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・ギア/フィフス 千年妖狐と魂葬者・弐――追憶妖狐/約束の再会を胸に抱いて、少女は不屈に燃え上がる

 千年妖狐は怖かった。

 ずっと、ずっと、喜逸の隣を歩く彼女は、ずっと何かに怯えていた。


 ――例えば、坐武羅が村を襲い、喜逸が妖狐を独り残して戦場へ駆け出したあの時。

 千年妖狐と呼ばれる少女は、大人しく喜逸の言い付けを守って独り喜逸の帰りを待っていた。

 だって、怖かった。

 喜逸が、ではない。

 喜逸に嫌われてしまうのが、世界で一番怖かった。


 彼をからかい笑う老艶な大人ぶった所作も、積極的に振りまく好意も、肌を必要以上に触れ合わせるのも、その全てが恐怖の裏返し。

 妖狐の全ては恐怖に塗り潰されてしまっている。


 千年を生きる怪異の主だなどと我ながら笑える冗談だ。 

 千年妖狐などという大層な名前に、とてもじゃないが自分という存在は釣り合わない。


 力ばかりが大きくなって、その精神性はいつまで経っても大して成長していないというのに。

 誰か助けて欲しい。

 終わらないこの苦しみから、繰り返す絶望の連鎖から救って欲しい。

 そう願えども、彼女の言葉は決して誰にも届かない。

 届いてはいけない。

 届いたその瞬間に、全てが終わってしまう事を彼女自身が理解している。


 だから千年妖狐は自分の感情を押し殺し、恐怖のままにただ彼の指示に従っていた。

 けれど、喜逸のモノではない霊力が膨れ上がったその瞬間。

 妖狐は待っていろと命じられた場所から迷う事なく走り出していた。


『まって…』


 千年妖狐は怖かった。

 喜逸が、ではない。

 喜逸に嫌われてしまうのが、世界で一番怖かった。


『いかないで……』


 けれどそれ以上に――斑輝喜逸がいなくなってしまう事がもっともっと怖かったのだ。


『いかないで! きーつ……!』


 この後、妖狐は喜逸を庇い負傷する。

 ちなみによって感情をリセットされ、妖狐に対する不信感や嫌悪が再燃していた喜逸は、この時の妖狐の行動をきっかけに彼女へ対する感情や態度が変わっていくのだが、それはまた別のお話。


