して喜逸の身体が停止、そのまま右足を振り抜き、ヒガナの身体を痛烈に打つ。
砲弾と化して吹き飛ぶヒガナを追従すべく再点火。
エンジンを廻し、五行相生――火生土。
「ちなみ! 坐武羅の崩界、あと何秒だ!」
『――御主サマ復活でちなみもふっかーつッ! 崩界終了まで、残り二十一秒です!』
「充分だッ、あのバカを止める! 世界を滅ぼすのは俺だッ、ヒガナじゃねえ!」
『ちなみ合点承知! ちなみと二人で、世界救済の最短ルートを突っ走りましょう!』
横殴りの重力場を振り切る。
回転率を上げる。
加速する加速する――五行相生・土生金――廻れ・加速――五行三連生・金生水――廻れ・加速――四連生・水生木――加速、廻れ、加速、廻れ、加速、廻れ――ッ!
負けられない、終われない。
どうあってもヒガナに世界を滅ぼさせる訳にはいかない。
だって喜逸は彼女のヒーローで、ヒガナは本心では世界を滅ぼす事も喜逸を殺す事だって望んでいない。彼女の願いはただ一つ、喜逸と一緒に過ごしたい、ただそれだけなのだから。
――喜逸を阻む重力場。
死はおろか破壊の概念すらあるか分からないその現象を前に『終焉の観測者』はただ前を見据え――五行相生・木生火『地獄道』――五行一周。是、円環輪廻の輪と見たり。
六道輪廻、一の終。到達せしは地獄道。咎人よ、地獄の果てにて裁きを受けろ――
「――『灼熱地獄・悪龍悪鬼炎獄拳武』ッ、急急如律令!!」
硝子の割れる甲高い破砕音と共に、打ち出した炎拳が前方の重力場を粉砕した。
――これこそが斑輝喜逸の『崩界』の力。
不死、または不壊の属性を有する物に死を付与する領域を展開する崩界。
相手を脆くする訳でも弱くする訳でもない。終わりのない物を終わらせる事が出来るようにする、ただそれだけの力。
『終焉の観測者』が観測した対象は、有機無機を問わずに物理的な手法で破壊が可能となる。
「追いついた。もう離さねえぞ、ヒガナ!」
その手で重力場に終焉を齎し、空中でヒガナに追いつく喜逸が手を差し延べ叫ぶ。
だがヒガナは差し出された手を掴むと、そのまま喜逸を進行方向の壁面へと叩き付けた。
「――嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だきーつは嘘付きだ! 離さないなんてそんなの嘘だァ! きーつは最後にはぼくを置いて、ぼくの前からいなくなる癖に……ッ!」
「ぐぁッ、づぁ……はぁ、はぁ、このっ、分からず屋が! 俺がお前一人を残す訳ねえだろッ! ヒガナ! お前は、俺の言葉よりクソ親父の言葉を信じるのかよ……ッ!」
ダメだ。今のヒガナは全く聞く耳を持たない。
無限増殖する陰気に呑まれた結果、影響を受けたヒガナの中で負の想念が肥大化し彼女を精神的に不安定にさせている。
説得による解決は不可能。
仮にヒガナが正気だったとしても、収束し無限に増大する陰気を制御するのは不可能だっただろう。
どのみちこのままではヒガナによって世界は冥界へ堕ちる。
許容を超えたヒガナが破裂する事による陰気の世界拡散だ。
ヒガナは勿論、巻き込まれれば喜逸だってただでは済まない。
根本的な問題を解決しない限り、時和極夜の独り勝ちだ。
「――もう、ぼくを惑わせないでくれ……きーつ。きみがいたから、ぼくは……独りぼっちがこんなにも怖いんだと、知ってしまったんじゃないか……ッ!」
残り三〇〇の霊力尾、ヒガナはそれら全てを分離。
その身をねじりながら寄り合わさり、ヒガナの眼前に、長さ六メートルはある巨大な三本の黒槍がその形を成していく。
今なお増大する霊力、陰気を出し惜しみなくつぎ込んだ最悪の槍は、一撃必殺にたる代物だった。
迫る死の予感に、ここが分水嶺であると喜逸は悟る。
「……ちなみ、残り時間は」
『――残り、十三秒』
現状、喜逸は己と坐武羅の『崩界』の力で、最強の怪異であるヒガナとどうにか互角の勝負を演じている。
坐武羅の『崩界』が解けた瞬間が、喜逸の敗北の瞬間である事に変わりはない。
