第9話 初めての仕事 初めてのトラブル
元S級冒険者バルトロのもとでの地獄のような特訓、そして天才騎士ロミアとの再会と圧倒的な敗北を経て、俺たちは晴れて冒険者としての第一歩を踏み出した。
あの登録の日から、数日が経過した。
「うーん……やっぱり、せっかく飛び級でD級になったんだし、薬草採取とかドブさらいじゃ物足りないわよねえ」
活気と熱気に満ちた、都市アドレナの冒険者ギルド。
その中央に設置された巨大な木製の依頼板の前で、テール先輩が長い髪を揺らし、腕を組んでうなっていた。その視線は、下位ランクであるF級やE級の依頼欄を完全に通り過ぎ、D級のエリアをじっと睨みつけている。
「俺はぶっちゃけ、命が助かるなら何でもいいっすよ。まぁ、あのアル中ジジイの地獄のシゴキに比べたら、どんな凶悪な魔獣が目の前に来ても天国に見えそうですしね」
ジャックが苦笑いしながら両手を頭の後ろで組み、肩をすくめた。
数日前までのジャックなら、依頼板の前でもどこか緊張を崩せなかったはずだ。だが今の彼の立ち姿からは、余計な力みが完全に削ぎ落とされている。弓使いとして、いつでも最速で最適の挙動を取れるような、しなやかな自然体。
そんな二人のやり取りを見ながら、ルークはボードの端にピンで留められていた、一枚の羊皮紙に目を留めた。
「ねえ二人とも、これなんてどうかな?」
ルークが指差したのは、赤茶色のインクで危険マークが押された依頼書だった。
『依頼内容:街道に出没する凶暴熊の討伐』
『制限ランク:D級以上』
『報酬:大銀貨三十枚(および討伐部位の買い取り)』
「お、いいじゃんルーク。初陣としては最高に歯応えがありそうだ」
「凶暴熊ね……。新人がまともに喰らえば一撃で即死するクラスだけど、今の私たちならちょうどいい小手調べになりそうね」
ルークがピンを抜き、剥ぎ取った依頼書を持ってカウンターに向かおうとした、その時だった。周囲のガヤガヤとした雑音の中から、あからさまにトゲのある、聞こえよがしな嘲笑が飛んできた。
「おいおい、見ろよ。おままごと気分のガキどもが、いきなりワイルドベアの依頼を持ってったぞ」
「あいつら、例の奴らだろ? あの伝説のバルトロと、王国最年少の天才騎士ロミアの二大巨頭から、コネで推薦状を貰っていきなりD級になったっていう……」
「チッ、恵まれた血筋か何か知らねえが、いいご身分だな。実戦の厳しさも死の恐怖も知らねえ世間知らずが、森で熊の餌にでもなりゃあ少しは目が覚めるだろ」
ベンチに腰掛け、安酒を煽っていた中堅らしき荒くれ冒険者たちが、冷ややかな視線をルークたちに投げかける。
ジャックの目が一瞬で鋭くなり、腰の長弓へと手が伸びかけた。テール先輩も槍の石突を床にトントンと打ち付け、不機嫌そうに眉をひそめる。
だが、ルークは二人の前にそっと手を出し、首を振ってそれを遮った。
「ほっとこう、ジャック、テール先輩。俺たちの実力は、口じゃなくて結果で見せればいい」
ルークの真っ直ぐな瞳には、周囲の嫉妬や雑音など一ミリも入っていなかった。
見据えるのはただ一つ、あのロミアの圧倒的な強さ。彼女の領域にまで駆け上がるための、目の前の確実な一歩だけだ。
カウンターで手続きを終えた受付嬢も、「本当に大丈夫ですか……? ワイルドベアはベテランでも命を落とすことが……」と心配そうな顔をしていたが、ルークたちの揺るぎない目を見て、最後は押し黙って書類を受理してくれた。
アドレナの街の外に広がる、深い緑に包まれた魔獣の森。
木漏れ日が差し込む街道を歩きながら、3人はそれぞれの武器の感触を確かめていた。