 これから語るは千年妖狐の物語。

 なぜ彼女がここまで喜逸にこだわり、喜逸のためにその心身を砕くのか。


 そのきっかけとなる出来事は、五百年前にまで遡る。



☆ ☆ ☆ ☆



 はじめにあったのは、人間への憧れだった。

 そうして次に知ったのは、人間の恐ろしさだった。


 禁忌の油揚げを口にした愚かな白い狐、五百年を生きるぼくのことを、百年妖狐などと呼ぶ者が表れて始めた頃のこと。

 ぼくは色々な人間からその命を狙われ各地を転々とし、逃げ回るだけの日々を送っていた。


 坊主に陰陽術師に霊能力者。

 色んな人間がぼくを殺そうと躍起になっていた時代。

 五百年を生きる妖狐と言えど、大した妖力もなかったぼくは、ある地域に踏み込んだ際にその土地を守護する高僧に討たれかけ瀕死の重症を負っていた。


 命からがら逃げだしたはいいが、出血も酷く体力の消耗も激しい。

 ――もう助からない。

 自分の最後を自覚したぼくは、人里近くの川辺で倒れた。

 そこには名前も知らない白く美しい花が独りぼっちで咲いていて、お前もぼくと同じだなと己の最後を笑っていた。


 ……死は苦しくて怖いけれど、やっとこの永遠の時間から解放されるんだ。

 そう思うと、少しだけ気分が楽になった。

 ……ただ、独りはどうにも寂しくて、春だというのに凍えてしまいそうな身体の寒さが、やっぱり、ちょっとだけ。とても怖かったのを鮮明に覚えている。


「――わ、大変だ。この子、怪我してる……っ」


 今でも毎夜思い出す。そんなぼくの前に、きみは現れたんだ。




 平呈三十六年、六月。

 病弱で床に伏せがちだった斑輝喜逸少年は、それでも明るく大きく成長し十歳になっていた。

 学校にも行けず、軟禁じみた実家での生活にたびたび嫌気が指しては部屋から抜け出し森や川へ遊びに行く。

 そんなわんぱく盛りの少年が川原で倒れている瀕死の狐を見つけたのがほんの一か月前。

 家に連れ帰ってしばらくの間看病をして、元気になった狐を森に返してからはまたベッドの中から雨音を聞き天井を眺める退屈な暮らしが続いていた。


「……つまんなーい。外に出たいー」

「ダメですよ、坊ちゃま。こんな雨の日に外出なされては、また体調を崩されてしまいます」


 ベッドの中からぶーたれる喜逸に、メイド服に身を包んだ年若い女性が厳として首を振る。

 お手伝いのカンナは一見優しそうに見えて喜逸に厳しい。

 喜逸が二階の自室から抜け出し外へ脱出を図る際の最大の障壁であり、毎回壮絶な戦いを繰り広げるのがこのカンナなのだ。


 確かに外は雨が凄い勢いで降っている。

 こんな雨の中傘も指さずに外に出れば、身体の弱い喜逸でなくともあっという間に風邪を引きそうだ。

 六月初旬とは言え、梅雨の気配が見え始めた最近は雨の日もだいぶ多く、たまに許可される喜逸の外出の予定も潰れる事が多くて腹立たしい。

 雨の中、傘を指して出かけた事がない喜逸は土砂降りでも外に出たがったが、それを許可してくれるほどカンナは甘くはない。


 ……また今日も、ベッドの中で退屈と過ごすのか。

 二階の自分の部屋の窓から見える雨の景色にうんざりとため息を吐く。そんな喜逸の前に、


「――うわぁ!?」


 退屈な現実を打ち砕く破砕音と共に、彼女は現れた。

 割れた二階の窓。

 吹き込む冷たい雨粒にも構わず、ベッドから身を乗り出す少年の前に、淡い桃色がかった乳白色の髪を靡かせる同い年くらいの少女が立っていた。


 喜逸は最初、自分が退屈のあまり夢でも見ているのかと思った。

 獣の雰囲気が残るも美しい顔立ち、その頭には一対の獣の耳が動いていて、臀部からはふさふさの尻尾が生えている。

 すらりと伸びるその手と足には肉球と鋭い爪が光っていた。

 そしてなにより、全身を同じ淡い桃色がかった乳白色の毛で覆ったその少女は、明らかに人間ではなかったからだ。


「ふんふん、すんすん……あウ」


 窓を割って部屋に侵入してきたその子は喜逸にぐいと顔を近づけ全身の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らすと、満足げに一度頷く。

 喜逸は、そんな少女の姿に、人の姿をした狼に騙され食べられそうになる童話を思い出して、


「君は……ぼくを、食べに来たの?」


 ぶるんぶるん、問いかけに勢いよく首を振る少女。どうやら、美味しそうかどうか喜逸の匂いを嗅いで確かめていた訳ではないようだ。


「ええっと……それじゃあ、君は、誰?」


 そんな至極当然な喜逸の問いかけに、少女は一瞬辛そうに目を見張り、それからどこか悲しそうな顔をして、最後には困ったように俯いてしまう。

 そんないじけた姿が、何故か放っておけなくて、


「……喋れ、ないの?」


 パッと少女の顔があがる。

 だがそれは、喜逸の言葉に反応した訳ではない。

 窓の割れた音に下階のお手伝いさん達が騒ぎ始めた気配が獣の少女の敏感な耳を動かしたのだ。


「え、えっと……と、とにかくこのままじゃ皆に見つかっちゃ――うわあぁああああ!?」


 途端、喜逸の口から奇声があがる。

 今まで感じたことのない浮遊感と身体が風を切る感覚、そして目が覚めるような頬を叩く水滴の冷たさ、感触が、少年の心の退屈を吹き飛ばす。


 少女が突如として喜逸の襟首を口に咥え窓から飛び降りたのだと気付いた次の瞬間には、少年の身体は己の部屋を飛び出して、宙を舞う獣の少女の腕の中に抱かれていた。


 空を舞っている――! 

