雨の日と子猫
その日は、朝からずっと雨が降っていた。
──うっとおしい
少年はずっとそう思っていた。授業など最初から聞いてもいなかったが、雨でジトジトしているだけで、自分の身体もじっとり濡れているような気になってしまう。そうやって、授業など放っといて窓の外をずっと眺めていた。
「こら、阿久津! 高校の授業がつまらんなら、学校に来るな。学校に来るんだったら、まじめに授業を受けろ」
数学の岡谷先生である。彼は、何かと少年につっかかって来る。T大出身だとは聞いているが、やはりそれなりにプライドがあるのだろう。
少年がそんな事を気にした風もなく大欠伸をしたものだから、ついに頭に来たようである。
先生は、ぐっと唇を噛み締めた後、しばらく黒板に向かって問題文のようなものを書き連ねていた。
「おい、阿久津、暇そうだな。少し忙しくしてやる。この問題を解いてみろ」
黒板に書かれていたのは、かなり難解な数学の問題である。
「うぃ~す」
そう言って、少年は教壇に向かった。適当にチョークを取ると、無造作に解答を書き始めた。
一分ほど経ったろうか。少年がチョークを置いた。
「できましたよ」
岡谷は「えっ」と言って、黒板の解答を見た。
「……正解だ。しかも、こんなに早く。いくらお前でも、そう簡単に解けるわけがない。一体どうやったんだ」
「大したことありませんよ。でも、高校二年生のクラスに、T大医学部の入試問題を出すのって、大人げないっすよ」
この言葉に、岡谷は更に驚いた。
「そんなことまで知っているのか。お前、化け物か」
その問いにも、少年は何事もなく応えた。
「その問題、俺が作ったんすよね。最近は頼まれないけれど、昔はよく作ってましたよ。入試問題とか作るのって、いいアルバイトになるんすよ」
この答えに、岡谷はがっくりと肩を落とした。
「そ、そんな……」
この勝負、少年に軍配が上がった。
休み時間、教室内はざわついていた。雨はまだ降り続いている。雨の日は嫌いだ。嫌なことを思い出させる。
幼少期、他の子供達が幼稚園で遊んでいる頃、少年は筑波の研究所で実験とその解析をしていた。父の運転で研究所に向かう途中、幼稚園の前を通りかかった。雨で教室の中に集まっている園児達。保育士の先生に絵本を読んでもらっている子供達が羨ましかった。
十歳の時、『高密度固体蓄電材料の製法』の特許を取得した。これまでの特許と合わせて、莫大なライセンス料が毎年手に入るようになった。それで、両親は東南アジアで暮らす事を決め、少年を一人空港に置き去りにしたまま、飛行機で旅立っていった。今でも忘れていない。雨で煙る滑走路を、両親を乗せた飛行機が飛び去っていくシーンを。
雨の日は嫌いだ。いつも自分が独りであることを思い出させる。
今日の最後の授業が終わった。さてどうしよう。久し振りに、化学教室で新型の嘔吐弾でも作ってやろうか、などと物騒なことを少年は考えていた。
「博くん、帰ろ」
少女が、憂鬱そうな顔をしている少年に呼びかけた。
(そうか、今の俺にはこいつがいたんだったな)
そう思うと、今日一日のうっとおしさが、消えていくような気がした。
「ああ、帰ろう」
少年は、少女にそう応えると、席を立った。
靴を履き替え、傘を持って外へ出る。黒い傘を開くと、そこだけ雨のない空間が出来上がった。
「一緒に入れて」
少女が少年の傘の中に入ってきた。
「生美、お前、傘忘れたのか? でも、今日は登校時から降ってたよな」
少年は怪訝な顔をして、少女を見つめた。
「エヘ。何だか今日は、相合傘で帰りたい気分なの」
「そうか。それもいいな」
少年は、心がほぐれていくのを感じた。そうだ、自分はもう一人ぼっちではないんだ。
「もっと近寄ってくれないと、わたしが濡れちゃうよ」
「分かった、生美。分かったから」
少女は、少年の腕にからみ着くように寄り添った。
「今日の博くん、何だか凄く辛そうに見えたから。一人ぼっちでいるみたいで、辛そうだったから。だから、わたし、博くんに『一人じゃないんだよ』って、言いたくて……」
「うん、分かっている。生美にかかったら、俺の事なんてバレバレだな。お前はエスパーか?」
「違うよ。わたしには、もう、博くんしか目に入らなくなっちゃったから。そしたら、今日は博くんが淋しそうに見えたから……」
「生美、ありがとう」
「うん」
