第21話 夜明けの灯火
「……なるほど。ガロンもバルカスも、所詮はその程度だったというわけね。異能の力に溺れた者は、やはり脆いわ」
3人目の人物が、低く冷徹な、しかし鈴の鳴るような澄んだ「女の声」で呟いた。
女はゆっくりと頭のフードを外した。現れたのは、青白く、血の気の引いた冷たい美貌を持つ女だった。切り揃えられた漆黒の髪の隙間から覗くその瞳には、一切の感情が抜け落ちており、底知れない闇が広がっている。
「誰だ、お前は……!」
ルークが剣を構え直し、鋭く問いかける。
しかし、女はルークの問いを無視し、ただ冷ややかに彼の手元にある『赫剣』へとその視線を落とした。
「ルーク。お前の『火』の進化……そして、その手に持つ器。確かに我が組織『ネファリウス』にとって、これ以上の観測は不要。今ここで、あなたたちを処理してしまってもいいのだけれど」
女はそこで言葉を区切ると、足元に倒れているガロンを見下ろした。
「……今日のところは、この役立たずどもの回収を優先してあげるわ。まだそこの『火種』を完全に刈り取るには、準備が足りていないもの」
女が歪に、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、ルークとジャックの足元の影ではなく──倒れているガロンと、遥か先で首をはねられたバルカスの死体の周囲の影が、まるで生き物のように不気味に蠢き始めた。
「待て! 逃げる気か!」
ルークが思わず一歩を踏み出す。
しかし、蠢く漆黒の影は瞬く間にガロンとバルカスの体を包み込み、そのまま底なしの泥に沈むようにして、空間ごと二人を吸い込んで消し去ってしまった。
「おっと、そこまでにしてもらいましょうか。これ以上の追跡は、あなたたちの命に関わるわよ」
いつの間にか、女の背後の空間がぐにゃりと歪み、ドス黒い闇のゲートがポッカリと口を開けていた。
女は一歩、また一歩とその闇へと後退していく。ルークとジャックは完全にその圧倒的な気配に気圧され、追撃の足を動かすことすらできなかった。戦う意思をまるで見せていないのにも関わらず、女から放たれるプレッシャーは、先ほどの二人とは比較にならないほどに重く、冷たい。
「私はネファリウスの幹部、セレイア。ルーク……その炎が次に私たちの前に現れる時が、あなたの命の灯火が消える時よ。精々、それまでその小さな火を絶やさないように、必死に抗いなさい」
くすくすと、感情の籠もらない冷たい笑みを残し、女──セレイアの姿は、闇のゲートの縮小と共に、荒野の夜風へと完全に掻き消えていった。
後に残されたのは、激しい戦闘によってボロボロに破壊されたクレーターと、焦げ付いた大地の匂い。そして、夜空を静かに見上げるルークとジャックの二人だけだった。
「……行っちまったな。とんでもねえ女だぜ」
ジャックが張り詰めていた肩の力を抜き、弓を背中に戻しながら深くため息をついた。
「ああ……でも、これでひとまず、襲撃は防げたんだな」
ルークは自分の手の中にある赫剣を見つめ、それから先ほど体中を巡った『オレンジ色の炎』の温もりを確かめるように拳を握りしめた。ネファリウスという組織の本当の恐怖の片鱗を味わいながらも、自分たちが一歩前へ進んだことを、ルークは静かに噛み締めていた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
東の地平線から、薄暗い紫色の光がゆっくりと差し込み、荒野を静かに照らし始めていた。張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、ルークを急激な疲労が襲う。全身の筋肉が鉛のように重く、進化したオレンジ色の炎を宿していたはずの体内は、今や空っぽになったかのように冷え切っていた。
「……終わった、んだな」
ルークは『赫剣』をゆっくりと鞘に収め、その場に膝をついた。地面からは、いまだに焦げ付いた土と、ネファリウスの刺客たちが放っていたドス黒い魔力の残り香が漂っている。
「おい、ルーク! 大丈夫か!」