 夢じゃない。

 確かにこれは現実で、いつも家の中に閉じこもってばかりだった少年は、その幻想じみた現実に高揚し興奮から大声で叫んでいた。

 肌で風を切る感覚が心を躍らせ心臓を高鳴らせる。

 冷たい雨粒が、興奮に滾る少年の頬を気持ちよく撫でた。

 そうして、空を駆けるような少女の大跳躍に夢中になって無邪気に笑う少年の横顔を見て獣の少女は――にぃ、と。

 牙の生えた口を笑みの形にして嬉しそうに笑ったのだ。




 その手の温度を覚えている。その温もりの匂いを忘れない。

 死に掛けていたぼくを救った少年は、怖がり怯え暴れるぼくを優しく包み込んでくれた。

 牙を立てても、爪を立てても、彼はぼくを見捨てなかった。


『――きっと君は、ずっと怖かったんだよね……』


 怖かった。

 憧れた人間に命を狙われ、憎悪を、殺意を、敵意をぶつけられるのは、どんな恐ろしい獣に襲われるよりも怖かった。

 そして、大好きだったものを嫌いになってしまう事は、ご馳走を逃してしまう事よりも悲しかった。


 だから、ぼくは牙を剥き爪を立てる。

 ぼくはきみより恐ろしいんだぞと声をあげて、憧れたものを必死で遠ざけて、心を傷つける全てから逃れ、独りで自分を守ろうとしていた。


 だけど同時に、とても寂しかった。悲しかった。辛かった。苦しかった。独りは、大好きで恐ろしい人間たちよりもずっと怖かった。


『――でも、もう大丈夫。ここには君を傷つける人はいない。ぼく君を助けてあげるから! だから、暴れなくても大丈夫だよ』


 ……嗚呼、ぼくは、独りぼっちじゃなくなったのか。

 温もりに抱かれ、安堵から涙が零れる。

 鼻の頭をくすぐるように撫でる手が好きだ。顎を撫でる手つきが好きだ。優しく喋りかけてくる声が好きだ。美味しいご飯をくれる所が好きだ。ボールで遊んでくれるのが好きだ。隣にいると温かくて好きだ。温もりの匂いが好きだ。ぼくを見つめる優しく細められた目が好きだ。わたわたと明るい動作が好きだ。怖がらなくて大丈夫と安心させてくれるから好きだ。一緒にいてくれるから好きだ。


 大好きだから、好きだ。


 きみは怪我をしたぼくの看病を必死にしてくれて、時には父親に頼み込んで僕の傷具合を心配してくれて、そうしてぼくはきみの想いに触れて、ぼくはきみの事が大好きになっていった。


『君が少し羨ましいなぁ。ぼくは自分の部屋に閉じ籠ってばかりで自由に外に出られないからさ。でも、悲しくはないんだ。だって、君が元気になってくれた事が一番嬉しいんだから』


 あの日、きみは言っていた。

 外の世界に出てみたいと。

 そう言ってきみは笑っていた。

 きみが外に出たいように、ぼくはきみともっと一緒にいたかった。


 ――だから来たんだ。迎えに。


 人の姿に化けたぼくは、そうして大好きな彼を攫い、自由な世界へと連れ去った。


 ずっと一緒にいたい。そんな決して叶わない愚かな願いを、ぼくは本気で希っていた。




 喜逸を攫った獣の少女が辿り着いたのは、とある山中の森の中にある不思議な空間だった。

 樹齢五百年から果ては千年を超えるような大樹が隣合い、寄りかかり合った隙間に出来た洞窟じみたその空間は重なる大きな透けるような葉が天井となっていて、遥か頭上の太陽の光は透過し、雨粒や雪風を防いでくれている。

 空間内は穏やかな新緑の光に満たされ、背の低い柔らかい苔のカーペットが地面には敷き詰められている。 

 湯気が立ち昇る温かい小川が一つ流れていて、その近くの壁になっている大樹の幹には大きなウロがあいている。

 どうやらそこが少女の寝床なのか、どこかから拾って来たであろう毛布や羽毛布団にぬいぐるみ、人の衣服などが敷き詰められていた。

 驚くべき事に切り株で出来た椅子と机も近くにあって、人間の道具がいろいろと飾られている。


「ここが、君のお家? ぼくに見せてくれるの?」


 こくり。頷く少女。

 それから彼女は、ぐいと頭のてっぺんをこちらに突き出してきた。

 ふわりと、おひさまのいい匂いが鼻孔に広がる。


「……うーん、撫でろって事?」


 首を傾げながらも、恐る恐る少女の頭に掌で触れる喜逸。

 すると少女がゴロゴロと嬉しそうに喉を鳴らしながら身を捩りすり寄ってくるものだから、何だかおかしくて笑ってしまう。

 そして、そんな少女の仕草に、どこか酷く既視感を覚えて――


「――まさか……君は、もしかして――」


 固まる掌に、少女は少し不満そうな上目遣いでこちらを見ている。

 けれど、喜逸が何かに勘付いた事に気付くと、ぱぁっと目を輝かせて、凄い勢いで寝床のウロまで駆けていく。

 ごそごそと、ウロからお尻を出して、ふさふさの尻尾を左右に振りながら中を漁って、やがて少女はその手に使用済みの包帯を乗せて戻ってくると、ふんすと鼻息荒く喜逸に見せてきた。


