第5話「溶け出す魔力と、冷たい指先の熱」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『視線には、温度があることを初めて知った』
城での生活が少しずつ日常へと変わっていく中で、奇妙な感覚が俺につきまとっていた。
背中を焼くような、鋭く静かな視線だ。
中庭の雑草を抜いている時。
廊下の窓ガラスを磨いている時。
重い荷物を運んで階段を上っている時。
ふとした瞬間に顔を上げると、必ずと言っていいほど、遠くのバルコニーや回廊の陰からゼファリアス様が俺を見下ろしている。
彼が俺に声をかけることはない。
新しい命令を下すことも、作業を咎めることもない。
ただ、氷のように冷たく青い瞳が、黙って俺の動きを追っているだけだ。
最初は見張られているのだと思った。
人間の俺が城で何か悪さをしないか、警戒しているのだと。
しかし、その視線には明確な敵意も、侮蔑の色も混じっていなかった。
ただ、そこにある。
呼吸をするのと同じくらい自然に、俺という存在を視界に収めている。
誰も俺を見てくれなかった金色の屋敷での日々とは違う。
その静かな視線を感じるたび、胸の奥が少しだけくすぐったく、そして温かくなるのを感じていた。
いつしか俺は、彼が見ていることを前提に動くようになっていた。
姿勢を正し、少しでも手際よく作業をこなそうとする。
馬鹿みたいな忠誠心だと、自分でも思う。
けれど、捨てられた俺を拾ってくれたこの人のために、俺は俺のすべてを使いたかった。
その異変は、冷たい雨が降る午後に起きた。
俺は書物庫から古い羊皮紙の束を運び出し、西棟の奥にある執務室へと向かっていた。
薄暗い廊下には窓がなく、等間隔に置かれた青い炎だけが唯一の光源だ。
冷えた空気が肺を満たし、歩くたびに微かな反響音が響く。
廊下の角を曲がった先で、黒い影が壁に寄りかかるようにして倒れ込んでいるのが見えた。
腕に抱えていた羊皮紙の束が、床に音を立てて散らばった。
「ゼファリアス様」
俺は声を上げ、弾かれたように駆け寄った。
魔王である彼は、片手で胸を強く押さえ、苦しげに息を吐いていた。
いつもは完璧に整えられている漆黒の髪が乱れ、雪のように白い肌には玉の汗が浮かんでいる。
青い瞳は焦点が定まらず、かすかに痙攣していた。
「近寄るな」
彼から発せられた声は、信じられないほどかすれ、弱々しかった。
しかし、俺の足は止まらなかった。
彼が発する巨大な魔力が暴走し、周囲の空気を歪めて肌を突き刺してくる。
目に見えない無数の刃に削られているような痛みが走る。
それでも俺は、床に崩れ落ちそうになる彼の体を、両腕でしっかりと受け止めた。
彼の上着越しに伝わってくる体温は、氷河のように冷え切っていた。
「ゼファリアス様、しっかりしてください」
俺が彼の背中に手を回し、強く抱き寄せた瞬間だった。
俺の胸の奥で、ドクンと大きな脈動が鳴った。
熱いものが、腹の底から湧き上がってくる。
それは俺の意志とは無関係に、皮膚を突き破って外へと溢れ出した。
触れ合っている部分から、目に見えない光の奔流が彼の中へと流れ込んでいく感覚。
ゼファリアス様の体が大きく震え、彼を押さえつけていた苦痛の表情が、驚愕の色へと変わる。
俺の中から流れ出た熱は、彼の凍りついた血管を溶かし、隅々まで行き渡っていくようだった。
痛みはない。
むしろ、自分の中の不要なものが抜け落ちていくような、奇妙な心地よさがあった。
ゼファリアスの呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
荒れ狂っていた魔力の暴走も、嘘のように静まった。
彼は俺の腕の中でゆっくりと顔を上げ、至近距離で俺の目を見つめた。
「お前は……何を、した」
その声には、かつてないほどの動揺が混じっていた。
「俺は、ただ支えただけで」