故に勝負はあと十三秒。
それまでに、無限に膨張し続けるヒガナの陰気をどうにかしなければこの世界諸共この場の全員が共倒れだ。
そんな絶望的な状況で、しかし喜逸は落ち着いた様子で一つ大きく息を吐いて。
「……充分だ。三秒で何もかも幕引きだ」
『ええ……いくら御主サマでも、流石にそれは非現実的なのでは……』
呆れと困惑が混じり合った声を返すちなみに、喜逸は己の切り札を提示する。
「ちなみ、伽羅俱利腕の二大機構の再連結を」
『……なっ、まさか全部思い出して……ッ、無茶です御主サマ――』
「――命令だ。やれ、時間がない」
伽羅俱利腕を唯一無二たらしめる二つの特殊機構、超小型ハイブリッド・ジェットエンジンと回転式五段階歯車機構。
普段は完全に独立した機構として伽羅俱利腕に内臓されているこの二つの機構には、開発段階からとある特殊なギミックが仕込まれている。
喜逸が言っているのは、その特殊ギミックの発動の制限解除について。
危険すぎると判断したちなみによって混濁の記憶に紛れ込ませる形で消去されていた危険な秘匿ギミックの存在も、喜逸はしっかりと思い出していた。
『うぅ……ちなみにちなみはどうなっても知りませんからね……ッ! 再連結――開始ッ。再連結完了まで、あと七秒……』
有無を言わせぬ喜逸の言葉、議論の時間すら惜しい現状に、ちなみはやけくそ気味に叫んだ。
その直後より、キィイイイイイン……と、金属音を思わせる甲高い嘶きが喜逸の右腕より轟き始める。
――坐武羅の『崩界』終了まで、残り十秒。
肩の吸気口より伽羅俱利腕内部の超小型ハイブリッド・ジェットエンジンに酸素を取り込み、燃料室で燃焼。
発生させた燃焼ガスでもってタービンを回し、噴流を生成。
……まだだ。まだ足りない。
タービンの回転率を、もっと。もっとだ。
廻れ、廻れ、廻れ!伽羅俱利腕の回転率を、今の喜逸に許される限界まで上昇させる――リミットまで残り七秒。
『――再連結完了まで、残り四秒――』
「――世界諸共死して堕ちろォ! 斑輝喜逸ぅうううううううううううううううう!」
一歩早く生成を完了した巨大な黒槍が喜逸に殺到する。
正面から迫る槍に、喜逸は手持ちの護符、結界符、人形符その全てを切りながら全力で横合いに飛び退き、転がるように回避。
多重に展開された術符の悉くが貫かれるが――僅かに死槍の軌道を逸らす事に成功し、槍の穂先は喜逸の右足スレスレを擦過。大空へと消えていく。
『――槍が貫いた護符、結界符、人形符周辺で時間停止現象を確認! 貫いた物体に干渉する術式を感知ッ。回避もしくは迎撃を推奨! 槍の直撃だけは絶対に避けてくださいッ!』
ちなみの悲鳴が響く中――次弾、二本目。
喜逸の回避コースを予測し放たれた槍撃に目を見開く。
飛び込んだ先に待ち構えていた陰気の巨大槍を、転がるように立ち上がった喜逸が左の俱利伽羅剣の刀身で受け――ぎゃりぎゃりぎゃりぎゃりッ! 凄まじい勢いで火花が散華した。
地面に平行に飛来する槍の穂先に対し、立てた刀身を接触の瞬間斜めに傾ぐ。
凄まじい不協和音と火花の合唱を奏でながら巨大槍の切っ先を刃の上で滑らせ、凶悪な破壊の矛先を逸らす――凌ぎ切ったと同時、左手の俱利伽羅剣の刀身が甲高い音を立てて半ばから折れた。
リミットまで残り、三秒――
『――再連結、完了! 御主サマ!』
ちなみが叫ぶと同時、迫る三本目の槍を無視して、斑輝喜逸は霊力を迸らせ叫んでいた。
「――行くぞッ! 『機構連結遮断路、凍結解除/連結機構、実行!』
――がごんッ、がぢっ! 歯車が廻り、鋼と鋼が嚙み合う音が響く。
温め続けたエンジンが景気よく爆音を放ち、肘部から肩甲骨付近に掛けて連なる排気口より高熱噴流を超高速で噴射、瞬間大地を蹴りつけた斑輝喜逸の身体が刹那のうちに超加速を果たし、左上半身が飛来した黒槍の一撃をまともに喰らって――
「――機体分離ッ!」
『――ええっ、んな無茶苦茶なぁ!? ちなみやりますけど無茶なぁ!』