「その包帯! ……間違いない、白い狐に巻いてあげたヤツ……じゃあ、君はあの時の……!」

「がーあぅうっ!」


 少女が喜びの奇声を上げ、バッと凄い勢いで喜逸に飛びつく。

 柔らかい苔の上に押し倒された喜逸の胸に顔を埋め、お尻の尻尾をブンブンと振りながら狐の少女は甘えるように喉を鳴らした。

 そして喜逸も、満面の笑みと喜びに表情をぐしゃぐしゃにして、


「すごい……すごいや……! こういう物語、ぼく本で読んだことがあるよ! あはは! 凄い! まるでおとぎ話の中にいるみたいだ! 君があの時の狐だったなんて!」


 少年と獣の少女は、しばらくの間その奇跡のような再会を抱き合って喜び、笑い合った。


 ――そう、これはおとぎ話のような本当の話。

 五百年前、少年がまだ少年であった頃。

 狐の少女が千年妖狐と呼ばれる前の、果てなき約束の物語――




 ――ずっと一緒にいよう。

 身振り手振りを交えて、希った想いを伝えたぼくに、きみは少し照れるようにはにかんでから、困ったように笑った。


「うーん、ずっとは難しいかな」

「キう?」


 どうして? そう問いかけるように瞳を向ける。

 すると大好きな手が、ぼくの頭を撫でる。

 どうしてか胸のあたりが少しくすぐったい気分になるけど、気持ちいい。


「……ぼくがいなくなったまま帰って来なかったら、お父さんもお爺ちゃんもぼくを心配するだろ? だから、ずっとここにいる訳にはいかないんだ」

「あふうぅ……」

「そんな悲しそうな顔をしないでってば。……でも、そうだな。少しだけ……少しだけならきっと、お父さんも許してくれるかもだ。最後のワガママって事でさ……!」


 ぼくはその時、いたずらげな笑みを浮かべながら彼が言った最後のワガママという言葉の意味を深く考えようとも思わなかった。

 二人だけの時間がもう少しだけ続く。

 そんな夢のような事実が嬉しくて、ぼくは舞い上がってしまったんだと思う。


「わっ、なんだよ急に抱き着いて。そんなに嬉しかったの? あはは、尻尾! 尻尾がくすぐったいってばー」

「くゥう……ン」


 ぎゅっと、自分より少し大きな少年の身体に抱き着いて、その上から自分より大きな尻尾を巻き付ける。大好きなきみと一緒にいられるのが嬉しい。

 そんな思いを真っ直ぐに伝える。

 安心する匂いが、温もりが、ぼくときみが一つになって溶けていくような感覚に、ぼくは溺れてしまいそうだった。




 狐の少女との生活は、喜逸にとっては未知の連続で楽しい事ばかりだった。

 生まれて初めて雨の中を散歩した。雨の日の森は楽しい音楽がそこら中から響いてくる。


 ぽつぽつざあざあしとしと。

 雨が葉を叩く音。雨が岩を叩く音。雨が竹を叩く音。

 色んな音が至る所から聞こえてきて、少女と喜逸は泥だらけになって雨のワルツを踊った。


 住処に戻った後は、風を引かないように二人でお湯の小川に飛び込んで、お互いの身体を拭きっこした。少女の髪はとても美しく神秘的で、彼女の髪を乾かし梳くのが喜逸は好きだった。


 生まれて初めて魚を採った。

 少女が川で狩りの仕方を教えてくれて、喜逸も見よう見まねで魚を獲ろうと奮戦しては、滑って転んで川に尻もちをついたりした。それを見た少女がけらけらと笑い、つられて喜逸も笑った。

 そのあと偶然取れた一匹を、塩焼きにして二人で食べた。


 生まれて初めて樹にも登った。

 息が切れるほどの運動は久しぶりで、けれどとても気持ちが良かった。下を見ると地面が遠くて怖くなって、でも隣に彼女がいると思えば勇気が出て来た。


 生まれて初めて山にも登った。

 息が苦しくなってくると狐の少女は喜逸を支え、少女が足を滑らせると喜逸がその手を掴んだ。

 二人で頂上まで登り切って、指を絡めながら見た日の出の美しさは、きっと永遠に忘れない。


 生まれて初めて海にも行った。

 かなりの遠出に、少女は喜逸を抱いて走った。喜逸としては少し恥ずかしいし、立場が逆なのではとも思ったのだけど、そんな気持ちも海に着くなり消し飛んでしまった。

 乱暴に髪を撫でていく海風、潮の香り、波のさざめき、日差しを受けて煌く水面、視界一杯に広がる水平線。

 全てが喜逸を魅了して、隣の少女もまたキラキラと興奮に輝く瞳で海を見ていた。

 世界の美しさに呆然と立ち尽くし、それから二人は砂浜を駆け回り、波打ち際で戯れた。あの楽しかった時間は永遠の思い出だ。


 喜逸は沢山のものを少女から与えられ、また喜逸も沢山のものを少女に与えた。


「――そうして、少女は救われて、王子様と幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」

「わー! わー! めでたしだ! きーつ。いまの、おもしろい、かった!」

「うん! 気に入ってもらえたみたいで嬉しいよ。ぼくも好きなお話なんだ、コレ。とくに王子様が悪者を全部ひとりで倒して、かっこよくお姫様を救っちゃう所とか最高なんだよな!」

