番外編「氷の王の甘やかな独占欲」
◆ルシア・フォン・ヴェルナー
『温もりに慣れるということは、こんなにも恐ろしくて、幸福なことなのか』
分厚いベルベットのカーテンの隙間から、柔らかな朝陽が差し込んでいる。
グラシエル城の朝は相変わらず静かだが、かつての冷え切った空気はもうない。
最高級の獣の毛皮が敷き詰められた寝台の中で、俺はゆっくりと意識を取り戻した。
シーツの滑らかな感触よりも先に、背中に張り付く強固な腕の重みを感じる。
背後から俺の体を完全に包み込むようにして眠っているのは、魔界の王たるゼファリアス様だ。
彼の規則正しい寝息が、俺のうなじをくすぐっている。
「……ん」
少しだけ体を動かそうとすると、腰に回された腕がさらに強く締め付けられた。
完全にホールドされていて、身動きが取れない。
ゼフィロンとの決戦から数ヶ月。
世界は平穏を取り戻し、俺とゼファリアス様はこうして同じ寝台で夜を明かすのが当たり前になっていた。
血誓の契約によって魔力が循環しているため、物理的に触れ合っている方が互いの体が安定するという理由もある。
しかし、それ以上に彼は、俺を自分の視界から逃すことを極端に嫌がるようになっていた。
「ゼファリアス様、朝ですよ」
俺が小さく声をかけると、背後の大きな体が微かに動いた。
青い瞳がゆっくりと開き、まだ少しだけ眠気を帯びた視線が俺の顔に向けられた。
「……もう少し、このままでいろ」
掠れた低い声が耳元で響き、背筋にぞくりとした感覚が走る。
彼は俺の肩口に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「俺、今日から中庭の新しい花壇の手入れをする予定なんですけど」
「庭師にやらせろ」
「俺がやりたいんです。精霊たちも手伝ってくれるって約束しましたし」
「精霊どもは最近、お前に群がりすぎだ。目障りな」
本気で不機嫌そうな声に、俺は思わず苦笑した。
魔王様が精霊に嫉妬するなんて、誰が想像するだろうか。
なんとか彼をなだめて寝台から抜け出し、身支度を整える。
執務室に向かう彼を見送った後、俺は竹箒を手に廊下を歩いていた。
伴侶という立場にはなったものの、俺は相変わらず城の掃除や庭仕事を手伝っている。
何もしないで座っているのは性に合わないし、体を動かしている方が落ち着くからだ。
西棟の窓ガラスを磨いていると、背後からひどく冷ややかな気配が近づいてきた。
振り返らなくてもわかる。
「ルシア」
ため息交じりの低い声。
布を持ったまま振り返ると、ゼファリアス様が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
漆黒の装束に身を包んだ彼は、相変わらず圧倒的な美しさと威圧感を放っている。
「どうして掃除なんかしている」
「窓が曇っていたので。これくらいならすぐに終わりますよ」
「お前は余の伴侶だ。下働きのような真似をする必要はないと、何度言えばわかる」
彼は足早に近づいてくると、俺の手から濡れた布を取り上げ、窓枠に放り投げた。
そして、冷えた水で濡れた俺の手を、両手で包み込む。
「手が冷え切っているではないか」
彼の体温が、指先からじんわりと伝わってくる。
昔は雪のように冷たかった彼の手が、今はこんなにも温かい。
「平気ですよ。昔に比べたら、全然」
「昔の話はするな。お前が不遇だった記憶など、余がすべて上書きしてやる」
ひどく傲慢で、真っ直ぐな言葉。
俺は胸の奥が甘く痺れるのを感じながら、彼を見上げた。
「……ゼファリアス様は、少し過保護すぎませんか」
「過保護で何が悪い。余のものを、余がどう扱おうと勝手だろう」
彼は悪びれる様子もなく言い放ち、俺の指先に軽く唇を落とした。
不意打ちの口付けに、顔が一気に熱くなる。
廊下の角で、通りかかったカイルが気まずそうに顔を背けて引き返していくのが見えた。
「ちょっと、誰か見てますよ」
「見させておけ。お前が誰のものか、城の隅々にまで知らしめておく必要がある」
彼は俺の手を引いて歩き出した。
向かう先は執務室だ。
「書類仕事は終わったんですか」
「終わっていない。だが、お前がそばにいないと集中できん」
「それ、ただのわがままじゃないですか」
「王のわがままは絶対の命令だ」
反論を許さない力強さで手を引かれながら、俺は彼の広い背中を見つめた。
何百年も孤独に耐えてきたこの人が、今、こんなにも俺を求めてくれている。
執務室に入ると、彼は重厚な椅子に腰掛け、俺を自分の膝の上に引き寄せた。
「えっ、ちょ、仕事するんじゃないんですか」
「する。お前はここで大人しくしていろ」
彼は俺の腰に腕を回したまま、片手で机の上の書類に目を通し始めた。
背中から伝わる彼の鼓動が、俺の心音と完全に重なり合っている。
血誓の契約で結ばれた俺たちの魔力は、こうして触れ合っている間、滞りなく循環し続ける。
満ち足りた熱が体中を駆け巡り、俺はゆっくりと目を閉じた。
「……静かになったな」
しばらくして、彼が書類から視線を外して俺の頭を撫でた。
「なんだか、眠くなってきちゃいました」
「寝ていろ。余の腕の中なら、誰も邪魔はしない」
彼の声は、ひどく甘く、そして安心感に満ちていた。
道具として扱われ、居場所を求めて彷徨っていた日々は、もう遠い過去のものだ。
俺は彼に身を預け、世界で一番安全な場所で、静かに深い眠りへと落ちていった。