槍の穂先に触れた瞬間、槍が機体を貫通する寸前に左上半身を切り離し術式の影響下から逃れる。
投擲槍が纏う衝撃波の煽りを喰らった頭部装甲の左半分が吹き飛び破損。
強引に切り離した断面からは人口内臓が弾けオイルが飛び散るが――右腕は死守。
時間停止も受けていない。この身体は、まだ走れる。
「なんで……どうしてだ、どうしてきーつは、死んでくれないっ! どうして、ぼくなんかをを助けようとする……っ!」
そんなの決まっている。
「俺が、お前の……ヒーローだからだァ!」
最初にヒガナと出会った時もそうだった。
恐怖に暴れ回るヒガナに何度爪を立てられ、牙を剥かれても、喜逸はヒガナを絶対に見捨てなかった。諦めなかった。
だって、独りぼっちで暴れる彼女は、誰かに助けを求めているようにしか見えなかった。
暴れ回るヒガナを優しく包み込んで、大丈夫だよと何度だって言い聞かせた。
同じだ。同じなのだ。
今のヒガナは出会ったあの時と何ら変わらない。
恐怖に震え、独りぼっちに怯え、もう傷つきたくないから必死で自分を守ろうとして、威嚇するように暴れ回り自分と周囲を傷つけるヒガナを救えるのは、ヒガナのヒーローである喜逸だけだから。
ダメージに構わず右の拳を握り締め、斑輝喜逸は死力を振り絞って最後の加速を果たす。
――回転式五段歯車機構と超小型ハイブリッド・ジェットエンジン。
伽羅俱利腕に内臓された二つの機構は、完全に独立した機構として成立している。
しかし、狭い義腕のスペースに同時に搭載した関係上、二つの機構は腕内部でさらにマトリョーシカのような構造になっている。
筒状になるように設計された吸気口、圧縮機、燃焼室、タービン、排気口の五つのセクションからなる『超小型ハイブリッド・エンジン』と、そのエンジンを回転軸にして設置された『回転式五段歯車機構』。
これら二つは、秘匿された機能である機構連結機能を実行した場合に限って回転が連動するようになっており、ジェットエンジンのタービン回転に応じ回転式五段歯車機構が喜逸の命令を待たず回転。
次々と回路を切り替え五行相生を重ねる事が可能となるのだ。
最終的に喜逸が到達したタービンの回転数は毎秒一〇〇回転。
その回転力が成す超高速の『五行相生・加速円環輪廻』運用術により、斑輝喜逸が目指すは六道輪廻、その終着点――
「――『五行相生・加速円環輪廻』。完全駆動ッ、五行相生――」
直後だった。
ギュイギガガッギィイイイイッッ!! 回転するチェーンソーが目詰まりを起こしたような暴走的な回転音が伽羅俱利腕から炸裂し、噛み合い連結した二つの特殊機構による超高速回転により、神速領域に踏み込んだ五行相生が実行され――地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道――
――六道輪廻、一の終につき相生五つ。故に是にて最終周。
斑輝喜逸が到達せしは六道輪廻、その終着点。六道・天道。
輪廻転生を都合六度、三〇回にも及ぶ相生は一秒のおよそ三分の一、〇.三秒もあれば事足りた。
「――五行最終生・『終の終』天道――」
――是、すなわち円環輪廻の輪と見たり。
六道輪廻、終の周。到達せしは六道天道。忘我へ至るその果てに人は解脱し、極楽往生せんとする
「――臨終十楽/極楽浄土『引接結縁の楽・陰滅の祓い』――ッ!」
――リミット、〇。
宣言通り再連結から三秒でヒガナとの距離を〇に縮めた斑輝喜逸の右拳が、少女の顔を覆い隠す赤い狐面を、子供のイタズラを叱るように優しく小突いた。
刹那、戦場にあるまじき間の抜けた空隙が世界を支配して、
次の瞬間だった。
ぽんっと。
ポップコーンの弾けるような小気味よく楽しい音が響いて、喜逸とヒガナの足元に一輪の光の蓮が花開いた。
殺し愛の戦場に発生したあまりに場違いな現象。
けれどその開花は終わりではない。