「もっかい! もっかい、つぎこれ、よむ、よんで!」

「えー、でも、もう七冊目だよ? ぼくもう疲れたよ……」


 喜逸は狐の少女が持っていた絵本や童話を読み聞かせ、少女に言葉を教えた。


 少女はすごい速度で言葉を学習し喜逸を驚かせた。

 流石に読み書きはまだ難しいようだが、言葉を教えて一週間足らずで少女は喜逸と会話ができるようになっていた。


 そうして、喜逸が物語を読み聞かせるようになってから少女にとある変化が出て来た。


「……むぅ、きーつ。そんなにこっちを見ちゃダメだ」


 いつものように読み聞かせをしている最中、ふいに目が合った少女にそんな事を言われた。


「……あ、ご、ごめん。そう言えば、■■■って服を着てない、もんな……」


 最初は少女が何の事を言っているのか分からなかった喜逸も、少女の恥じらうような表情と、胸を手で隠すその仕草に彼女の言いたい事を理解した。

 少女の肌はその全体が柔らかい白い毛で覆われている。

 だから今まであまり意識した事もなかったが、よくよく考えれば服を着ていない彼女は常に裸で過ごしているような状態なのだ。

 そんな喜逸の言葉に、少女は顔を朱に染めますます頬を膨らませ、薄らと盛り上がる胸の双丘を喜逸の視線から遠ざけるように身を捩る。そして、不満げな上目遣いで口元を尖らせて、


「……きーつの、えっち」

「ぶっ、ち、ちがっ、ぼくはただ――」


 慌てて弁明をしようとして、喜逸がバランスを崩す。

 椅子ががたりと揺れて倒れ、座っていた喜逸も思いっきりバランスを崩し転倒する。

 二次災害は、当然喜逸の隣に座っていた■■■にも降り掛かって――気づけば喜逸は、柔らかい苔の大地に少女を押し倒し、少女の肢体に馬乗りになるようにして覆いかぶさっていた。


 少女の金色と赤の瞳が、喜逸の黒目をじぃっと見つめている。

 喜逸も彼女の神秘的でさえあるその瞳から目が離せない。

 心臓の鼓動が、やけに、うるさかった。


「……その、ごめん。■■■……」


 少女の上から退く、というあたりまえの思考すら消し飛んだ喜逸は、少女を見つめたまま真っ赤な顔でそう零すのが精一杯で――そんな情けない喜逸を、下の少女が強引に抱き寄せた。

 そして、少年と少女の唇が、ほんの軽く触れあって。


「……いいよ。ぼくは、きーつだったら、……構わない」


 ぽかんと呆けたように固まる喜逸の顔を見て、少女は心底楽しそうに笑っていた。




 少女は様々なことを喜逸から学んでいった。

 おはようとおやすみ。行ってきますと行ってらっしゃい。ただいまとおかえり。ありがとうとごめんなさい。

 他にもたくさんの言葉と挨拶に、道具の使い方、恥じらいや、礼儀作法、衣服、食事、その他様々な人間の文化。


 服を着るようになってから、少女はより人間に近い姿でいるようになった。

 頭の上で楽しそうにぴょこりと動く狐耳とふさふさの尻尾を除けば、その姿はどこからどう見ても人間の女の子のソレだった。


 だが、幸せな時間はいつだって夏風が通り過ぎるようにあっという間で長くは続かない。

 狐の少女と喜逸が共に過ごしておよそ一か月の月日が流れた頃だった。

 星と月明かりに照らされる夜。

 ご機嫌に鼻歌を歌いながら苔の大地に点々と咲く色とりどりの花で輪っかを作っていた狐の少女は、突如として喜逸から別れの時が来たことを告げられる。


「ぼく、実は病気でさ。あまり長く生きられないって言われてるんだ」

「……え」

「ああ、でも今すぐって事はないから。こっち来てからなんか調子もいいし、それに■■■との約束もある。まだまだ頑張るよ、ぼくは……!」


 あまりに突然の告白に、少女の感情が追いついてこない。

 目を見開いて戸惑いの声を上げることしかできない少女の髪を、喜逸が梳くように優しく撫でる。


「ぼくさ、小さい頃から身体が弱かったから、ベッドから天井を見上げるばかりの毎日だった。たまにカンナさんの目を盗んで家を抜け出しては怒られて、そんな事の繰り返しでさ。ずっと、外の世界を見てみたかった。だから、■■■と過ごしたこの一か月は本当に楽しかったんだよ」


 そう言って、もう悔いなど何もないと言うように、喜逸は満足げに微笑んだ。

 その笑顔が、これまでの日々を過去形で語ってしまう事が、少女にはどうしても許せなくて。


 気づけば拳を握り締め、眦に沢山の涙の粒を溜めて、嚙みつくように叫んでいた。


「――だ、だったら……! もっと一緒に此処にいよう! 此処は空気も美味しいし、水も綺麗だ。食べ物だって沢山ある。こっちに来てから身体の調子もいいんだろう? なら、きーつは此処で暮らすべきだ! ぼくが……ぼくがきみを、死なせやしないからっ。だから……」


 覚えたばかりの言葉はすぐにガス欠を起こして意味をなさない空気の唸りへ変わっていく。

 もっと沢山言いたい事が、伝えたい事があるのに、うまく言葉にできないのが悔しくてもどかしくて、嚙みしめた唇から血が流れる。


 そんな少女を、喜逸は驚いたような顔で眺めてから、フッと優しく破顔して少女の頭を撫でた。


「ありがとう、■■■。でも、だったらなおさら帰らなくちゃ。ぼくのお父さんは凄いお医者様だから、きっと調子が良くなったぼくの事なんてあっという間に治してくれる。そうしたらさ、毎日■■■と遊びにいけるようになるんだ。最高だろ?」