ジャックが慌てて駆け寄り、ルークの肩を支えた。ジャック自身も、バルカスの剛鉄の肉体を打ち破るために精密射撃を繰り返し、さらにその後の魔獣との乱戦で泥と返り血に塗れていた。それでも、彼の瞳には親友の無事と、そして先ほどの圧倒的な勝利への興奮がまだ微かに残っている。
「ああ、大丈夫。魔力を使い果たして、ちょっと力が入らないだけだよ……。それより、テール先輩は!?」
ルークはハッとして、戦いの最中に重傷を負って倒れたテールの方へと視線を巡らせた。
二人は急いで、テールが倒れている岩陰へと向かう。そこには、意識を失ったまま、壁に背をもたれかけさせているテールの姿があった。漆黒の呪いのような傷跡が、いまだに彼の体を蝕んでいる。
「テール先輩! しっかりしてください!」
ルークが揺り動かすが、テールはうめき声を漏らすだけで、目を覚ます気配はない。呼吸は浅く、体温は異常に低かった。
「呪いの魔力が、まだ体の中で暴れてるみたいだ……。俺の今の火なら、この呪いだけを焼き切れるかもしれない」
ルークは先ほど目覚めさせた『オレンジ色の炎』をイメージし、そっとテールの胸元に手をかざそうとした。だが、指先からはパチパチと小さな火花が散るだけで、あの圧倒的な熱量は生まれてこなかった。
「くそっ、魔力が足りない……!」
「焦るな、ルーク。お前はさっき、あの化け物みたいな三本腕を倒すために、ありったけの魔力を使い切ったんだ。無理すりゃお前の命に関わる。ここは一度、キャンプの医療天幕に運ぶのが先決だ。俺が担ぐよ」
ジャックはそう言うと、長弓を背負い直し、テールの巨体を器用に背負い上げた。A級冒険者としてのタフさと、バルトロに鍛え上げられた基礎体力が、ここで大いに活かされていた。
「すまない、ジャック。頼む……」
「気にするな。お前があいつを倒してくれなきゃ、全員ここで死んでたんだからな。さあ、行くぞ」
二人は足元のおぼつかない状態で、ゆっくりと西の防衛キャンプへと歩き始めた。
キャンプへ戻ると、そこは惨憺たる状況だった。
ネファリウスの魔道士たちが放った奇襲と、使役されていた大量の魔獣たちによって、強固だったはずの木柵はあちこちがなぎ倒され、天幕からは黒い煙が上がっている。生き残った冒険者たちが、負傷者の手当てや火の消火活動に追われ、慌ただしく走り回っていた。
「テール副団長だ! 誰か、回復魔道士を呼んでくれ!」
ジャックが声を張り上げると、キャンプの奥から数人の魔道士が血相を変えて駆け寄ってきた。
「なんてことだ、テール様がこれほどの重傷を……! すぐにこちらの天幕へ!」
テールはすぐに簡易ベッドへと運び込まれ、複数の魔道士による懸命な治療が始まった。しかし、治療にあたる魔道士たちの顔色は優れない。彼らの回復魔法を以てしても、ネファリウスの不気味な黒い魔力──テールを蝕む呪いを、完全に取り除くことは困難を極めているようだった。
「傷口は塞がりますが……この奇妙な魔力の汚染は、私たちの光魔法では相殺しきれません。これ以上の治療は、本部の高位聖職者か、あるいは──」
魔道士の言葉に、ルークは奥歯を噛み締めた。
やはり、あの『黒い霧』を根絶できるのは、ルークの持つ『火』の力、それも先ほど覚醒させた、あのオレンジ色の高密度の炎だけなのだ。ルークは静かに自分の手のひらを見つめ、魔力の回復を急がねばと焦りを募らせた。
治療天幕の外に出ると、朝の冷たい風がルークたちの火照った体を冷ました。
ジャックが近くの木箱に腰掛け、ふぅ、と深い息を吐き出す。
「それにしても凄まじかったな、あいつら。あれが能力者なのか…」
「能力だけじゃない。俺らが知らない攻撃方法もふんだんに使っていた。一撃が全部致命傷レベルで、俺の剣術は全く歯が立ってなかった。くそっ、悔しいぜ」
二人はまだ薄暗い空を見上げながら悔しさに拳を強く握りしめた。
「なぁ、ルーク。あの最後の女……。あいつ、一体何者なんだ? ガロンとかいう三本腕も、バルカスとかいう筋肉ダルマも、あいつの前ではただの捨て駒みたいだった」
「……分からない。でも、あの女から感じたプレッシャーは、今までのどんな敵とも違っていた。戦う素振りすら見せなかったのに、空気が凍りつくみたいだった」
ルークは、あの女が去り際に残した言葉を思い返していた。
