第5話 路地裏の隠居者
夜通し馬車を走らせ、どこまでも続く高原を突き進む。
地平線の向こうから燃えるような日の出が顔を覗かせたその時、朝日に照らされた巨大な街並みが姿を現した。
ルビー領の首都──大都市『アドレナ』だ。
故郷の村とは比べ物にならないほど高くそびえ立つ防壁と、無数にひしめき合う建物の影。
「やっと、着いた……」
ルークが安堵の息を漏らした、その時だった。
ヒヒィン……ッ!!
突如、馬が悲痛な鳴き声を上げ、その場に激しく膝を折った。
「おい、大丈夫か!?」
ジャックが慌てて御者台から飛び降り、馬の様子を確認する。だが、限界まで酷使された馬は荒い息を吐くだけで、もう一歩も動けそうになかった。
「クソッ……流石にここまでぶっ通しで走らせすぎたか。馬が完全にイカれちまってる」
「文句を言っても始まらないわ。ここからは歩くわよ。ルーク、荷台から降りて」
テール先輩が冷静に荷物をまとめ、歩き出す。アドレナの街はすぐそこに見えていた。もう少し、あと少しのはずだった──。
しかし、遮るもののない高原の徒歩移動は、想像以上に時間を食った。
じりじりと照りつける太陽が頭上に上り、ようやくアドレナの巨大な正門へとたどり着いた時には、不運にも時計の針はすでに正午を回ってしまっていた。
そして、その「遅れ」が致命傷となる。
「おい、次! 身分証を出せ!」
正門に並ぶ群衆の先で、甲冑を着た衛兵たちが、異様な殺気を放ちながら一人一人の顔を厳しく改めているのが見えた。その手には、何枚かの人相書きが握られている。
嫌な予感がして、ルークは思わず足を止めた。
衛兵たちの怒声が、風に乗って耳に届く。
「──『灰色の鋼鉄』からの緊急伝達だ! 昨晩、近隣の村を燃やして逃走した凶悪な能力者の一味、特徴は水色の瞳を持った少年と……」
「っ!? もうここまで話が回ってるの……!?」
テール先輩が息を呑む。
すでに自分たちは、生まれ育った村を滅ぼした「国家規模の指名手配犯」として、この大都市に指名手配されていたのだ。
「誰だ、そこで動きを止めた奴は! ……おい、あの茶髪のガキ、手配書の顔に──」
不審に思った衛兵の一人が、ルークを指さして叫んだ。
「チッ、バレたか! 走るぞ二人とも!」
ジャックが大声を上げると同時に、3人は踵を返して全力で走り出した。
「待て! 逃げるな! 侵入者だ、追えーーッ!!」
背後から響き渡る怒号と、ジャランジャランと重々しい甲冑を鳴らして追いかけてくる無数の足音。
「こっちよ、路地裏に逃げ込むわよ!」
テール先輩の先導で、きらびやかな大通りを外れ、建物の隙間に広がる薄暗い路地裏へと飛び込む。複雑に入り組んだアドレナの迷路のような影を、息を切らしながら無我夢中で駆け抜けた。
「ジャック、ロミアの紹介状にはなんて書いてあるの!?」
「ええっと、確か……このエリアの、一番奥にある寂れた酒場だ!」
追手の怒声がすぐ近くまで迫る中、行き止まりかと思われた路地の最奥に、古びた木製のドアが見えた。看板には文字すら掠れた酒の絵が描かれている。
「ここだ! 入れっ!!」
ジャックが勢いよくドアを押し開け、3人は転がり込むようにしてその酒場へと滑り込んだ。
──バタンッ。
静かにドアが閉まり、外を走る衛兵たちの足音が遠ざかっていく。
かび臭い空気と、ツンとした安酒の匂い。
荒い呼吸を繰り返しながら、ルークが恐る恐る店内の様子を窺うと──。
「んあー……。なんだぁ? 昼間から騒々しいのう……」
カウンターの奥で、酒瓶を抱えながら、だらしなくいびきをかいていた一人の老人が、面倒くさそうに片目を開けた。
白髪交じりの無精髭。だらしなく着崩した衣服。
そして何より異質だったのは、その老人の左の袖が、肩の近くからすっぱりと切り落とされ、【左腕が丸ごと失われている】ということだった。
「……ロミアの紹介状を、持ってきました。バルトロさん、ですよね?」
ジャックが息を整えながら、懐からくしゃくしゃになった手紙を差し出す。
隻腕の老人は、面倒くさそうにポリポリと頭を掻きながらそれを受け取ると、片目で器用に手紙を広げた。
「ほぅ……ロミアの小僧か。あやつ、元気にやっとるようじゃな。……して、これはいったい何事かのう?」
バルトロは手紙から目を離し、ケラケラと、しかしどこか含みのある笑い声を上げた。
「ほっほっほ。国家規模のお尋ね者を匿え、と。あやつもずいぶんと無茶な置き土産を置いていきおる。……おや? そこにおるお嬢ちゃん、なかなかのべっぴんさんじゃな。いい体つきもしておる。どうじゃ、ワシに美味い酒でも注いではくれんかね?」
「はぁ!? 何言ってるのよこのエロじいさん!」
テール先輩が即座に軽蔑しきった目を向けるが、バルトロは気にした風もなく「つれないのう」と肩をすくめる。
しかし、そのふざけた空気は一瞬で霧散した。
バルトロがふらりとカウンターから出てきて、ルークの前でピタッと足を止める。
その濁った片目が、ルークの水色の瞳と、腰の片手剣をじっと見つめた。
「……小僧。その剣、ちょっと抜いてみぃ」
お茶目だった老人の声から、一瞬だけ、骨の髄まで凍りつくような冷徹な響きが漏れ出た。
ルークが気圧されながらも、腰の片手剣を半分ほど引き抜いた、その刹那──。
──ドォン!!!
「っ!? なんだ、この空気……っ!?」
ジャックが思わず息を詰まらせ、一歩後ずさる。
物理的な衝撃波ではない。だが、まるで世界の天頂に君臨する巨大な存在の前に引きずり出されたかのような、圧倒的な【圧】が酒場を支配した。
バルトロの背後に、数多の修羅場を文字通り血に染めてきた【元S級冒険者】の、底知れない怪物の影が揺らめいている。
老人は、ルークの身体の奥底でうごめく、あまりにも膨大で、あまりにも凶悪な『火の気配』を正確に感じ取り、獰猛に口元を歪めた。
(……ほぅ。これは驚いた。黒の渦の能力者などというチャチなレベルではないのう。王国中をひっくり返したとて、これほどの『火』を宿した化け物は見たことがないわい……)
「ほっほっほ、なるほど、なるほど」
バルトロがパチンと指を鳴らすと、周囲を押し潰していた圧が、嘘のように綺麗に消え去った。老人はまた、いつもの飄々とした笑顔に戻って酒瓶を煽る。
「いいじゃろう。ロミアへの義理もある。しばらくここに置いたるわい。……ただし、ワシはもう引退した身。タダで面倒を見るほど優しくはないぞ? 毎日の飯炊きに酒の買い出し、しっかり働いてもらうからのう」
バルトロは空になった酒瓶をテーブルに置くと、ルークの顔を覗き込んだ。
「小僧。お前さん、その『火』に怯えておるな? 己の力に呑まれるようでは、待つのは破滅だけじゃ。……命が惜しくなければ、明日からわしについて来い。お前を鍛えちゃる」