「……本当にか? 病気が治ったら、毎日ぼくと遊んでくれる? ずっと一緒にいてくれる?」

「うん! 当たり前じゃんか! ぼくだって、まだまだ■■■と遊びたりないんだ。毎日どころか、ずっと一緒にいられる。毎日一緒に遊べるようになるよ!」


 嬉しそうに、楽しそうに未来の事を話す喜逸。

 けれど少女は、どうしても胸の不安が拭えなくて、目の前に喜逸がいるのにまた独りぼっちになってしまったような恐怖が込み上げてきて、


「……どう、したの?」


 ぎゅっと。

 縋るように喜逸に抱き着いて、その温かく脈動する胸に顔を埋めていた。


「きーつの嘘つき……きーつはぼくとは違う。……だって、きーつは人間だ。ずっと一緒になんて、いてくれないじゃないか。いつかきみがいなくなったら、ぼくはまた独りだ」


 意地悪な言葉だと自分でも思った。

 こんな事を言っても喜逸を困らせるだけだ。

 ……そう、自分は妖狐だ。

 五百年を生きる怪異で真っ当な生命ではない。

 人間の寿命は長くても百年。喜逸がどれだけ長生きしても、喜逸は妖狐とずっと一緒にいることなんて出来やしない。

 いつか必ず、そう遠くない未来で妖狐は独りぼっちに逆戻りする。


 そんな未来がどうしようもなく怖くて、だから、未来なんて来て欲しくないと、妖狐は現実から目を逸らすように、喜逸と二人きりの暮らしを盲目的に続けていたいと願ったのだ。


「ねえ、輪廻転生って知ってる? 父さんが言ってたんだけどさ。人が死んじゃうとね、また生まれ変わってこっちの世界に戻ってくる事があるんだって」


 そんな妖狐の身勝手な思いを、しかし喜逸は真っすぐに受け止めた。


「確かに、ぼくは五百年を生きられない。でも、死んじゃってもきっとすぐに生まれ変わって戻ってくる。そして、また■■■に会いに行くんだ。そうすれば、ほら。ぼくらはずっと一緒にいられるだろう?」


 どこか得意げに両腕を広げてそう言った喜逸の笑顔が、少女にはあまりに眩しくて、クスリと笑いながらも、また泣き出してしまいそうだったから。




「……ねえ、約束して。生まれ変わってもまたぼくを見つけるって」


「……ああ、約束する。例え世界が終わってもぼくは君を探し出す」




 いつもの遊びの延長線のような、どこかイタズラめいた微笑みを浮かべる少女の小指に喜逸も小指を絡めて物語のお姫様と王子様のように、そんな約束をした。


 七月七日。

 世界の誰もが満天の星夜を見上げ、願いを綴った短冊を竹の葉に飾り付ける。

 織姫と彦星が一年に一度巡り合う、そんな星降る約束の夜。

 二人はその身を寄せ合って、いつまでも絡めた小指を離さなかった。


 翌朝、喜逸は少女の秘密の住処を後にして、己の日常へ、闘病生活の日々へ戻っていった。

 狐の少女は、少しでも喜逸の助けになろうと万病に効く霊草を探す旅に出る。


 そうして時は巡り――翌年、七月七日。

 全国を巡り万病に効くとされる霊草を見つけた狐の少女は、喜逸の元へと全力で駆けた。


 ……これできっときーつの病気も治る。そしたらずっと一緒にいられる。一緒に遊べる。もう、ぼくは独りぼっちなんかじゃないんだ……!


 期待と興奮を。逸る気持ちをどうにも抑えきれず、狐の姿で全力疾走する妖狐は風よりも速く、綿毛よりも軽やかに、大地を跳ねて最愛の人の元へと駆けていく。


 そうして、一年ぶりに辿り着いた大好きな人の匂いがする大きな家で狐の少女を出迎えたのは最愛の――



 ――斑輝喜逸の死と、眠るように横たわる遺体だった。


「……え」


 狐の耳が、女の人の泣き声を捉えた。喜逸が話していた、カンナという名前のお手伝いさん。


「どうして……どうして坊ちゃまがぁあああ……うあぁ、あんなに、優しいお方が、何故死んでしまわれるっ、どうしてなのですかぁ、旦那様ぁああああああ……っ」

「……手は尽した。ただ、僕の力が足りなかった。……すなまい、少し一人にさせてくれ」


 口に咥えていた霊草が、地面に落ちた。

 意味が分からない。なんだ? 何なんだ? 死んだ? 嘘だ。だって、そんな。身体の調子はいいって、お父さんは凄いお医者様だから助かるって、きーつはそう言った。言っていたんだ。一ミリも、お父さんを疑っていなかった。自分は助かるって、そう信じて――