「ねえ、ルーク。さっきのギルドの奴らの言葉、本当に気にしてないの?」
テールが槍の穂先を点検しながら、そっとルークの横顔を覗き込んできた。
「うん、全然。だって、俺たちがバルトロ師匠のもとでどんな訓練をしてきたか、あいつらは知らないんだから。それに……」
ルークは腰の剣の柄に手を当てた。
「ロミアに言われたんだ。『今のお前じゃ、俺には勝てない』って。それが悔しくて、今は他の誰かに何を言われても、どうでもいいんだ」
「……相変わらず、あんたのその真っ直ぐな目、ずるいわね」
テールは小さくため息をつき、ふいと顔を赤くして視線を逸らした。
「おいおい、前方に巨大な魔力反応だ。お熱いお喋りはそこまでだぜ、二人とも」
前方を警戒していたジャックが、低く鋭い声で警告を発した。
草木をかき分け、開けた空間へと足を踏み入れたその瞬間──。
大気をびりびりと震わせるような、凄まじい地鳴りのような咆哮が響き渡った。
「グルゥゥゥオオオオオオオッッ!!」
巨木の間から泥を跳ね上げて姿を現したのは、体長3メートルを遥かに超える巨体。全身を針のように硬い漆黒の毛皮で覆い、太い丸太のような前足には鉄をも引き裂く鋭い爪を光らせた、森の暴君──凶暴熊だった。
その凶悪な赤い眼がルークたちを捉え、凄まじい風圧と共に突進してくる。地響きが足元から伝わり、普通の新人冒険者なら、その圧倒的な質量と威圧感だけで腰を抜かし、逃げることすらできずに圧殺されるクラスの化け物だ。
だが。
「……あれ?」
ルークは思わず、拍子抜けしたような呟きを漏らした。
目の前の大質量が、殺意を剥き出しにして迫ってきているというのに、不思議なほど恐怖を感じない。それどころか、バルトロのあの、視認することすら不可能だった超高速の木刀の軌道に比べたら、熊の突進はまるで泥の中を泳いでいるかのように「遅く」見えたのだ。
「ジャック、テール先輩、いくよ……! 特訓の成果、見せてやろう!」
「応ッ! 先制打は貰うぜ!」
最初に動いたのはジャックだった。
背負った矢筒から流れるような動作で矢を引き抜き、弓に番える。無駄な力みが完全に消えた滑らかな挙動。限界まで引き絞られた弦から、放たれた一矢。
シュバッッ!!!
鋭い風切り音を立てて空を裂いた矢は、寸分の狂いもなく、突進してくるベアの右目を正確無比に射抜いた。
「ギャアァァァッッ!?」
ベアが激痛に狂い、突進の軸が大きくブレる。
その瞬間、テールが地を蹴った。
無駄な跳躍はせず、低く、最短距離を這うような鋭い踏み込み。かつての教科書通りの美しい槍術ではない。バルトロに叩き込まれた、泥臭くも確実に相手の急所を殺す実戦仕様の槍。
「そこぉッ!!」
裂帛の気合と共に放たれた槍の一撃が、ベアの強靭な左前足の腱を正確に深く切り裂いた。
右目を潰され、左足の自由を奪われた巨躯が、ドスゥゥン! と派手な音を立てて前のめりに崩れ落ち、無防備な首元を晒し出す。
「これで──トドメよ、ルーク!!」
「任せて──っ!!」
テール先輩の叫びに応え、ルークは爆発的な踏み込みでベアの懐へと一気に潜り込んだ。
腰の剣を逆手に引き抜くと同時に、体内の奥底に眠る魔力の鍵を完全に解放する。
──もう、この力は怖くない。
瞬間、引き抜かれた刀身が爆発的な紅蓮の業火に包まれ、暗い森の奥を一瞬にして真昼のように真っ赤に照らし出した。
──『赫剣』。
「おおおおおッ!!」
ルークは咆哮と共に、手元にすべての熱量を集中させ、ベアの太い首筋に向けて一文字に剣を振り抜いた。
ロミアの絶対的な魔力障壁には届かなかった炎。だが、一般的な魔獣の肉体相手なら──。
ズバァァァンッッ!!!