言葉を返そうとした時、背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「魔王様」
カイルが血相を変えて廊下の奥から駆け寄ってくる。
彼は俺とゼファリアス様の姿を見るなり、信じられないものを見るように目を見開いた。
「発作が、治まっている……? まさか、この人間が魔力を」
カイルは俺の腕を強く掴み、引き剥がすようにしてゼファリアス様から遠ざけた。
俺は床に尻餅をつき、荒い息を吐く。
自分の中から何かが大量に抜け出た反動で、ひどい目眩が襲ってきた。
「無属性どころではない。これは、どんな属性の魔力とも完全に共鳴し、補完する力……万色の魔力だ」
カイルの震える声が、廊下に響く。
ゼファリアス様はゆっくりと壁から背を離し、自力で立ち上がった。
彼の顔色はすっかり元に戻り、瞳にはいつもの冷たい光が宿っている。
しかし、俺を見る視線には、今までとは違う重い熱が混じっていた。
その日の夜、俺は執務室に呼び出された。
カイルが扉の外で見張りに立ち、部屋の中には俺とゼファリアス様の二人だけだった。
重厚な机の向こう側に座る彼は、しばらくの間、無言で俺の顔を見つめていた。
「余の体には、呪いがかけられている」
静寂を破った彼の声は、ひどく平坦だった。
「定期的に外部から魔力を取り込まなければ、内側から崩壊して消滅する。魔力枯渇症だ」
俺は息を飲み込んだ。
魔界を統べる絶対的な王が、そんな致命的な弱点を抱えていただなんて。
「今までは、特別な魔石を用いて発作を抑えていた。だが、先ほどお前が触れた時、お前の魔力が余の空虚を完全に満たした」
ゼファリアス様はゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで俺の目の前に立った。
「お前に命じる。月に一度、余に魔力を供給しろ」
それは命令だった。
逆らうことの許されない、王としての絶対の宣告。
俺は一歩も退かず、彼の顔を真っ直ぐに見上げた。
「俺の魔力で、ゼファリアス様の痛みがなくなるなら。喜んで差し出します」
「……己の命を削る行為だぞ。供給を続ければ、お前の寿命は確実に縮む」
「構いません」
即答だった。
自分でも驚くほど、声に迷いはなかった。
「俺は、あなたに拾われた身です。あなたが生きるために使えるなら、それが俺の存在理由になります」
ゼファリアス様の青い瞳が、微かに揺らいだ。
彼は何かを言いかけて口を閉ざし、ゆっくりと右手を持ち上げた。
黒い革手袋が外され、抜けるように白い素肌が露わになる。
その手が、俺の胸元にそっと置かれた。
布越しに伝わる指先は、雪のように冷たかった。
しかし、触れた瞬間から、俺の体内の魔力が彼へと吸い込まれていくのがわかる。
胸の刻印が熱を持ち、内側から光が溢れ出す感覚。
冷たい指先が、俺の熱を奪っていく。
でも、それは決して不快なものではなかった。
俺の中から流れ出たものが、彼の中で熱に変わり、彼を生かしている。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
静寂に包まれた執務室の中に、二人の呼吸音だけが重なり合う。
魔力の移動は、数分で終わった。
俺の体からは力が抜け、少しだけ足元がふらつく。
ゼファリアス様の手が離れる。
しかし、その動きはひどくゆっくりで、指先が最後まで俺の服の生地を惜しむように擦っていった。
彼は背を向け、窓の外の暗闇を見つめた。
「下がれ」
その声は、いつもの冷徹なものに戻っていた。
俺は深く頭を下げ、執務室を後にする。
扉を閉めた後、胸の奥に残った微かな温もりを、手でそっと押さえた。
彼は俺の魔力を求めた。
ただの道具としてだとしても、彼が俺を必要としてくれた。
その事実が、俺の空っぽだった心を、少しずつ満たしていくのを感じていた。