「――あぁ……あああ……うわぁあああああああああああああああああああああああッ!!」


 気づけば妖狐は、喜逸の屋敷の窓を砕き割り、その内部へと侵入していた。


「うわ! なんだこいつは……馬鹿でかい、狐!?」

『汚い手できーつに触れるな! 殺されたいか人間ッ!』


 布団に横たえられ顔に白い布をかけられた喜逸をその背に庇うように、その遺体に触れようとする葬儀屋の前に立ち塞がり威嚇するように唸りを上げる。

 大慌てで逃げだす男共を捨て置き、瞠目する人々を置き去りにした妖狐は、獣の姿のまま喜逸の父、斑輝極夜へと襲い掛かっていた。


『どうして! なんできーつを助けてくれなかったんだッ! きーつは、お前を……お前を信じてたのにッ! お前からは毒の香りがするッ! お前がやったんだ、そうだろう!? どうしてきーつを殺したんだ! お前はあの子の父親なんじゃなかったのか……ッ!』 


 獣の言葉で赫怒を吐き出しながら、その鋭い爪牙で男を八つ裂きにしようとして――銃声。


「――きゃんッ」


 衝撃に、極夜に飛び掛ろうと中空にあった身体が吹き飛び、壁に叩き付けられる。

 真っ赤な血が飛び散り、自慢の乳白色の毛並みを穢した。


「や、やった……あ、当たったぞ! は、はは! 化け物め、ざまあみぷべ!?」


 風のように屋内を駆けると銃を握る男の顔面をズタズタに引き裂いて、血塗れのソレを足場に跳躍。再度窓を割り砕き、手負いの妖狐はその場から転がるように逃げ出した。


 ――走って、走って、何かから逃げるように走り続けた。

 そうしていつの間にかあたりは土砂降りになっていて、雨に濡れる妖狐は人間の少女の姿でお腹から血を流し、喜逸と出会った川辺に身体を投げ出すように倒れ込んだ。


「……く、しょう」


 地面に爪を突き立て、えぐるように握り込む。


「……ちくしょうッ! ちくしょうッ! ちくしょうッ! ふざけるなァッ!」


 握った土を投げつけ、地面を殴り、怒りを吠える。全ては土砂降りの雨が奏でる轟音にかき消され、どこへも届かずに消えていく。

 無力でなにも出来なかった自分を揶揄するかのように。


「ううっ、ぼくは……っ、ぼくは間に合わなかったッ。これでまた、ぼくは独りぼっちだ……」


 握った拳はほどけ、力なくその場に崩れ落ちる。

 絶望と喪失感、胸に空いた大穴の虚無感に悄然と虚空を眺め、どれだけの時間が経っただろう。 

 

 その視界に、ふと白い何かが揺れた。

 それは、いつかと変わらず一輪だけ咲いた白く美しい花だった。 

 独りぼっちのその花は、横殴りの豪雨に煽られ、それでもしっかりその場に根を張り負けるもんかと立っている。

 その姿に、妖狐の中で消えかけていた炎が、再点火した。


「……そうだ。約束、したんだ。例え世界が滅んでも、ぼくを見つけてくれるって。きーつはそう言っていた」


 死にかけていた顔に、表情が戻る。

 諦観を不屈が上回り、胸の炎が再び鼓動を刻む。


 そうだ。星降る約束の夜、交わした誓いがある。

 結んだ約束がある。

 絡めた小指の感触を、今でも覚えている。


 ならば自分は生きて行ける。

 独りぼっちなんかじゃないと強がれる。


 だって、きっと喜逸はもう一度、■■■に逢いに来てくれる。

 何度だって、ぼくを■■■と呼んでくれる。

 だから――


「――例え、世界が終わろうとも、ぼくは。ぼくだけは忘れない。交わした約束を、もう一度……最愛のきみと、約束の再会の物語を、いつの日か――」


 いつか自分に逢いに来る最愛のひとを待ち続ける、妖狐の長い長い再愛の物語はそうして幕を開ける。


 七月七日。

 土砂降りの雨は星夜を覆い隠し、希望の光なんてどこにも見えなくても。

 それでも妖狐は、その約束を信じ続けた。


 そして――



☆ ☆ ☆ ☆



 ――ようやく叶った五百年越しの最愛との再会は、壮絶な殺し愛の果てに斑輝喜逸の敗北でその幕を閉じようとしていた。


「――。……、」


 喜逸の五体は砕け散っていた。

 水平に降り注いだ六つの黒雷。そのうち一つを噴流噴射の急加速で躱し、直後眼前に迫った一つを『灼熱地獄・悪龍悪鬼炎獄拳武』で相殺。

 そこまでが斑輝喜逸の限界だった。


 大振りの一撃で黒雷を粉砕し、運動エネルギーを吐き出して中空に静止した喜逸は妖狐にとって格好の的でしかなく、次弾に腹を貫かれ、壁に縫い留められてなお足掻こうとする右の伽羅俱利腕を四発目で失い、これで両腕を喪失。