激しい爆炎の轟音。
次の瞬間、ワイルドベアの巨体は、その強靭な骨ごと肉を焼き切られ、一言の断末魔も上げることなく地面へと崩れ落ちた。
切り口からはじゅうじゅうと煙が立ち上り、炭化した肉の匂いが周囲に広がる。ぴくりとも動かない。完全なる、一撃必殺だった。
静まり返る森の中、ルークはふぅと息を吐き、剣に纏わせた炎を消して鞘に収めた。
「すっげえ……マジかよ。あのワイルドベアを、たったの一撃かよ……」
ジャックが弓を携えたまま、呆然とベアの巨体を見つめて感嘆の声を漏らす。
「本当に、あの数日間の地獄の特訓で、信じられないくらい強くなってるわね、私たち……」
テール先輩も、自分の槍の穂先を見つめながら、興奮と喜びで頬を紅潮させていた。
「うん。やっぱりバルトロ師匠の特訓は本物だったんだ。俺たちの実力は、もう……」
ギルドの荒くれ者たちから「コネ」だと罵られた新米パーティー。だがその実力は、連携も含めて、すでに通常のD級、あるいはC級の冒険者すら遥かに凌駕する領域に達しつつあった。
自分たちの成長を確信し、笑い合おうとしたその時──。
カチリ。
ルークの足元で、大気が凍りつくような、不気味な音が響いた。
「……ん? 何だ、これ……?」
ルークが眉をひそめて視線を落とす。
倒したはずのワイルドベアの死体。その傷口や炭化した毛皮の隙間から、まるで生き物のように、どす黒い霧のような不気味な魔力がモヤモヤと立ち上り始めたのだ。
その霧が周囲の草木に触れた瞬間、青々とした葉が一瞬にして黒く枯れ果てていく。
「おい、ルーク、テール先輩……! なんか、空気がおかしいぞ……!?」
ジャックの声が裏返る。
先ほどまで鳥のさえずりが聞こえていた森から、一切の生き物の気配が消え失せていた。代わりに満ちていくのは、肌を刺すような圧倒的な『狂気』の気配。
直後──。
ガサガサガサガサガサガサガサガサッッッ!!!
森の奥、周囲を囲むあらゆる茂みが、異常な勢いで激しく揺れ始めた。
地響きが鳴り響く。
一つ、二つ、十や二十ではない。
暗闇の向こうから、赤く濁った無数の『飢えた獣の目』が、一斉にルークたちをロックオンした。
「ウルフの群れ……!? いや、それだけじゃない! オークに、大蜘蛛に……おいおい、嘘だろ!? なんで違う種類の魔獣が、こんなに大群で押し寄せてきてるんだよ!」
ジャックが顔を引きつらせ、再び矢を番える。
本来なら縄張りを争うはずの異なる種類の魔獣たちが、まるで何かに操られるように、あるいは何かから必死に逃げ出すように、狂った目でルークたちを取り囲んでいく。その数、優に百は超えている。
「くっ、囲まれた……! 迎撃するわよ、二人とも!」
テールが槍を構え直すが、その手はかすかに震えていた。さすがにこの数は、D級の範疇を完全に超えている。
「みんな、落ち着いて! 固まって戦おう!」
ルークは再び剣を引き抜き、『赫剣』の炎を燃え上がらせた。
楽しいはずだった初めての討伐任務は、一瞬にして、森全体の異常事態──誰も予想だにしなかった『魔獣の暴走』の予兆へと変貌を遂げようとしていた。
暗闇から、無数の魔獣が咆哮と共に一斉に飛びかかってくる。
ルークたちの真の実力が試される、本当の死線がここから始まる──。