夜明けを告げるように花開いた一輪の蓮の花を皮切りに、光の蕾の弾ける音が波濤のように世界に押し寄せ連続し、瞬きの内に斑輝喜逸を中心に光の蓮が辺り一面に咲き誇った。
黒い太陽の顕現によって重苦しい陰気に圧し潰され陰なる夜闇が堕ちた世界を、光の蓮が清めていく。
一輪花開くごとに世界は一つ明るさを取り戻し、空に立ち込める不穏な黒雲を地上から立ち昇る光の奔流が吹き飛ばす。
喜逸たちの視界全てが光の蓮で埋め尽される頃には世界は太陽の輝く夏の世界を取り戻していた。
――五行最終生・『終の終』天道・臨終十楽/極楽浄土『引接結縁の楽・陰滅の祓い』。
喜逸が到達した六道輪廻の終着点であるその一撃は、対象の速やかな極楽往生を可能とする仏の力の一端であり、発動と同時に周囲を限定的な極楽浄土へと昇華させる秘奥中の秘奥だ。
この一撃によって極楽浄土へ変貌した世界に合わせるようにして、陰陽の調和が保たれるように自動的に改変が行われる。すなわち偏った陰気を全て祓う完全浄化の一撃である。
凄まじい戦闘の余波で完全に天井が崩落した地下空間は、床から壁から何までる所が蓮の花で覆いつくされている。そうして、光の蓮に浄化されたのは何も世界だけではない。
咲き誇る花畑の中心に包まれるようにして立ち尽くす美しい少女がいた。
その桃色がかった乳白色の長髪が、吹き込んできた夏風に遊ばれるように揺れる。舞い散る光の花びらに眩しそうに目を細め、靡く髪を抑える少女は居心地が悪そうにそっぽを向いていた。
黒く染まっていた髪も、千に増殖した尻尾も、表情を隠す赤い狐面もどこにもない。
そこにいたのは紛れもなく、斑輝喜逸が再会を待ち望んだ少女で――
「――おかえり。ヒガナ」
「……きーつ、ぼくは……きみに合わせる顔がない」
俯き、肩を震わせるヒガナは喜逸と目を合わせようとしてくれない。そんなヒガナが何を考えているのか、面白いくらいに喜逸には分かってしまって、思わず苦笑を漏らす。
「そんなの俺も一緒だ。どれだけお前を待たせちまったと思ってる」
「……違うんだ。悪いのはぼくだ。謝らなきゃならないのは、ぼくだ。だってぼくは、自分勝手な感情で、きーつ。きみの事を……いたっ」
ぽかっ。喜逸はいつまでもウジウジしているヒガナの頭をぐーで小突いていた。
「ばか、そうじゃねえだろ。こういう時になんて言えばいいのか、俺が教えたはずだけど?」
「……ただいま」
「それから?」
「……ありがとう、きーつ。ぼくを助けてくれて」
「ああ、俺はお前のヒーローだからな。だから、二度と謝るんじゃねえ」
「……うん。それで、ね。……それから……それがらぁ……っっ」
喜逸が言った言葉は対の言葉だった。
独りでは決して成り立たず、それを返す相手が必要になる素敵な言葉。
だからヒガナは、そんな魔法のような言葉をまた自分が口に出来るという何て事のない事実に瞳を濡らして。
そして今度は自分から喜逸へと、五百年待ちわびた対の言葉を口にした。
「……おかえり、きーつ……っ」
「……ああ。ただいま、ヒガナ」
万感の想いの込められたおかえりとただいまを交わして、五百年ぶりに本当の再会を果たした二人は、光の咲き誇る花畑で見つめ合い、嬉し涙を流して笑い合って。
直後、弾かれたように駆け寄り合って互いの存在を確かめ合う二人に、光の花びらが宙に舞った。
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第五章 千年妖狐と魂葬者・参――追憶少年/円環輪廻の五百年、約束を今此処に――
第五章 千年妖狐と魂葬者・参――追憶少年/円環輪廻の五百年、約束を今此処に――世界が終わろうとも忘れなかった約束/あの日誓った君のヒーローに。
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「――仲良きことは美しき哉……ところで拙僧、もう気を失っても良さそうですかな?」
壁にめり込み光の蓮に埋もれる坊主頭が何ごとかを呟いていた。