少年と少女は、雨の中に切り取られた円筒の空間で、二人きりだった。交わす言葉も少なかった。でもそれで充分だった。もう一人じゃない。
少年は、少女が濡れないように、歩調を合わせてゆっくり歩いていた。
二人だけの帰り道、公園の草陰に小さな三毛猫が雨宿りをしていた。野犬が条例の下で駆逐され、飼い犬が登録制になってから久しい。天敵のいなくなった所為か、野良猫が増え始めた。こいつも、そんな野良の中の一匹かも知れない。
少女は屈み込むと、小さな猫の頭を撫でていた。
「お前、一人なの? お母さんは? 兄弟は?」
少女の問いに答えるように、子猫は「ニャア」と鳴いて、喉をグルグルと鳴らした。
「お前も一人じゃないよ。きっと誰かが見ていてくれてるからね」
そう少女が頭を撫でながら言うと、子猫は頭をかしげて少女と少年を見上げた。そして、身体をブルブルと震わせると、辺りに水飛沫が飛び散った。
「うわっ。もう、猫ちゃんたらヒドイ」
「ははは。ほら、ハンカチ」
「もう、笑うなんて、博くんもヒドイ」
「笑ってないよ。生美達が、すごくほほえましかったから」
「そかな。やっぱり、猫と本気で話してるのって、変かな?」
「変じゃないよ。それが生美の良いところだから」
(そう、この娘は、そう運命づけられてこの世に生まれてきたんだ)
少年は、心の中でそう思った。だが、どうしてそんなことを自分が知っているのか? どうしてこんなことを思ったのか? 天才のはずの少年にも分からなかった。
「それじゃ、猫ちゃん、バイバイ。しっかり生きるんだよ」
少女はそう言って、また少年と歩き出した。
少し先で、二人が横断歩道を渡ったすぐ後、<キキー>という急ブレーキの音がした。気になって振り返ると、さっきの猫が車に引かれたのだろうか、道路脇の電柱の根元で血だらけになっていた。
引いた車の方はそのまま行ってしまったのか、止まっている自動車は一台も見当たらない。
「きゃああ、大変。早く助けなきゃ」
少女は、赤信号にもかかわらず、道路を横断しようとしていた。
「待て。落ち着け、生美。今度はお前が引かれるぞ」
少年は、急いで少女を制した。
二人はイライラしながら、信号が青に変わるのを待っていた。
「青になった!」
走って、子猫のところへ急ぐ。
子猫の小さな身体は血まみれではあったものの、かろうじて息はしているようだった。
少年は、スマホを改造したマルチPDAを取り出すと、子猫の状態をスキャンしていた。
「裂傷、骨折、出血多量、中でも肋骨の一本が折れて肺に刺さっているのが最も危険だ」
少年の対応は素早かった。いち早く、医療用のナノマシンと人工血漿を投与すると、自分のシャツを脱いで子猫に巻いて抱き上げた。すぐ側の公園には、屋根つきのテーブルがあったはずだ。
少年は雨の中をテーブルに急ぐと、すぐさま応急処置に取り掛かった。
「生美、ここで応急処置の手術をする。アルコールで手を消毒して、この手袋をするんだ」
「ええ! わたし、そんなのしたことないよぉ。できないよぉ」
「出来る出来ないじゃない。やらなきゃ、死ぬんだ」
少年の強い語気に、一瞬は怯んだものの、少女は助手を行うと決めたようだ。
「わかった。どうすればいい? 博くん、教えて」
少年は、猫の容体を伝え、やるべきことを教えた。
「左足骨折、背中と後頭部に裂傷。それと前足の捻挫、打撲傷。だが一番厄介なのは、肋骨の骨折だ。折れた骨が肺に突き刺さっている。足の骨折は後回しでいい。裂傷、その他の内出血・打撲傷なんかはさっき投与したナノマシンの医療プログラムが対処してくれる。しかし、肺に刺さった骨だけは、今すぐここで処置しないと致命傷になる。よって、これより緊急開胸手術を行い、肺の穴をふさぐ。出来るか?」
「うん、やる」
少女は多量の出血で身体をひくつかせている小動物を助けるためには、自分に何が出来るか悟ったようだった。
「まず、開胸部の毛刈りと消毒だ。猫を仰向けにして、手足を押さえていてくれ」
少年は、てきぱきと毛刈りと消毒を行うと、開胸手術に取り掛かろうとしていた。
「生美、俺が胸を切り開くから、傷口が閉じないように、両手で引っ張っててくれ。かなり力がいるぞ」
「わかった」
「じゃぁやるぞ」
少年が、手に取ったナイフで慎重に胸を切り開く。すぐに傷口から大量に血があふれてきた。