『ルーク……その炎が次に私たちの前に現れる時が、あなたの命の灯火が消える時よ』
組織の名前は『ネファリウス』。
彼らは明らかに、ルークの持つ『火』、そして彼が持つ『赫剣』を狙っている。なぜ自分なのか。なぜこのタイミングなのか。そして、自分たちがこの西の戦線へ向かうという極秘情報が、なぜ彼らに漏れていたのか。
「……情報が漏れてる。ギルド本部に、裏切り者がいるのかもしれない」
ルークが低く呟くと、ジャックは息を呑んだ。
「本部に裏切り者……!? まさか。アドレナの幹部やS級冒険者たちが、あのネファリウスと繋がってるって言うのか?」
「確信はない。だけど、僕たちがここに来ることは、本部の作戦会議で決まったばかりだ。ネファリウスの連中は、僕がここに到着するのを待ち伏せしていた。そうでなければ、これほど正確な襲撃は不可能だ」
重苦しい沈黙が二人の間に流れる。
もし本部に内通者がいるのだとしたら、自分たちは常に手のひらの上で踊らされていることになる。誰を信じていいのか分からない、目に見えない恐怖が、荒野の寒さとなって二人の肌を刺した。
その時だった。
「……ふぅ、二人とも無事で本当によかった」
聞き覚えのある、芯の通った、でも少しホッとしたような声が天幕の入り口から聞こえた。
振り返ると、肩に痛々しく包帯を巻きつつも、愛用の槍を杖代わりにして、テールがよろよろと立っていた。
「テール先輩! まだ動いちゃダメですよ!」
ルークが慌てて駆け寄って支えようとする。テールは「大丈夫、これくらい平気よ」と苦笑いしながら首を振った。1歳年上なだけあって、こういう時は少し強がる癖がある。
「心配してくれてありがとう、ルーク。……それより、あの厄介な刺客を退けたそうね。さっきジャックから聞いたけど、本当に大金星じゃない。お疲れ様」
「テール先輩、僕の火が進化したんです。もう少し魔力が戻ったら、先輩の体の中の呪い、僕の火で綺麗に焼き切りますから」
ルークの言葉に、テールは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「へえ……あんたがね。昔は泣き虫だったルークが今はこんなになってるのね。見直したわ」
テールは包帯の巻かれていない方の手でルークの肩を軽く叩き、それから真剣な表情になって声を潜めた。
「それでさ、二人とも。少し真面目な相談があるんだけど、いい?」
「相談、ですか?」
ジャックが怪訝そうに問い返す。
「今回の襲撃で、ネファリウスの狙いがなんとなく見えた気がするの。あいつら、ここの防衛線を崩しにきたっていうより……明らかにルーク、あんたを狙って動いているわよね」
「僕を……」
「ええ。それに、ジャックの言う通り本部に内通者がいるっていうのも、ほぼ確実だと思う。こんな極秘の作戦が正確に筒抜けなんて、普通じゃあり得ないもの。このままあんたたちがここに残っていたら、またすぐに次の手が来ると思うのよね」
テールは悔しそうに顔をしかめ、腕を組んだ。
「普通に本部に報告を送っても、その内通者に握り潰されるか、待ち伏せされるのがオチじゃない? だからさ……いっそのこと、あんたたち二人で直接、ギルド本部に乗り込んじゃった方が安全だし確実じゃないかな、って思ったの」
「直接、本部に行くんですか?」
ルークが驚いて問いかける。
「そう。S級冒険者の『ルード』様を直接訪ねて、この状況を全部ぶちまけるの。あいつなら本部の闇も力尽くで引きずり出せるし、何よりあんたたちの身の安全を保証してくれるはず。……どうかしら? 私としては、今一番おすすめのルートなんだけど」
テールは少し悪戯っぽく笑いながらも、真剣な瞳で二人を見つめた。
命令ではなく、仲間を思いやる先輩からの真摯な「提案」だ。
「……そうですね。ここで次の襲撃を待つより、僕たちが動いた方がいい。本部に行って、あいつに直接真実を伝えましょう」
「お前がそう言うなら、俺も付き合うぜ」
ルークの力強い頷きに、ジャックも不敵な笑みで同意した。3人の決意とともに、地平線の先から赤い太陽が登って来て、三人の旅路を明るく照らしていた。




