第3話「氷の城で結ばれた、奇妙な主従契約」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
分厚い氷の層を割って息を吹き返すような、鋭い痛みを伴う目覚めだった。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界を埋め尽くしたのはどこまでも深く澄んだ黒曜石の天井だ。
空気を満たすのは、肺が凍りつくほどに冷たく、それでいて不純物を一切感じさせない清冽な空気だ。
自分が横たわっているのは、最高級の獣の毛皮が敷き詰められた信じられないほど広い寝台だった。
窓ガラスには幾何学模様の美しい霜が張り付いており、そこから差し込む青白い月光が、部屋全体を水底のように幻想的に照らし出している。
『ここは……どこだ』
霞む頭で記憶をたどる。
家を追い出され、灰の荒野で結界を越え、そして強烈な痛みに意識を奪われたところまでは覚えている。
俺は死んだのだろうか。
それにしては、掛け布団の重みも、シーツの滑らかな感触も、ひどく現実的だ。
体を少し動かそうとした瞬間、部屋の隅の暗がりから低く静かな声が響いた。
「目が覚めたか」
心臓が跳ね上がる。
声がした方へ視線を向けると、窓際の豪華な椅子の影に、一人の男が座っていた。
闇に溶け込むような漆黒の装束。
氷結した湖面を思わせる冷たく青い瞳。
そこに存在しているだけで周囲の空気が凍りつくような、圧倒的なまでの威圧感。
人間である俺でさえ、本能が警鐘を鳴らし続けるほどの力の差がそこにはあった。
『この人が、俺を助けてくれたのか』
状況を完全に理解するよりも先に、俺の体は勝手に動いていた。
弾かれたように寝台から飛び降り、凍りつくような冷たい石の床にひざまずき、深く頭を下げた。
男爵家で叩き込まれた、圧倒的な上位者に対する完璧な礼の姿勢だ。
「助けていただきありがとうございます、魔王様。どんな御用でも承ります」
迷いのない、澱みのない言葉だった。
空気が、奇妙なほどに張り詰める。
床に額をこすりつけたままの俺の頭上から、男の感情の読めない視線が突き刺さるのを感じた。
永遠にも思える数秒の沈黙の後、男は低く、ひどく困惑したような声を出した。
「……お前、死にたいのか」
「いいえ」
「なら、怯えろ」
思いがけない言葉に、俺は思わず顔を上げて男の顔を直視してしまった。
人間が魔界の王の顔を直接見るなど、不敬極まりない行為だ。
だが、彼のそのあまりにも整った顔立ちには、怒りよりも純粋な疑問が浮かんでいるように見えた。
「……怯えた方がいいですか」
考えをまとめる前に、思ったことがそのまま口からこぼれ落ちていた。
しまったと思ったがもう遅い。
再び、重い沈黙が部屋を支配する。
男は椅子のひじ掛けに頬杖をつき、俺の顔を穴のあくほど観察している。
恐怖がないわけではない。
彼の纏う魔力はあまりにも巨大で、息をするのすら苦しいほどだ。
けれど、あの金色の家で向けられていた冷酷な無関心に比べれば、今のこの真っ直ぐな視線は、不思議なほどに心地よかった。
「余はゼファリアス・グラシエル。この魔界を統べる者だ」
ゼファリアスは静かに名乗り、ゆっくりと立ち上がった。
彼が一歩近づくたび、床の冷気が濃さを増していく。
俺の目の前で立ち止まった彼は、見下ろすようにして言葉を続けた。
「お前の体内にある特異な魔力と、その忌まわしい刻印。死にゆくところを拾った代償として、お前の存在は余のものとする。ここで従者として働け。拒否権はない」
それは冷酷な命令だった。
道具として使い潰すという、明確な所有の宣言だ。
しかし、俺の胸の奥から湧き上がってきたのは、絶望ではなく、温かく安堵するような奇妙な感情だった。
「はい、ゼファリアス様」
俺は再び深く頭を下げ、顔を上げてにっこりと笑った。
誰かに必要とされたい。
ただ傍に置いてもらいたい。
その飢えを満たしてくれるのなら、相手が魔界の王であろうと構わなかった。
「……お前は、本当に奇妙な人間だな」
ゼファリアスの手が微かに動き、俺の頭に触れようとして、途中で止まった。
彼はそのまま指先を鋭く翻し、俺の胸元に向けて微かな魔力を放つ。
淡い青色の光が俺の肌に吸い込まれ、胸の奥に小さな熱を灯した。
それが、魔王と人間の間に結ばれた、絶対的な主従契約の証だった。
氷の城の凍てついた空気の中で、その小さな熱だけが、俺の体の中心でかすかな春の匂いを放っていた。