少女はあまりの血の量に、目の前がくらくらしそうになったが、なんとか言われた通りに開口部を維持していた。
(わたしが頑張らなきゃ、この子が死んじゃうんだ。死んじゃダメだよ。わたしも頑張るから、君も頑張ってね)
その間に少年は、慎重に邪魔になる肋骨を切断すると、肺を露出させた。そして、肺に突き刺さっている骨の周辺を観察した。一時的に心肺停止の状態にあるようだが、投与したナノマシンが強引に体液の循環を維持させている。だが、それがいつまで保つのか。少年は、小さく細い骨をピンセットで摘まむと、ゆっくりと慎重に、だが迅速に注意深く引き抜いていった。そこへ、応急処置として生体融合フィルムを張って穴を塞ぐ。他の臓器に損傷がないかを、しっかりと再確認する。
次は縫合だ。肺に突き刺さっていた骨は、根元で粉砕されていたので、そのまま除去する。切断した肋骨は一時的にピンで止めた。もうあまり猶予はない。彼は、ピンセットを使って、恐ろしく早く、しかも正確に開胸部を縫合した。思わず「ふぅ」と溜め息が漏れる。
「胸部術式終了」
だが、心臓は止まったままだ。少年は傍らのPDAに音声入力でコマンドを実行させた。数分以内に、ナノマシンが子猫の小さなポンプを再起動させてくれる。そのはずだ。その間に次の処置を済ませなくては。
「生美、俺が左足を引っ張っているから、骨折部に添え木をして固定するんだ。俺のカバンの中に粘着テープが入っているはずだから、それを使ってくれ。添え木は、その辺の木切れで構わん。無ければ、鉛筆でもボールペンでもいい。出来るか?」
「うん、任せて」
十数分後、走る少年の腕の中に、包袋の代わりにシャツでぐるぐる巻きにされた子猫がいた。かろうじて息はある。少年と少女は、あらかじめ一番近くの動物病院をスマホで検索して、連絡を取っていた。
二人は自分達が濡れるのも忘れて、雨の中を動物病院に急いだ。
到着すると、病院ではすでに受け入れ準備が出来ていた。少年は手短に症状と、施した応急処置の内容を話すと、看護師に子猫を引き渡した。
病院ではすぐに、治療が開始された。
──何時間経ったのだろうか?
二人とも、病院で渡されたバスタオルを羽織ったまま、ソファに座っていた。少女は祈るように両手を握りしめている。少年も血だらけのまま、眠るように薄眼を開けたまま、ソファにもたれかかっていた。
そして、やっと手術室の扉が開き、動物病院の医師が出てきた。
「かろうじて山は越したよ」
「ほんとですか? やった、やったよ博くん」
「こんなのは、二年前のリビア以来だ。腕が鈍ってなくてよかったよ」
これを聞いて獣医師は、
「そうか、君があの阿久津君かい? 同じ町に住んでるって聞いていたが。道理で応急処置にしては革新的な技術が使われていたわけだ。子猫一匹に、ナノマシンや人工血漿を惜しみなく使えるのは、うちみたいな零細病院じゃとても無理だったからね」
「従軍医師時代に、大勢の死体や、死んでいく人を診てきた。命の火が消えるのを見るのは、人間だろうと動物だろうと気分のいいものじゃない。ナノマシンも生体融合フィルムも、俺の傘下の企業で作ったものだ。今なら格安にしておくが、……どうだい?」
「言葉だけ受け取っておくよ。いい仕事だった」
そんなやり取りの後、二人は病院を後にした。
ホッとしてお互いの顔を見合うと、思わず吹き出してしまっていた。何故なら、二人とも怪我人のように血だらけだったからだ。
「生美、まずは俺ん家に寄って、血糊を落としてけよ。でないと、親御さん達、腰抜かすぞ」
「そう言う博くんだって、ゾンビみたいだよ」
「はは、あんなことやるのは、久し振りだったからな。まだ、手が震えている」
「わたしも、なんか力抜けちゃった」
「あ、そういや俺の傘。どこやったんだっけ」
「大丈夫だよ、博くん。わたしの傘があるから。博くん家まで、わたしので相合傘ね」
「了解」
(今まで、自分は人を殺すために生まれてきたような気がしてたが、命を助けるのってのも悪くはないな)
少年は、何故今までそう思っていたのか、どうして今になってうっとおしい気分が晴れたのか、分からなかった。しかし、少年の手で、一つの命が救われたのは確かなことだ。
こうして、この日も無事に終わり、人類は、その絶滅へのタイムリミットを一日分延ばすことが出来たのだ。