 さらに五発目で左腿から下が砕け、頭蓋を貫かんとした六発目は大きく首を振った喜逸の回避行動によって右側頭部を削ぎ落すに留まった。


 とは言え間一髪致命を回避した所で意味などない。

 昆虫の標本のように壁に縫い付けられた喜逸は既に抵抗すらできない死に体で、あとは妖狐が尻尾を軽く振るうだけで全てが終わる。


「……終わりだ、きーつ。きみの負けだ」


 負ける。敗北。死。終わり。

 身体にのしかかる重力の影響もあり朦朧とする意識にブツ切りになって響く単語に、喜逸は僅かに思考を取り戻す。


 ……そうか、自分は負けたのか。この声も、想いも、結局妖狐には届かなかったのか。


 ――ジじ、ざざ。ッがが、ジ……っ。


 頭部の損傷が酷く、思考にノイズが混じる。

 視界は赤く明滅し、エラーの文字に埋め尽くされる。

 ひび割れたディスプレイの中、視界の隅でちなみが必死に何かを捲し立てているが聞き取れない。

 坐武羅も必死に『崩界』を維持しているようだが、それも無駄になってしまった。


「……ぼくはきみを殺して世界を滅ぼし、そうして今度こそ完璧に全てが終わった世界で、またきみに逢いに行くよ」


 殺し愛の勝者である妖狐がピクリとも動かない喜逸を見下ろし、凍える声で終わりを告げる。

 黒に染まった妖狐の尻尾が周囲から集めた膨大な陰気を黒い炎へと変えていく。


「――狐火十把一絡げ――」


 いかに機械仕掛けの永久人が不死身であろうとも、妖狐の炎で燃やされてはたまらない。

反魂呪の位置が分からずとも、妖狐の狐火は反魂呪ごと喜逸の全てを焼き払うだろう。


「――名付けて是『狐火玉(キツネケダマ)』」


 妖狐の背後で後光の如く伸びる五〇〇の尾。

 その先端一つ一つから立ち昇った黒い狐火が、妖狐の頭上で収斂し漆黒の太陽となって世界を闇に堕とす。

 燦燦と夏の陽射しを地上に注いでいた太陽は突如立ち込めた分厚い黒雲に隠れ、溢れ出す陰気に周囲の明度が下がりまるで夜のよう。

 一足早く夜の帳が降りた世界で輝くその太陽は、全てを塗り潰す濃厚な漆黒だった。


 黒い太陽の正体は、妖狐以外の悉くを焼き滅ぼす超範囲殲滅攻撃。

 これより齎される特大火力の一撃こそが、筋の通らぬ子供の我儘じみた〝我〟を貫き通そうとした斑輝喜逸の終着点。


 終わらない終わりを終わらせ続けた機械仕掛けの永久人。

 魂葬者だったナニカの末路。


 それはいい、別に構わない。

 やり切ったという実感こそないけれど、ここで終わると言うのなら、これが最後まで我を貫いた斑輝喜逸の限界で頂点だったのだと納得する事はできる。


「……一旦さよならだ、きーつ」


 落ちる灼熱。

 超高温の小さな太陽に触れる前から溶解し蒸発する地表。

 闇をも喰らうような漆黒の輝きが視界を覆いつくし、ついには喜逸を呑み込んで――






 ――――――――――……………………温かい?


 黒の猛火に呑み込まれ、跡形もなく蒸発するはずの喜逸を襲ったのは、そんな不可解な感覚だった。

 喜逸を蒸発させる灼熱は、いつまで経っても訪れない。

 だが、そんな事はあり得ない。


 千年妖狐の狐火玉は、妖狐以外の全てを滅する灼熱だ。

 妖狐自身が加減をしたのならともかく、今の彼女は全力で喜逸を殺しにきている。

 欠片の一片残るハズがないのに――何かが、妖狐の黒い炎から喜逸を守っている? だが、そんな都合の良いものに身に覚えはないし、突如として斑輝喜逸の中に眠る奇跡の力が目覚めた訳でもなかった。原因はもっと違うナニカ。

 ただ、己の体内を巡り、脈動する何かの存在を喜逸は強く感じ取る。

 温かくて心が安らぐような、一緒にいるとそれだけで嬉しくて安堵するこの心地よさは――



 ――喜逸の中で脈動し、黒い炎から彼を守るは妖狐自身。喜逸の体内を流れる妖狐の血。



 坐武羅戦で致命傷を負った妖狐と口付けを交わした際に喜逸の体内に混入した妖狐の一部が、妖狐の炎によって活性化し、直後。喜逸の魂の奥深くに封印されている記憶を喚起した――



「――■■■……?」



「……え」



 坐武羅の崩界終了まで残り三〇秒。

 黒い灼熱の中から漏れた言葉に、妖狐の耳がぴくりと動いた。

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